人気ブログランキング |

<   2008年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧

映画へのオマージュ〜『楽しみと日々』

●金井美恵子、金井久美子著『楽しみと日々』/平凡社/2007年4月発行

b0072887_17311263.jpg 作家と画家という姉妹によるコラボレーション。映画に造詣の深い金井美恵子のエッセイに、姉の久美子が造ったオブジェの写真が添えられる。手にとってパラパラとページを捲っているだけでハッピーになるような、美しくかつ楽しい本だ。

 話題にのぼっているのは、エリック・ロメールやジャン・ルノワール、フレデリック・ワイズマンや山中貞雄、成瀬巳喜男などで、彼らのフィルムの魅力が、女優の衣裳や動作といった細かな分析などを織り込みつつ、ちょっと独特の視点から綴られている。女蓮實重彦ともいうべきクネクネと続いていく文体は読みやすいとは言い難いが、映画への愛情は充分に伝わってきて、引き合いに出される他の映画作家への辛口の批評もさほど刺々しい感じにはならない。

 「出逢いのもんでんなあカツドウシャシンは」というアラカンのセリフを引用した山中貞雄論なんてなかなかのもので、『人情紙風船』はずいぶん昔に銀座の並木座(だったと思う)で観たきりだし、やっぱりもう一度見直さなきゃ、と思ったりするのであった。
by syunpo | 2008-09-30 19:01 | 映画 | Trackback | Comments(0)

線を引くことの暴力性〜『境界線の政治学』

●杉田敦著『境界線の政治学』/岩波書店/2005年2月発行

b0072887_22251585.jpg 著者は気鋭の政治理論学者として知られる。本書は、一九九八年から二〇〇四年にかけて発表した論文をまとめたもので、タイトルにあるように「境界線」をキーワードにした政治学的論考である。

 ここでは、国境線をはじめ、民族、文明、階級などの「境界線」をめぐる政治、あるいは「公的領域と私的領域」「正戦と非正戦」「戦闘員と非戦闘員」などの政治的二分法について考察が加えられる。それは「境界線を引く」ことの政治性・暴力性についての論考といいかえてもよい。

 第一章では、境界戦の引き方の代表的な例として空間における境界(国境など)と人間の群れにおける境界(人種・民族・階級など)を挙げて、その歴史的展開が概括される。
 そのうえで、境界線が内部の秩序の安定化に寄与してきた一方、排除的な機能をもつことを自覚することの重要性が説かれる。境界線の存在を認めつつ境界線を相対化すること。そのことが求められているのである。

 第二章では、国民国家以後の政治理論が直面している問題、具体的には「国民化」に伴う両義性などについて、ミシェル・フーコーやカール・シュミットに依拠しつつ論じられる。
 「国民」が人為的な存在であることは疑いを入れないが、あらゆる「結社」も、さらには「個人」もまた人為的な存在であることを免れない。われわれは、どのような政治単位を選んだところで、外部に対する暴力性を孕みもってしまう。

 政治理論が今直面している課題は、国家からの「解放」ではなく、われわれの想像力を縛る一切の境界の「開放」である。(p52)

 本書の総論に相当する第一、二章を受けて、以下の章では各論的な記述が展開される。
 第三章では、自由主義者と共同体主義者との間に闘わされた論争についての検証が試みられる。両者が前提していた「同質性/差異」という対立が必ずしも明確なものではなく、その意味で二分法的な構想の限界を指摘する記述にはそれなりに説得力を感じた。

 第四章では自称「ポスト・マルクス主義者」のエルネスト・ラクロウの政治理論、第六章ではマイケル・ウォルツァーの正戦論が批判的に吟味されていて、いずれも切れ味鋭いが、「契約と闘争」と題された第五章もなかなかに示唆に富む内容である。
 とりわけ、社会契約論と日本国憲法との関連を述べたくだりでは、制定の経緯に関して正統性を疑問視する「契約原理主義」的な立場(押しつけ憲法論)に対して、政治的なプラクティス(実践・慣行・制度)が長い時間をかけて形成されるプロセスを重視する立場を打ち出している点など興味深く読んだ。
 そもそも契約の主体となるべき国民の範囲が必ずしも自明ではない以上、契約を強調しすぎることで国民の境界線を確定する際にみられた暴力的な側面が忘れさられてしまう、と著者はいう。

 九・一一以降、境界線の流動化を異常な状態とみなし、敵と味方とを鋭く峻別するような政策が強化されつつある昨今の政治状況にあっては、本書の内容は理論的であると同時にアクチュアルな意義をも有するものといえるだろう。
by syunpo | 2008-09-27 22:31 | 政治 | Trackback | Comments(0)

キシャクラブの開放を!〜『ジャーナリズム崩壊』

●上杉隆著『ジャーナリズム崩壊』/幻冬舎/2008年7月発行

b0072887_19394385.jpg 安倍政権の舞台裏を描いた『官邸崩壊』に続く著者の「崩壊」シリーズ(!?)第二弾ともいうべき本である。今回標的になったのは、ジャーナリズム。なかでも以前から日本独自の問題点として糾弾され続けてきた記者クラブ制度が槍玉にあげられている。ここでの論点に特に目新しさはないものの、大手メディアが記者クラブ制度という既得権益の維持に如何に血眼になっているか、具体的な事実を積み上げながら批判していく筆致には、やはり格別の説得力が宿っているといっていいだろう。

 記者クラブの存在が公権力との癒着の温床になってきただけでなく、クラブに属さない雑誌記者やフリージャーナリスト、海外メディアの特派員たちの取材を意図的に妨害しているという事実には何とも暗澹たる気持ちにさせられる。
 たとえば、ニューヨーク・タイムズの東京支局長が小渕恵三政権当時、首相への単独会見を申し込んだ際、「内閣記者会(内閣の記者クラブ)の了承を取りつけてほしい」といわれ、案の定了承を得られずインタビューを断念したという事実。
 石原慎太郎東京都知事が閉鎖的な記者クラブ制度に対抗するため、定例会見とは別に記者クラブに属さないジャーナリスト向けに知事主催の会見を開いていたことがあったのだが、情報の独占体制を崩される懸念を感じた記者クラブ側がいろいろと横やりを入れて中止に追い込んだという事実。
 ……これらの挿話を読むと、新聞社やテレビ局の記者連中に「取材・報道の自由」を叫ぶ資格のないことがよく理解できる。

 このほか、報道と経営の区別がつけられていない新聞社の悪弊、ネタ元を明確にしない新聞のアンフェアな慣習、政治家の推薦状が飛びかうNHKの採用試験……などなど日本の大手メディアの異様な慣習や実態があぶりだされて批判の種は尽きない、といった趣である。

 文章がいささか未整理で論点が行きつ戻りつする構成に推敲の不足を感じたのと、海外とりわけ米国メディアを無批判に比較対象としている点などが少し引っ掛かったが、本書の評価に大きな瑕疵となるものではない。
by syunpo | 2008-09-14 19:56 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

「今=ここ」に生きる〜『日本文化における時間と空間』

●加藤周一著『日本文化における時間と空間』/岩波書店/2007年3月発行

b0072887_19192810.jpg 「渾身の書き下ろし」という謳い文句どおり、これはなかなかの力作であると思う。著者の博覧強記は誰もが知るところ、古今東西の宗教、文芸や美術への幅広い目配りと深い思考に支えられた出色の日本文化論といえる。

 加藤は日本文化の特色を時間と空間の二つの軸から考察し、他の文化と比較して「今=ここ」に生きる要素の大変強いことを主張する。

 古来、日本人にとって「現在」の出来事の意味は、過去の歴史や未来の目標との関係において定義されるのではなく、それ自身として決定される。日本語の文法をみても、過去・現在・未来を鋭く区別しない傾向にあり、それはたとえば動詞の現在形と過去形を自由に違和感なく混用することが可能であることからもうかがえる。
 また同時に、出来事はもっぱら当事者の生活空間(家族、ムラ共同体など)の内側で生起し、そのため人々の関心は集団の内部に集中し、外部に及ぶことが少ない。
 すなわち、時間においては「今」に、空間においては「ここ」に集約される世界観が日本文化の基層を成している、というのが著者の認識である。

 そのような世界観を反映する表現として、文学では連歌やそこから派生した俳句にみることができるし、身体表現としては一瞬の静止とその視覚的効果が繰り返される能や歌舞伎などにみとめることができる。美術においては、一見出来事の連鎖を描いているようにみえる絵巻物も等価的に場面が並んでいるという点で「現在を過去および未来から切離して独立に完成しようとする強い傾向」を表象するものである。

 また、自己の外部にある規範や現実を観察し、再現し、理解することよりも、自己の内部にある感情や意思の表現に向かうような「主観主義」の原理を、日本の書画や建築、さらには江戸後期の倫理観に見出すのである。

 そうした「今=ここ」に集約されるような志向は、部分と全体との関係に還元することができる。すなわち部分が全体に先行するのだ。その心理的傾向の、時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。
 「今=ここ」に重きをおくスタイルは、現在の日本人の生活様式や政治行動をも規定している、と加藤はいう。その主張は論旨明快、かつ多くの日本人の実感にも適うものであるだろう。

 ただし、加藤のそうした議論の運びに対しては、いささか肯んじえない点もある。
 「今=ここ」に生きる日本人像を描くにあたって、古くからのムラ共同体のあり方を一つの思考モデルとしているのだが、自説の展開に適用しやすい共同体の閉鎖性ばかりが強調されるのだ。また、江戸時代の「鎖国」政策について従来の固定的な認識に留まっているのにも少し疑問を感じた。
 現在の日本史学では、江戸時代を「鎖国」政策の時代と捉えるような単純な議論はカゲをひそめているし(そもそも「鎖国」は幕府の公式用語ではない)、当時の農漁村における活発な交易・商業活動に注目する研究も数多く提起されているのに、加藤の考察はそうした歴史学の新たな成果には目を瞑って、ややもすると日本文化論・日本人論のステレオタイプを繰り返す陥穽にはまっている印象がないとはいえない。
 日本列島のダイナミックな「交通」にスポットを当て、日本史の再構築を訴え続けた故網野善彦が本書を読んだとしたら、おそらく強い違和感を表明するのではあるまいか。
by syunpo | 2008-09-11 19:31 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

東西交渉史の宝庫〜『帝国のシルクロード』

●山内昌之著『帝国のシルクロード』/朝日新聞出版/2008年8月発行

b0072887_18405383.jpg イスラム史の碩学者として名高い著者が『週刊朝日百科・シルクロード紀行』に連載したエッセイを中心にまとめた本。〈トルストイの見たイスラーム〉〈オスマン帝国の「大奥」〉〈天璋院篤姫とモールス信号機〉などなど、シルクロードに関連した歴史学のウンチクが様々な視点から展開されている。それぞれの章には関連した文献からの引用が織り込まれているので、ブックガイドとしても有用だろう。

 ただ、ごく短い文章の集成ということで読みやすくはあるのだけれど、料理が一口ずつ小皿に取り分けられているのを順に食していくような食い足りなさが残ることも否定できない。
 松本清張や司馬遼太郎、柘植久慶など、引用・言及されているテクストに凡庸なものが少なくないのと、政府関連のミッションが多いためか、海外訪問でのエピソードや外交論などは思いのほか公式的・権威主義的な色合いの強い記述で、軽く読み流してしまいたくなる箇所がいくつかあった。
 蓮實重彦との一連の対談(『20世紀との訣別』『われわれはどんな時代を生きているか』)などはもう少し楽しく読んだ記憶があるのだが、本書は、正直、期待ハズレの一冊。

 ついでに記しておくと、法隆寺金堂の柱のふくらみが古代ギリシア文明の影響を受けたものとする学説は、建築史や美術史の分野では積極的に支持する学者はほとんどいないにも関わらず、それが何の留保もなく記述されている(p95)のも問題である。
by syunpo | 2008-09-01 18:43 | 歴史 | Trackback | Comments(0)