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ブックラバー宣言

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思わず武満のCDを聴きたくなった〜『芸術新潮』

●『芸術新潮』〜特集・はじめての武満徹/新潮社/2006年5月号

b0072887_20574883.jpg この雑誌を手に取ったのは初めてだ。武満徹の名に惹かれて、つい買ってしまった。今年は、武満徹没後一〇年ということで、この偉大なる作曲家を追想する企画があちらこちらで行なわれているわけである。
 本誌では、その特集タイトルからも明らかなように、難解な批評は退けられて、あくまで武満のイントロダクションに徹した構成になっている。生前のマルチな活動ぶり、多面的なプロフィールについて詳しく知らなかった私は、それなりに楽しめた。

 何よりもまず、掲載されている写真が面白い。音楽家を好んで撮る木之下晃の作品が随所に配されている。なかでも、特集の扉を飾る武満の横顔が素晴らしい。手を顔の前で合わせてまるで祈るような表情に「指が綺麗」という撮影者のコメントが付されている。
 あるいは、Patrick McArdellが撮影した写真。岩城宏之とメルボルン交響楽団が武満作品を演奏するコンサートのリハーサル風景。客席にポツネンと座って巨大な楽譜を見ている武満の背中とステージ上のオケ団員を、後方から引いて撮ったショットは何とも印象深いものだ。

 記事で興味深かかったのは、美術好きでも知られた武満の美術作品からインスパイアされた作品の紹介と、その挿話である。
 パウル・クレーの《余白に》から啓示を受けたというオーケストラのための作品《マージナリア》。マン・レイがデュシャンの星型に剃られた頭部を撮影した写真《剃髪》の視覚体験から生まれたオーケストラのための《鳥は星形の庭に降りる》。友人の作曲家、ルーカス・フォスから届いた絵葉書にヒントを得た《森のなかで》。
 それぞれの絵画や絵葉書の写真を添えつつ、武満自身の著作から該当する記述を抜粋する、という気の利いた構成だ。
 また、三一書房から刊行された『中井英夫作品集』は、武満徹が装丁していることを初めて知った。みずからの図形楽譜のイメージを転用したということだが、なかなかシブいデザインだ。

 CD五八枚の圧倒的なボリュームで話題を集めた小学館・武満徹全集の大原哲夫編集長の苦労談は何やら全集の宣伝めくが、武満理解には欠かせない他社の労作を取り上げた公正な編集姿勢は、評価されてよい。
 武満が手がけた映画音楽に関しても、かなりの紙幅が割かれていて、思わず録音を聴きたくなるのは私だけではないだろう。
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by syunpo | 2006-04-26 21:03 | 雑誌 | Comments(4)

外国人と議論する前に読んでおく本〜『日本という国』

●小熊英二著『日本という国』/理論社/2006年3月発行

b0072887_17171256.jpg 本書は「中学生以上すべての人」に向けて書かれた理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの一冊。これまで大部の著作に真価を発揮してきた小熊英二が、こうした「小品」でどのように健筆をふるっているのか、興味津々で手にとった。期待に違わぬ良い本だ。「日本という国」の成り立ちを、明治時代と戦後のふたつの時代について、世界史的な見取り図のなかで、ラフスケッチしている。

 前半の明治時代については、著者が現在勤めている大学の創始者、福沢諭吉の考え方に代表させて、もっぱら教育制度の成立過程について述べている。大胆な方法だが、決して大きな偏差を感じさせない手際は、見事だ。
 日本が、東洋の一国としていかに西洋列強との対抗軸を打ち出したのか。そのうえで、教育をどのように考えたのか。今、私たちが享受している学校制度が、どのような世界環境のなかから生み出されてきたのか、わかりやすく説かれる。
 強制的に国民に教育を与えることが「富国強兵」策を進めるうえで効果があると考えられたこと。知識を得た者が国家に不満を持たぬように忠誠心を育てる課程も盛り込まれたこと。そのような教育体制が確立される理論的根拠として、福沢の考えが基盤にあったことが示される。福沢の思索は、当時の世界史的な流れのなかで必然的に行き着いたものだが、それ故の限界や誤謬もあったことがよくわかる。

 戦後日本の道のりは、米国との関係を軸に、占領政策や憲法制定の経緯、安全保障の問題やアジア諸国との関係などが、これまた要領良く記述されている。
 憲法第九条の米国から見た場合の意義付け(米国で実現されなかった民主主義の実験)を興味深く感じる読者も多いことだろう。日本がサンフランシスコ講和条約を結んで独立国となった際に、日本が得たものと失ったものが明快に論じられて、米国に服従しなければならない歴史的背景が、くっきりと浮かびあがるだろう。同時にアジア諸国との関係が今なお困難を極めていることの原因も、よく認識されるに違いない。

 小熊英二の著作に親しんできた者にとって、ここに書かれてあることに新たな知見をみいだすことは、あまりない。彼の仕事のこれまでのエッセンスが凝縮されている、といった趣である。逆にいえば、初めて小熊の本を手に取ったという読者には、格好の入門書といえるかもしれない。

 自分の周囲のことしか関心をもたない人が多くなったーーといわれる現代ニッポン。たとえば、アジア諸国の人々の反日感情のよってきたる原因をよく知らぬ人が、何かの拍子に本書に触れたとしたら、彼らとの関係を、読む以前よりも感情を抑えて物静かに考えることができるようになるだろう。それは、単なる知識の吸収というレベルにとどまらない、意義深いことだと思う。

 著者は、まえがきに記している。

 この国のこと、そのしくみや歴史を知り、いまの状態がどうやってできてきたかを理解する。そういうことは、めんどうくさいけれど、必要なことだ。なんといっても、私たちはこの国に生きていて、この国が進む方向によって、自分の運命も左右されかねないのだから。
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by syunpo | 2006-04-20 17:32 | 思想・哲学 | Comments(8)

スリルに満ちた言葉の交感〜『対話の回路』

●小熊英二著『対話の回路 小熊英二対談集』/新曜社/2005年7月発行

b0072887_2249476.jpg 『単一民族神話の起源』『〈日本人〉の境界』などの力作を世に問うた実力派学者の対談集である。対談相手は、村上龍、島田雅彦、故網野善彦、谷川健一、赤坂憲雄、上野千鶴子、姜尚中、今沢裕……と多士済々だ。
 対談とは銘打たれているが、多くは、著者がもっぱら聞き手に回って対談相手の話を引き出す体裁になっている。よく言われるように、小熊は相手の仕事を丹念に読み込んで精緻な質問を繰り出し、時に相手をたじろがせる。したがって、ここに名を連ねた作家や学者たちの仕事の再吟味といった意味でも、極めて有意義な書物といっていいだろう。
 小熊英二自身の著作にせまっているのは上野千鶴子で、『〈民主〉と〈愛国〉』をめぐりスリリングな対話が交わされているものの、これは聞き役の上野のツッコミが無理やりな感じで、今一つ冴えない。
 いずれにせよ、本書全体を通じていえるのは、そんじょそこらの御座なりの対談でない、ということだ。

 私が最も印象に残ったのは、冒頭の村上龍との対話だ。小熊は、今、この社会を被いつつある「日本人が劣化している」「この国の制度が崩れてきている」式の言い方に苦言を呈している。

 現在起きていることは、けっしてあるものが崩れて、「だめ」になってきたのではなくて、変化しているのだと思うんですね。それは特定の価値観から見ると、崩壊して、だめになりつつあると考えると思うんですけれども、そう考えてしまうと話は終わってしまう。(p55)

 ……少年犯罪が起きていますとか、景気が悪くなってきましたとか、官僚の不祥事が起きていますとか、そういったことを何とはなしに全部つなげて、「日本がだめになっている」という言い方をするというのは適切ではないと思うんですよ。それでは個々の問題に対して適切な処方箋も出せないと思うんです。(p57)


 すべてを大雑把にわかりやすい「物語」に回収してしまう現代の風潮を、小熊と村上は、やんわりと窘めている。「日本社会の危機」を救えるような万能のソリューションなどない、個々の問題に対して、より丁寧に向かいあうこと、「言葉の回路」を考えること——の大切さを強調するのだ。

 また、今は亡き網野善彦との対談も、内容は濃い。網野に批判的な質問を重ねつつ、最終的には日本の多様性を叙述する網野史観の豊かさや可能性を引き出している。
 姜尚中との対話では、ポピュリズムをめぐってその危険性や問題点を指摘しながら、石原慎太郎や横山ノックらの登場に疑問を投げかける。

 「単一民族」「日本人」「民主」といった一見すると素通りしてしまいそうなキーワードから大部の書物をモノにした著者ならではの、含蓄に富んだ「言葉」たちを味わおう。
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by syunpo | 2006-04-15 22:52 | 思想・哲学 | Comments(2)

売れっ子作家の偉大なる失敗作〜『盾シールド』

●村上龍、はまのゆか著『盾シールド』/幻冬舎/2006年3月発行

b0072887_11222332.jpg 基本的に当ブログでは、読んでつまらなかった本は取りあげない。記事を書いている間にもつまらなさがこみ上げてきて、二重の苦痛を味わうことになるし、批判、ボヤキ、辛口タッチの記事は私のメインブログ「コラムニスト宣言」でやっているので。
 でも、例外もある。つまらなかったけれど、そんなにヒドいつまらなさじゃないときには、せっかくだから悪口くらいは書いておこう、と思ったりしないわけでもない。特に「ブランド品」の場合には。

 そこで、登場するのが村上龍センセイ話題の絵本である。
 これは、はっきりいって、期待ハズレ。ほかの作家の仕事なら、こんな絵本を買ってしまった自分の不明を恥じて、読まなかったフリをするところだが、一応、村上龍の仕事である。あの『限りなく透明に近いブルー』で文壇に殴り込み、『愛と幻想のファシズム』を世に問い、『希望の国のエクソダス』をモノにし、『半島を出よ』をブチカマし、『13歳のハローワーク』で先生方や生徒さんを喜ばせた作家先生の作品であるから、ちょっとチェック入れておくか、と大の大人が思ったとてバカ呼ばわりされることもないだろう。

 ここに書かれてあることは「説明」だ。
 二人の描き方が、いかにも皮相的で図式的なのだ。一人は、有名企業に勤め、営業をバリバリこなして出世したけど、会社をクビになった途端に、自分には何も「手に職がない」ことを自覚する。一方は、犬の訓練士になってシェパードのこととか詳しくなって、ドイツ語もマスターして「スキル」を身に付ける。

 良く出来た絵本というのは、もっともっと「豊かなる抽象化」がなされていて、富士山麓の湧水のようにイマジネーションがあふれるがごとく喚起されるものだ。私は、村上龍センセイの体のいい「お説教」を聴かされたような気がした。何歳の子供をターゲットにしたのかは知らないが、「この世には自分より賢い人がたくさんいて、そういう人も自分の絵本を読むんだ」という執筆者として最低限もつべき緊張感があまり感じられない。

 新聞広告では、吉本ばななが賛辞を贈り、アマゾンのブックレビューでも概ね好意的な感想が寄せられている。ふーん。
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by syunpo | 2006-04-12 11:26 | 文学(小説・批評) | Comments(2)

弱者の立場に居直ること〜『老いる準備』

●上野千鶴子著『老いる準備 介護すること されること』/学陽書房/2005年2月発行

b0072887_1319142.jpg 本書の底流を貫く考え方は、チマタにあふれる「高齢者はできるだけ社会のお荷物にならないよう健康体を保とう」という「みのもんた的」言説と、何かといえば「家族の絆」を訴えて「明るく楽しいマイホーム」づくりに誘導してやまない「広告代理店的」言説による社会の同調圧力に対する毅然とした否定である。

 人は呆けたくて呆けるわけではない。どんなに頑張っても、呆けることもあるし、足腰が立たなくなることもある。若々しさへの飽くなき信仰は、その裏返しとして、心ならずも若さや精気を失った高齢者の「生き難さ」へとつながる。
 また、介護保険制度がスタートせんとする時、水を差した亀井静香の「家族は家族が看る日本の美風」発言とは何だったのか。ここでの「看る家族」とは、もっぱら「長男の嫁」を指すことくらい日本人なら誰でも知っている。女性を家庭に縛りつけ、介護という名のタダ働きを強要してきたのが、これまでの日本社会ではなかったか。

 そこで、上野千鶴子は主張する。
 知恵があろうとなかろうと、自力での生活が可能だろうと無理だろうと、人はどのような状態になっても、誰に憚ることなく生きる権利を謳歌していいのだ、と。
 そして、高齢社会では家族介護だけではとうてい乗り切ることはできない、介護の社会化が必須なのだ、と。

 著者は介護保険制度をとりあえず評価して以下のように述べている。
 
 介護保険が税方式ではなくて保険方式になってよかったという理由のひとつは、介護保険が、それまでの高齢者福祉を、措置から契約へ、恩恵から権利へと変えたことである。福祉行政をめぐるこのパラダイム転換の意義は大きい。(p112)

 これまでタダで行なわれてきた家族介護が社会化されることで、長男の嫁は介護の責任から少しだけ解放され、介護される側は嫁への負い目を回避して堂々と対価を支払って介護サービスを受けられるようになった。
 サービスが有償であることは非常に重要なことである、という。
 
 本書では、介護する側・される側の両面から、よりよい介護とは何かが追究される。
 介護サービスの担い手として、「官」「民」「協」の三つが考えられる。結論だけを言えば、「官」は非効率で、「民」は利潤を最優先するために利用者にとって最善のサービスが必ずしも保証されない。そこで期待を寄せるのが「協」すなわち市民事業体である。

 市民事業体とは、営利を目的としないで、市民が地域のケアサービスの担い手になる活動である。いずれは自分たちも需要サイドにまわることを前提に、その時に自分自身が受けたいと思うようなサービスを供給する。(p143)

 具体的には、生活共同組合傘下の「ワーカーズ・コレクティブ」の活動に、ひとつの希望を見いだしている。そこでは、自身の介護に悔いを持つ主婦たちが集まって、自分たちが苦労したことを基礎に、あくまで利用者のニーズにあったサービスが模索されている。
 もちろん、そうした活動にも冷ややかな視線が注がれることもあるだろう。単なる自己満足ではないのか、と。

 人間が自分が生きてる間に、誰かに必要とされたいと思うのは、不純どころじゃない、人間にとって自然な動機だとわたしは思う。誰かに必要とされて、赤の他人にでもいい、ありがとうと言われて、ああわたしはここに生きててよかったと思える、それを自己満足と呼ぶ。それでいいと思う。(p231)

 上野千鶴子の考え方は、みずからも白状するように「団塊の世代」のライフスタイルや指向を色濃く映し出している。家族や社会よりも自分が大事。老後のケアをあまり子供に期待しない。仕事一筋の高度成長世代とは違って「遊び」にも罪悪感を持たない……などなど。
 彼女の徹底した家族(制度)への不信感には、少したじろがないでもないが、その幅広い知見からくり出される切れ味鋭い提言に、賛成する者も反発する者も、少なからぬ知的刺激を得ることだけは間違いない。

 ちなみに、本書でも「ジェンダー」という言葉が、何度か登場する。昨今、自民党の政治家など保守オヤジによって繰り広げられている「ジェンダー」論議が、いかに問題の本質を矮小化した愚劣なものかは、本書を読む者なら喝破できるだろう。
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by syunpo | 2006-04-11 13:24 | 社会学 | Comments(6)

『インターネットは誰がコントロールすべきか』

●イグナシオ・ラモネ『インターネットは誰がコントロールすべきか』(北浦春香訳)/ル・モンド・ディプロマティーク日本語電子版/2005年11月号

b0072887_1013647.jpg イラクへの侵攻も、WBCと称する野球の「国際大会」の開催も、国際機関などヘノカッパとばかりに、米国一国が取り仕切って盛大に行なわれた。その結果は、綻びだらけの無残なものだった。米国の思い上がった一極主義への非難が全世界で高まりつつある昨今、今一つ米国の「独占」体制が、問題になっている。
 インターネットだ。
 一九八九年以降、世界のネットワークの運営にあたっているのは、米国にある民間非営利法人のICANN(The Internet Corporation for Assigned Names and Numbers)である。この法人は、ロサンジェルスに拠点を置く民間非営利団体で、カリフォルニア州法を準拠法とし、米国商務省の監督を受けている。すなわち、あくまで米国の組織であって「国際組織」ではないのである。
 したがって技術的には、米国は、どの国のどのウェッブサイトへのアクセスでも制限できるし、また、世界中の電子メールの送受信をどれでもストップさせることも可能なのだ。

 こうしたインターネット運営の現状に対して、イグナシオ・ラモネ(ル・モンド・ディプロマティーク編集総長)の論文は、真っ向から異議を唱えるものである。

 インターネットをめぐる争いは、地政学的な様相を帯びている。グローバリゼーションが進み、通信が基本的な戦略資本となり、無形の財の取引が急速に発展している世界では、通信網が大きな役割を持つ。インターネットのコントロールを掌握した大国は、戦略上決定的に優位な地位を得る。それは、19世紀に英国が、世界規模で航路をコントロール下においたことで世界を支配したのと似ている。

 インターネットは、たしかに米国で発明された。それは冷戦下、かりに核攻撃を受けてもその攻撃に耐え、生き残った人々が反撃に向けて連絡を取り合えるような通信手段として、開発されたものである。
 だが、インターネットは今や、当初のそうした開発目的をはるかに超えて全世界の人々に広く深く浸透したテクノロジーとなった。米国の特権をこれからも許し続けなければならない理由などひとつもない。

 イグナシオ・ラモネは結論する。おそらくは、一部の傲慢な米国人を除く全世界のインターネット利用者も、同じ思いでいることだろう。

 ICANNを米国のコントロールから切り離すよう要求するときが来た。今やICANNは国連の下の独立した組織とすべきなのだ。
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by syunpo | 2006-04-10 20:29 | 国際関係論 | Comments(0)

東西対立の狭間で見たもの〜『見ることの塩』

●四方田犬彦著『見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行』/作品社/2005年8月発行

b0072887_107026.jpg 四方田犬彦の海外滞在記は、あの小田実の猪突猛進型の好奇心に、学芸的な知性と教養をプラスしたようなものといえばいいだろうか。すなわち滅法面白い。
 本書は、前半がイスラエル・パレスチナ、後半が旧ユーゴの旅の随想録といった体裁になっている。この二つのエリアは、もちろん相異なる文化と歴史を有しているが、重ね合わせることで見えてくる光景もある。

 いずれもが、ヨーロッパとアジア、キリスト教世界とイスラム教世界が交差しあう境界領域にあたり、社会の内側にもこの二項対立が顕在化している。そこでは、公式的には西なるものは「文明的」で善であり、東を連想させるものは「野蛮」で悪である、という見立てが成立しているのだ。
 イスラエルの占領地域では分離壁が築かれ、パレスチナ人は日常的に不自由な暮らしを強いられている。検問所でイスラエル兵がパレスチナ人に対して行なっている日常的な嫌がらせに、著者は顔をしかめる。
 バルカン半島では、クロアチア人は西側との近接性を主張して、セルビア人を野蛮なバルカンの徒と見なし、セルビア人はボスニア・ヘルツェゴビナ人をオリエントの遅れた者として見下ろしている。そこでは、互いに理解しあうという意欲すら喪失させたまま、偏見と黙殺の視線だけがむなしく行き交っている。

 四方田は、かつて二つの地域がオスマントルコ帝国の領土であったこと、そこでは異なる宗教をもつ異なる民族が、それなりに溶け合って生きていたことを想起する。何が、彼らをして憎しみの連鎖の中に引き入れてしまったのか——。
 混乱のなかで、時にみずからの民族的宗教的アイデンティティをめぐって苦悶する人々を活写しながら、いつ果てるともない二つの地域の対立を見つめる著者の視界もまた憂鬱な色彩に隈取られている。今日、国際関係を論じようとする者にとっては、必読の書といっても過言ではないだろう。
 なお、本書のタイトルは、次の高橋睦郎の詩句から引かれている。

 私の見ることは塩である。
 私の見ることには 癒しがない
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by syunpo | 2006-04-09 10:09 | 国際関係論 | Comments(2)

ジャズ好きのあなたに〜『TALKIN'』

●小川隆夫、平野啓一郎著『TALKIN' ジャズ×文学』/平凡社/2005年10月発行

b0072887_16172481.jpg ジャズ・ジャーナリストとして知られる小川隆夫と芥川賞作家の平野啓一郎という異色のキャスティングによる対談集。
 本書のタイトルは、いうまでもなくマイルス・デイヴィスがプレスティッジ・レーベルに残したマラソン・セッションの録音シリーズ「RELAXIN'」「STEAMIN'」「WALKIN'」「COOKIN'」をモジったもので、当然ながらトークの中心にはマイルスがすわっている。
 とはいってもマニアックなだけのジャズ談義ではない。時にショパン、あるいはピカソの絵画へと、二人のイマジネーションの翼は自在に羽ばたいていく。

 日本におけるジャズの受容は、六〇〜七〇年代、「政治の季節」のなかで独特のニュアンスを帯びて社会的な位相を有する時期があった。本書と同時期に刊行された平岡正明の『昭和ジャズ喫茶伝説』が、その時代の雰囲気を伝えて秀逸だが、本書では、あくまでも「音楽」としてのジャズが語られる。
 「昔のことなんか知っちゃいない」と、これからジャズを聴き始めようという人に、とりわけオススメできるかも。
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by syunpo | 2006-04-08 16:24 | 音楽 | Comments(0)

暴力の運動体として〜『国家とはなにか』

●萱野稔人著『国家とはなにか』/以文社/2005年6月発行

b0072887_15471654.jpg 気鋭の学者による書き下ろしである。国家を真正面から考察する、その直球勝負にまずは敬意を表しておくべきか。
 本書のキーワードは「暴力」である。国家は「幻想の共同体」でもなければ、社会契約に基づく統治機構でもない。それは、端的に「暴力」としての絶えざる運動体である。
 もちろん、国家は公共事業や福祉政策によって国民に富を再分配し、軍隊や警察によって国民の安全を保障する。それは、国家の暴力に国民を自発的に服従させるための、暴力と一体化した国家の特質である、と筆者は考える。

 国家は暴力の実践に先だっては存在しない。暴力が組織化され、集団的に行使されることのひとつの帰結として国家は存在している。(p43)

 本書では、そうした国家像を描くために、マックス・ウェーバーやヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・フーコーらの暴力をめぐる洞察が援用される。だが、そのような「古典的」な知に拠点を築いているからといって、本書が机上の観念的な国家論を提示しているわけでは、もちろんない。
 とりわけ、安全の名のもとにますます警察権力の強化が企図される日本にあって、筆者の認識は、ますますアクチュアルな正当性を帯びてくるように思えるのだ。

 何かといえば、「公共性」だの「国家の品格」だのと声高に叫ばずにはおれない近頃のヒヨワな国家主義オヤジとは無縁の、強靱かつ明晰な国家論である。
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by syunpo | 2006-04-08 15:49 | 思想・哲学 | Comments(0)

面白うて、タメになるトーク集!?〜『文芸漫談』

●いとうせいこう、奥泉光著『文芸漫談 笑うブンガク入門』/集英社/2005年7月発行

b0072887_19594019.jpg いとうせいこうと奥泉光という当代きってのクセ者二人が繰り広げるまさしく「文芸漫談」である。実際に二人で「舞台」に立ち、喋りまくった「巡業」の記録だ。

 二人のやりとりは、一見、ケイハクにみえて、どれも啓発精神に富んでいる。いとうせいこう自身の言葉を借りれば「クスクス文学がわかる」本だ。本人たちが言っているのだから間違いはなかろう。

 たとえば、文化的コードをめぐって。
 「しずかさや 岩にしみいる 蝉の声」という俳句における蝉は、何匹いるか。
 ……蝉は「無数」に鳴いていて、個体性を持たないがゆえに「静か」に岩にしみいっていく。これが日本の文化コードに基づく解釈である。しかし、さる外国人留学生は「一匹、せいぜい二匹」と主張した。蝉がたくさん鳴いていたらうるさいだけ、と単純に考えたのだろう。この句をめぐる二人の掛け合いは秀逸だ。
 そして奥泉は、文学の意味づけを「コードに従いながらコードを揺るがす」ことにある、とさりげなく主張する。

 あるいは「ユーモア」をキーワードに文学を語る部分も面白い。いい小説を「笑える小説」と定義づけて、田山花袋も志賀直哉も、ユーモアで切り取って再生させる。

 奥泉の作品を読んでいなかった私は、思わず、彼の作品を求めて書店に走ったほどだ。いとうのツッコミも随所に効いている。

 難があるとすれば、渡部直己が記す下段の注釈だ。ちょっとダサくて邪魔な気がする。
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by syunpo | 2006-04-07 20:07 | 文学(小説・批評) | Comments(2)