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ブックラバー宣言

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カテゴリ:クロスオーバー( 21 )

予測不可能な未来に向けて〜『自由のこれから』

b0072887_1984052.jpg 技術の進化は私たちの生活を便利にしてくれたけれど、いやそれゆえに自分で選択する機会を縮減しているようにも思われる。ネット上でワンクリックするだけで読みたい本がすぐに届けられ、次にアクセスした時には推薦書がぞろぞろと画面に表示される一方、店頭で偶然目にした本を衝動的に買うというようなことが少なくなった、というように。

 ──人間の自由意志はどこへ向かうのか? その問題を平野啓一郎が多角的に考えていく。三人の異なる分野の専門家との対論をはさんで、前後に平野の問わず語りの論考を配置するという構成をとる。対論の相手は、製品デザインを手がける田川欣哉、法哲学者の大屋雄裕、システム生物学者の上田泰己。

 田川はデザインエンジニアリングという新しい手法で、ソフトウェアからハードウェアまで幅広い製品のデザインと設計を手がける人物。対論では、テクノロジーと人間との関係から近未来社会における自由を考える。

 ちょっとした刺激や不便をデザインの中に埋め込むことで、人間はより健康になれるかもしれない。そういう観点から見ると、いわゆるアフォーダンスや人間工学のように、客観に預けることが正義のように言われていたのが、ここ十年、二十年だったと思うんですけど、それもある程度一巡して、次のタームに向かい始めているところがありますね。(田川、p59)

 これからのキーワードの一つは「混在」だと田川はいう。SFで描かれているようなピュアな都市は多分実現しない。ゆえに継続性の中で新しいテクノロジーを導入していかなければならない。それは新旧のテクノロジーが混在する状況である。「その混在状態を、誰がどういうやり方で補助線を引いていくかというところなんですよね」。

 社会の多様性・複数性を前提にする田川の考え方は、個人レベルでの多元性を謳歌せんとする平野の「分人主義」とも響き合うものだろう。

 大屋との対論では、主権者たる国民の不安とセクリュティ政策との関係が自由のあり方を決定することを確認していく。大屋自身も「自由」に関する法哲学的な考究をつづけてきた研究者なので、本書の趣旨にもっともフィットした議論になっているように思う。

 自由がどこまで残るかというのは、人民がどこまで不安に耐えて、実際の危険と安全をマネージできるかという心の強さ次第ということになると思います。(大屋、p101~102)

 大屋はまた業界団体や利益団体などの中間団体の解体を否定的にとらえている。すなわち「中間団体を解体していった結果として、バラバラの個人からなる多数者の声が政治プロセスに流入してくる。その圧力を止めるものがどこにもなくなってしまった」と。

 むき出しの個人だからすぐに煽られる。それが現代のポピュリズムのすがただと大屋はいう。いかに社会の組織性を再建するか。古くて新しい課題が来るべき日本社会にあらためて突きつけられているといえそうだ。

 上田は、概日時計(体内時計)や睡眠・覚醒リズムなどをテーマに生命の時間の問題に取り組む研究者。対論では遺伝と環境のあいでゆれるヒトのあり方があらためて議論される。遺伝か環境かという問題は、文学的には決定論か自由意志かという問いに置き換えることができるだろう。

 上田によると概日時計は細胞の中に存在していてほぼ全身に分布している。それはヒトが生きていくうえで有効な「環境予測システム」なのだという。ただしガチガチにシステム化されているわけでもなく柔軟性のあるものらしい。生物学の最前線の話は興味深い。同時に科学の限界や世界の不確定性を繰り返し強調する上田の語りにむしろ一つの知性のあるべき姿を感じた。
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by syunpo | 2018-10-26 19:15 | クロスオーバー | Comments(0)

自民党政権から野村萬斎まで語り倒す〜『平成史』

●佐藤優、片山杜秀著『平成史』/小学館/2018年4月発行

b0072887_1992786.jpg 平成時代を振り返る。佐藤優と片山杜秀の対談集である。正直にいえばあまり面白くない。安倍政権からSEALDsまで、全体をとおして辛口の寸評が繰り出されるのだが、高みからあれもダメこれもダメと全方位的にぶった斬っていくのはこの手の対論にお決まりの仕草とはいえ、批判のしかたがいささか粗雑で違和感をおぼえる場面がけっこう多かった。

 時代の混迷の原因の一つを中間団体(におけるローカルルール)の解体という切り口で繰り返し語るのは異論はないものの、誰もが指摘していることで何を今さら感が拭えないし、社会学全般への批判も大雑把。また少子化の問題について、片山がピエール・ショーニューを引いて現代人のマインドを批判しているのも空疎な観念論というほかない。

 その一方で、橋下維新や安倍首相の政治をポストモダン的と規定してみたり、平成を代表する文化人として片山が野村萬斎を挙げてみたり、斬新な視点を提示しているつもりかもしれないけれど、私には奇を衒った印象の方が強く残る。面白味があるとすれば、佐藤の外交官時代のエピソードや永田町の下世話な楽屋話。話が具体的なぶん楽しめる。

 同種の対論としては浅田彰と田中康夫の憂国呆談シリーズが想起されるが、政治からカルチャーシーンまで世界の動きを手際よく交通整理していく浅田のスタイリッシュな語りに比べると、本書の対話はいかにもダサい感じがする。
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by syunpo | 2018-07-05 19:11 | クロスオーバー | Comments(0)

謎をもらえる人が重要なのである〜『謎床』

●松岡正剛、ドミニク・チェン著『謎床 思考が発酵する編集術』/晶文社/2017年7月発行

b0072887_20162378.jpg 起業家であり情報学の研究者でもあるドミニク・チェンが編集工学を提唱する松岡正剛と語りあう。オシャレな横文字コトバが乱舞し、現代の高度情報化社会を語るにあえて古典的なテクストが参照される。──縦横無尽、変幻自在な言葉の交歓。さながら知の万華鏡のような対話とでもいえばよいか。

 華厳思想が描く重々帝網とインターネットに相似を見出したり、空海とローレンス・レッシグが結びつけられたり。なるほど「編集術」の妙を随所に見出すことができる。二人の博覧強記には感心した。

 ただ正直な感想をいえば、紹介される概念や技術用語を駆使した議論はしばしば私の理解できる次元を超えていて、何やら茫漠とした読後感。そんなわけでこれは読む人を選ぶ本なのだろう。
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by syunpo | 2018-05-25 20:18 | クロスオーバー | Comments(0)

「知性」の再定義を迫られる時代に向けて〜『人間の未来 AIの未来』

●山中伸弥、羽生善治著『人間の未来 AIの未来』/講談社/2018年2月発行

b0072887_18365112.jpg 異業種対談なるものは、往々にして両者が無理に話を噛み合わせようとするあまりに一般化・抽象化に流れてしまい、思ったほどおもしろくならないことが多い。が、本書はその不首尾を免れた貴重な一冊といえようか。

 論題は多岐にわたる。iPS細胞研究の最前線や大学教育の課題、将棋界の新しい動きや藤井聡太論などなど。二人の達人が互いに相手をリスペクトしながら話を進めていく様子は、対談集ならではの肩の凝らない雰囲気を醸し出しながらも知的興奮をもたらしてくれるとでもいえばいいか。

 そのなかでもとくに読み応えを感じたのはAIをめぐる対話。どちらの分野にとっても関連のあるテーマということもあってか多くの紙幅が費やされていて、リラックスしたなかにも濃密な言葉のやりとりが展開されている。

 山中のユーモアをまじえたトークも楽しいが、羽生の勉強家ぶりにも大いに感心させられた。やはり知的な人だと思う。AIと人間の関係をめぐる羽生の問題意識は、知性が抱え込まざるをえない自己言及的な性質を意識したもので、古くて新しい哲学的問題といってもいい。

「今後、私たち人間は「知能」とか「知性」をもう一度定義しなおさなければならなくなるかもしれません」と秀逸な問題提起をした後、さらに言葉を継いでゆく。

「この分野ではAIは人間以上のことができる」とか「これは人間にはできても、AIにはできないだろう」といった議論をしているときに、「では人間が持つ『高い知能』の知能とは、いったい何なんだろう?」とあらためて考えざるを得なくなると思います。(p91)

 山中はそのような発言を受けてAIは「膨大な知識」を持ち、冷静沈着な判断を行なうが、あくまで「優秀な部下の一人」「セカンドオピニオン」にとどまるとの認識を示す。最終的な判断を行なうのはやはり人間である、と。AIは発展途上のテクノロジーだが、研究者としての現時点での当然の結論かもしれない。

 さらに羽生がみずからの将棋観を語るくだりも将棋という一分野にとどまらない普遍性をもったもののように思われる。

 将棋の世界は「いかに得るか」よりも「いかに捨てるか」「いかに忘れるか」のほうが大事になってきます。たとえば自分がすごく時間をかけて勉強したものを捨てることはなかなかできないんですよ。(p133)

 羽生のこのような考え方は、ロラン・バルトの言葉を想起させる。「学んだことを忘れてゆくという経験」を「叡智」と名付けたバルトの言葉を。
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by syunpo | 2018-04-16 18:41 | クロスオーバー | Comments(0)

知のブリコラージュ〜『都市と野生の思考』

●鷲田清一、山極寿一著『都市と野生の思考』/集英社インターナショナル/2017年8月発行

b0072887_19583098.jpg クロード・レヴィ=ストロースの名著『野生の思考』に「都市」をトッピングした標題がいかにも興味をそそる。大阪大学の元総長と現役の京都大学総長との対話集である。

 臨床哲学なる分野を開拓したユニークな哲人とゴリラ研究で名を馳せる霊長類・人類学者によって交わされる言葉は相互に刺激しあいながら専門分野の垣根を越えて、文字どおり都市や自然を自由自在に経巡るかのようだ。

 山際が大学の存在意義について多様性を旨とするジャンクルに喩えれば、鷲田はその文脈で大学を社会実験の場と捉え個性的な人間をあえて野放しにしておくことの意義を説いて対話ははずむ。

 ゴリラの研究から直接導かれた発言もおもしろい。たとえば「ゴリラのリーダーには、二つの魅力が求められる。他者を惹きつける魅力と、他者を許容する魅力」という山際の話は人間にとっても教訓的という以上の深い含蓄に富む指摘ではないか。それに対応する鷲田持論の「しんがりの思想」も興味深い。

 標題にもうたわれている二人の都市論はもっぱら京都を軸に展開されていく。支配者が変わり、国家体制が変わっても生き延びているものの象徴として、街に息づく芸術や祭を考える。その意味では京都は格好の都市といえるだろう。ここでも京都という都市はジャングルに擬えられる。

 さらに京都の街は成熟/未成熟の観点からも称揚される空間となる。

 すごい学者は往々にして、世間から変人と見られる。世間のことなど何も気にせず、自分の世界だけをとことん突き詰めていくからです。つまり未熟さこそが文化の原動力とも言える。そうした未熟さを内にたっぷり抱えていられるのが成熟社会で、京都はその典型でしょう。……(中略)……自分の中の未熟さを守るためにこそ、人は大人になるんだと。(鷲田、p44)

 ファッションに関する論考でも知られる鷲田の制服に関する発言も目からウロコが落ちた。現代人は制服を管理の象徴のように考えるが、そもそも制服は自由の象徴として着られるようになったという。

 ……制服とは自由な市民の衣装のことで、具体的には背広の原型に相当するものです。市民はみんな平等であり、階級も職業も関係ないことを表現するために、みんなが同じ黒やグレーのスーツを着るようになった。(p148)

また、リベラルの語源にあたる単語はもともと「気前がいい」という意味だったという鷲田の語源論にも考えるヒントがいくつもころがっていそうだ。

 後半、ありあわせの食材を使って食事をこしらえる「家事的な発想」の必要性を二人が説くくだりも印象的。いうまでもなくレヴィ=ストロースのいう「ブリコラージュ」なる手法である。

 その意味では本書の対話もまた「ブリコラージュ」的といえるだろうか。系統的に一つの命題に向かっていくというよりも、その場その場の閃きによって言葉がほとばしり出てきて、巧みに前後の素材と組み合わさる「ブリコラージュ」の悦び。都市と野生が結びついた愉しい知の対話集といっておこう。
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by syunpo | 2018-03-19 20:00 | クロスオーバー | Comments(0)

永続敗戦レジームから脱却するために〜『白井聡対話集』

●白井聡著『白井聡対話集 ポスト「戦後」の進路を問う』/かもがわ出版/2018年2月発行

b0072887_1142638.jpg 今も参照されることの多い『永続敗戦論』刊行直後に白井聡が行なった対話の記録を収めた本である。対話の相手は、孫崎享、水野和夫、中島岳志、中村文則、信田さよ子、佐藤優、岡野八代、栗原康、内田樹、島田雅彦、馬奈木厳太郎、猿田佐世……と多彩な顔ぶれ。

 いずれも読み応え充分の対話がなされているが、すべてに言及すると長くなるので、以下とくに印象に残った対話について紹介する。

 近代保守思想を看板に掲げている中島岳志との対論では、グローバリズムによる世界の市場化に対して中島が国民国家の役割を強調しているのはやはり重要と思う。「市場を中心とした経済活動で、非市場的価値をもった最大のプレイヤーが国家。富の再分配をしたり、取引に関税をかけたり、規制をかけたり、極めて非市場的行為を行なうわけですから」とは言われてみれば当たり前の話だが、現実政治では資本と国民国家が露骨に一体化している現代だからこそ、中島の提起する建前を一蹴することはできない。また昨今の国民国家解体(弱体)論に馴致されてきた頭をリセットするにも格好の契機となる発言ではないだろうか。

 信田さよ子との対談では、臨床心理学の見地から昨今の反知性主義を批判的に検討している。昨今、臨床現場では米国仕込みの認知行動療法が定着しつつあるのだとか。それは「誰がやっても同じ効果を生むように構成されてカウンセリングの品質管理の徹底に貢献」したらしい。けれども信田は「日本のような均質性を重んじ同調圧力の強い社会でそれをやってどうなるんだろう」と疑義を差し挟む。認知行動療法と反知性主義を結びつける信田の議論には異論もありそうだが、凡百の反知性主義批判とは一味違うものであることは確かだろう。

 沖縄の問題を語りあった佐藤優との対論もなかなか熱い。いま琉球王朝時代の記憶が折に触れて表面化するのは「廃藩置県の失敗」を意味しているという佐藤の発言は刺激的だ。そうした歴史的経緯を踏まえて琉球独立の問題がかなり真面目に論じられているのは、対談当時(二〇一五年四月)のホットな政治状況をダイレクトに反映したものには違いない。ただ、その後の中央政権による暴政の加速化を知っている現在の読者からすれば楽観的にすぎると言うのは結果論になるだろうか。

 岡野八代との対談では、白井が社会学者・吉見俊哉の戦後日本論を参照して永続敗戦論を展開しているのが目を引く。つまり天皇を中心とした戦前の国体は、戦後、天皇の代わりに米国に入れ替わったにすぎない、という認識である。もちろんそこに岡野のフェミニズム的な視点が加わるので、より多角的な戦後論になっている。

 福島原発事故をめぐる「福島生業訴訟」の弁護団事務局長を務めている馬奈木厳太郎との対談にも学ぶところが多くあった。馬奈木の訴訟方針に関する発言を受けて「原賠法の目的は、原子力事故が起きた際には、四の五の言わずに賠償金を払うことで原発推進政策を維持するという点にあります」と白井が確認している点は核心をつくものだろう。二人の対論をとおして国民が政治のあり方を変えていくために必要なことは何か、多くの示唆が浮かびあがってくる。
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by syunpo | 2018-03-04 11:05 | クロスオーバー | Comments(0)

私たちが得て、失ったもの〜『明治維新150年を考える』

●一色清、姜尚中、赤坂憲雄、石川健治、井手英策、澤地久枝、高橋源一郎、行定勲著『明治維新150年を考える 「本と新聞の大学」講義録』/集英社/2017年11月発行

b0072887_1024131.jpg 朝日新聞社と集英社による連続講座シリーズ「本と新聞の大学」。本書は第五期の講義を書籍化したものである。講師陣は、民俗学の赤坂憲雄、憲法学の石川健治、財政社会学の井手英策、ノンフィクション作家の澤地久枝、小説家の高橋源一郎、映画監督の行定勲。モデレーターは一色清と姜尚中。二〇一八年は明治維新から百五十年目にあたる。この歴史上の画期に様々な観点から、近代日本の歩みを振り返ろうという趣旨である。私たちは、この間に何を得て、何を失ったのか。

 赤坂は渡辺京二の『逝きし世の面影』をベースに江戸時代末期の日本社会のあり方を再吟味する。渡辺の本は日本を訪れた外国人たちの手記をもとに当時の人びとの暮らしぶりを推察した本。漁から帰ってきた漁師たちは、老人や働き手のいない人たちにも蔑む様子も見せずに魚を分け与えていたというような具体的な描写が紹介されている。当時の日本人たちは一様に「幸せで満足そうに見える」という外国人たちの観察はなるほど興味深い。そこから今後の指針を導き出そうとする赤坂の着眼には賛否両論ありそうだが、近世で一般的に行なわれていた「相互扶助」には確かに一つのヒントがあるように思われる。

 井手の講義は同時期に刊行した『財政から読みとく日本社会』の内容を要約したような内容。経済格差を富裕層から貧困層への分配というようなやり方で解消しようとするのではなく「みなが家族のように助け合う」財政政策を構想する。私自身はあまり賛成しないが、財政社会学からの一つの提案として議論の叩き台にはなるだろう。

 行定は同郷(熊本県)の姜との対談という形で登場している。子供の頃の在日コリアンの少年との付き合い、彼の死にまつわる挿話から、映画作りの意味を探っていく行定の語りは痛切な色を帯びている。在日コリアンを描いた『GO』のような作品が生半可な問題意識から撮られたものでないことがわかり、行定作品への関心もより深まったような気がした。

 石川は「国民主権と天皇制」を考えるにあたって、京城帝国大学で教鞭をとった二人の法学者──清宮四郎、尾高朝雄──にスポットを当てる。朝鮮半島に住む人びとをいかに統制していくかは、学者にとっても大きな関心の一つであったらしい。専門的な議論が展開されているので詳細は省くが、「京城帝国大学における学問が『象徴的行為』に着目する現天皇の論理構成と抜きがたい関係にある」という指摘は重要だと思う。戦後も影響力を維持した清宮の学説はそのような背景から生み出されたのであった。

 澤地はノンフィクション作家らしく自身の体験をベースに、自分たちの体験を語り伝えていくことの大切を切々と説く。身内の若者に向けて書いたつもりの本が読まれないことの無念を語っているくだりはほろ苦い読み味だが、それでも「よそのお孫さんあるいはよそのひ孫さんにあたる人たちに働きかけることはやめません」と締めくくって力強い。

 高橋は明治百五十年を小説誕生百三十年と重ね合わせる形で日本の近代史を振り返る。人間が生きているように、小説もまた生き物であるという。「僕たちは文学や小説を一人一人の作家が書いた個別の作品だと考えがちですが、実は、もうちょっと大きい、時代という生き物、文学という一人の身体を持った者が生み出した作品としてとらえたほうがわかりやすい」という認識は名前こそ出てこないけれどネグリ=ハートが打ち出した「マルチチュード」を想起させる。

 政府が推進している明治百五十年の関連施策には批判的な声も少なくない。政治の側からの一方的な広報宣伝に振り回されないためにも、本書のように様々なアングルから検討を加えることは意義深いことだろう。
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by syunpo | 2018-01-27 10:31 | クロスオーバー | Comments(0)

生き延びていくための知恵と技術〜『転換期を生きるきみたちへ』

●内田樹編『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』/晶文社/2016年7月発行

b0072887_9193740.jpg 社会のさまざまな分野で綻びが目立つようになってきた昨今、既存の考え方では通用しない時代がやってきた、そのように言う人が増えてきた。人はとかく自分の生きている時代を歴史的に過大に意味づけたがる習癖があるので、そうした紋切型の認識には注意が必要だろうが、とにもかくにも今や「歴史的転換期に足を踏み入れた」のだと思う人が多いことは間違いない。

 本書もまたそうした文脈でつくられた本である。
 今、私たちが果たさなくてはならない最優先の仕事は「今何が起きているのか、なぜそのようなことが起きたのか、これからどう事態は推移するのか」を若い人たちに向けて語ること。そうした趣旨で内田樹が仲間に寄稿を呼びかけてできあがった。

 同じ版元から出た同種のアンソロジーとしては『街場の憂国会議』『日本の反知性主義』につづく第三弾ということになる。内田のほかに寄稿しているのは、加藤典洋、高橋源一郎、平川克美、小田嶋隆、岡田憲治、仲野徹、白井聡、山崎雅弘、想田和弘、鷲田清一。上に記したとおり、本書の基本認識には必ずしも賛同しないものの、書き手に私の愛読している人が多く入っているので手にとった次第。

 内田樹は「言葉を伝えるとはどういうことか」を若者に向けて問いかける。講義や講演での実体験をベースに、他人の話を「頭で聴く」ことと「身体で聴く」ことの相違を説いて、目指すべきコミュニケーションに一つの指標を与えてくれます。つっこみどころもなくはないが、良くも悪しくも内田節を味わうことができる一文。

 文芸評論家の加藤典洋は憲法九条の改定案を提示しながら、日本の戦後を振り返り、来たるべき将来の国のあり方について考察している。憲法解釈に関して左右両派に批判の目をさしむけ、国連を中心におく改憲案はすでにあちこちで発表したものの要約で、加藤の読者には新鮮味に欠ける内容ながら、戦後民主主義を考えるうえでの一つのたたき台にはなるかもしれない。

 高橋源一郎は広島訪問時のオバマ大統領のスピーチを取り上げて、その技術的洗練とそれゆえに覚える違和感について語る。オバマの演説には「私」はあまり出てこなくて「私たち」という代名詞が頻出することを指摘し、その抽象性を剔出する論考には一理あると思った。

 平川克美は人口減少に関する筋違いの俗論を論破して、これからの社会のあり方を展望する。現在の日本は移行期的混乱にあり、そこから抜け出すためには定常化社会のイメージを描けるようになることが必要だという。法律婚以外の家族のあり方を制度的にバックアップする必要性を主張するのは特段に目新しいものではないけれど、一つの見識を示すものといえるだろう。

 小田嶋隆は若者と職業、夢の関係について語る。村上龍のベストセラー『13歳からのハローワーク』を批判的に言及しつつ職業に生き甲斐を見出そうとすることの非現実性を指摘する。村上本批判は各方面からすでに数多く提起されているが、文章の随所に小田嶋らしいエスプリが効いていて読者を退屈させることはない。

 現代民主主義理論を研究する岡田憲治は同調圧力の強い現代日本の社会のあり方に疑義を呈しながら、それに抗う必要性を力説する。空気ではなく言葉を読み、書き残すこと。自分の言葉で語ること。愚直なメッセージには違いないが、この後に顕在化した諸々の政治スキャンダルをみていると、若者だけでなく責任ある大人たちにも切実な意味をもったメッセージといえそうだ。

 生命科学を専攻する仲野徹は、科学者の立場から根源的な思考について思考しています。よく思考するための思考法とでもいえばよいか。科学とは疑うことによって、時には破綻することによって進歩してきたという科学史のあらましはいかにも若者に向けた話として相応しいものかもしれない。科学的な思考スタイルは日常的にも有意義であることを示唆して本書のなかではひときわ異彩を放っているように感じられる。

 白井聡は、ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を引用して、日本の「消費社会」化を否定的に論じる。政治においても有権者が「お買い物」の論理をもって振る舞うことの弊害を説くのは、想田和弘のいう『消費者民主主義』論と重なり合う点が多いだろう。国民主権の政治社会にあっては国民の知的レベルの向上なくしては政治の向上はありえない。

 山崎雅弘は、自身の研究テーマを下敷きに、国を愛することについてあらためて問題提起する。太平洋戦争で命を落とした多くの日本軍人の死は「無駄」であったのか。その問いに山崎は「『無駄か、そうでないか』は、現在と将来を生きる世代のとる行動によって決まるのです」と応えているのが印象深い。戦後民主主義の価値観に見合う「愛国心」について問いかける一文は山崎らしい問題意識を感じさせるものだ。

 映画作家の想田和弘は、現在の日本を「中年の危機」にたとえ、それに見合った社会の再構築を呼びかける。競争よりも協働、収奪よりも支え合い、量よりも質。こうした議論に対しては同じようなリベラリズムを信奉する論者からも異論はありうるかもしれないが、富の再分配や相互扶助を重視する考え方そのものを否定しきることは困難だろう。

 哲学者の鷲田清一は、自衛のネットワーク、地方に賭ける自立性の回復を訴える。地方とは中央の対義概念ではなく、町方に対置される言葉であり、その観点から、自分たちの生活の再構築を探っていこうとする論考はニュアンスに富んでおり、興味深く読んだ。

 言葉の力。憲法。科学。愛国心。直接語られるテーマは各人各様だが、それらの考察をとおして、これからの時代の生き延びるための知恵や道標が示されていく。若い読者がどのように受け取るのか私にはまったくわからないが、書き手の個性がにじみ出た読みでのあるアンソロジーといえるだろう。
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by syunpo | 2017-07-17 09:20 | クロスオーバー | Comments(0)

源ちゃんが大学で行なった読書のススメ〜『読んじゃいなよ!』

●高橋源一郎編『読んじゃいなよ! ──明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ』/岩波書店/2016年11月発行

b0072887_1855430.jpg 明治学院大学の高橋源一郎ゼミで行なわれた「特別(白熱?)教室」の模様を記録したもの。一冊の本を徹底して読み、その上で著者に教室に来てもらって質疑応答するという形式で、哲学者の鷲田清一、憲法学者の長谷部恭男、詩人の伊藤比呂美の三人が登場する。

 鷲田の哲学談義は総じて凡庸でいささか退屈したが、社会運動に関して述べているくだりは鷲田の創見というわけではないけれど、一つの真理を突いていると思われる。

 僕は基本的にこう考えているんです。自分たちがこう変えたいと思う社会の形とか、あるいは運動の形とかいうのは、それをどうしようってみんなで相談するその集団の中で先に実現されていなかったら、あるいは目指されていなかったら絶対に実現されないということです。(p84)

 長谷部の憲法論はその著作に親しんできた者には新味はまったくない。「良識」をキーワードの一つにしているのだが、論理的に危なっかしい運びなのは相変わらず。学生との質疑応答もやや押され気味。日本政府の情報管理の杜撰さに関する学生の質問に「一〇〇パーセントいつも完璧だという話ではないです」「日本の役人っていうのは、そんなに悪いことをいつも考えている人たちの集団ではないです」などと凡庸な一般論で対応しているのにはズッコケた。こんな講義で学生たちは本当に納得できたのだろうか。

 なかで伊藤のトークには詩人らしい自由奔放さが横溢していていちばん楽しめた。学生に対して媚びることなく「だいたい、あなた方は何も考えていないし、教養もないし、そんな人たちが、我々が一所懸命作ったものを分かるわけがないの、初めから」と挑発的に言い切っているのには感心した。

 最近は新書でもオムニバス形式の講義録が増えてきたが、心から推賞できそうな良書にお目にかかれることは滅多にないというのが率直なところである。
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by syunpo | 2017-03-02 19:03 | クロスオーバー | Comments(0)

苦い現実を直視して考える〜『「戦後80年」はあるのか』

●一色清、姜尚中、内田樹、東浩紀、木村草太、山室信一、上野千鶴子、河村小百合著『「戦後80年」はあるのか ──「本と新聞の大学」講義録』/集英社/2016年8月発行

b0072887_205419.jpg 朝日新聞社と集英社による連続講座シリーズ「本と新聞の大学」第4期の書籍化。現代思想、憲法学、社会学、財政金融論の立場から、戦後七〇年の今が抱える問題と未来への展望を考えるという趣旨である。

 内田の〈比較敗戦論〉は、白井聡の『永続敗戦論』を下敷きにして他の「敗戦国」の戦後のありようを問いかけたもの。その問題設定は一考に値すると思う。後半ではそこから話を展開して、米国のベトナム戦争後のあり方(=カウンターカルチャー)などに言及しながら、米国の強さを「文化的復元力」に求めているのも仮説としてはおもしろい。

〈本と新聞と大学は生き残れるか〉と題する東の講義は、大学の人文系学部の危機は必ずしも人文知の危機を意味しないというテーゼを前提にしていて、凡百の人文知必要論とは一線を画する。一九九〇年代以降、現代思想や批評が政治化・運動化したことを指摘したうえで、それだけではなく、軽薄な要素を含んだ多様な形で知的好奇心を養うことの重要性を述べているのは、たしかに人文学の核心をついているのではないか。このような認識は千葉雅也にも通じるものがある。

〈集団的自衛権問題とは何だったのか〉という問いに応える木村草太の話はこれまで発表してきた見解を中心にまとめられていて、その意味では新味はないものの、安保法制賛成と引き換えに「付帯決議」を引き出した一部野党の動きを一定程度評価しているのは、良くも悪しくも法学者らしい態度といえるのかもしれない。

〈戦後が戦前に転じるとき〉を考察する山室信一の論考は、内田と同じく歴史に学ぼうとするスタンスをとるが、タイムスパンは内田よりも長い。すなわち日本史上における四つの戦争(白村江の戦い、蒙古襲来、文禄・慶長の役、日清・日露・第一次大戦・第二次大戦)とその戦後を視界に入れる。そのうえで太平洋戦争前後の文人たちの飛躍ぶりを振り返り、「戦前」は「忘れたふりをするころにやってくる」と警鐘を鳴らしている。

 上野千鶴子の〈戦後日本の下半身〉をめぐる講義は豊富なエビデンスを参照しながら近代家族の問題を考える。少子化対策をはじめとする日本の家族政策がいかに男性優位の古臭い社会観に裏打ちされているかを指摘する、その舌鋒は切れ味鋭い。経済成長への夢から覚めない人たちの見当外れの政策を支えているのは国民自身である、というまとめの一節もまたピリリと辛い。

〈この国の財政・経済のこれから〉を考える河村小百合は進行中のリスキーな政策運営を批判しつつ、今後想定される財政破綻の具体的状況を描いて財政再建の必要性を力説している。

 この種の本はまとまりを欠くうえに大味な内容のものが多いというのがこれまでの印象だったけれど、本書における個々の講義はいずれも簡にして要を得たものである。タイトルに即していうならば「人の命を直接奪う戦争がなくても、経済的危機が新しい『戦前』と『戦後』をつくり出すかもしれない」という一色清のあとがきの一節もまた本書の問題意識の射程の広さを示唆するものだろう。意外といったら失礼かもしれないが、たいへん勉強になった。
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by syunpo | 2016-11-28 21:00 | クロスオーバー | Comments(0)