人気ブログランキング |

<   2008年 10月 ( 8 )   > この月の画像一覧

無数の細部に目を向ける〜『映画論講義』

●蓮實重彦著『映画論講義』/東京大学出版会/2008年9月発行

b0072887_9442871.jpg この本を読むと、いやこの本に限らず蓮實重彦を読むときまってかつて私が観たと思いこんでいた映画の大半を実のところ観てはいなかったのだ、と思い知らされることになる。ルノワールにおける枯れ木、溝口における船、小津における女性のタオルやマフラー、オフュルスにおける白い柵、ベッケルにおける「平手打ち」……などなど、彼らのフィルモグラフィを貫いて描かれている、それらの「小道具」や「身振り」の細部にわたって蓮實は緻密な考察を加え、それがいかに映画の魅力を感受するに際して重要なものであるか、これでもかこれでもかと指摘していくのだ。
 蓮實はいう。

 実際、専門家といわれている人々の学術的な著作に目を通してみても、視覚的な細部への著者の鈍感さが伝わってくるばかりで、スクリーンにまぎれもなく映っているものを無視した抽象論が驚くほど多い。映画を論じながら、見えてはいないものについて語ることに誰もが熱心なのです。(p105)

 なるほど、そうだなぁ、と自戒を込めつつ思う。人はしばしば『太陽』を観たとたんに天皇制について喋りだし、『明日の記憶』に感動したといっては日本の介護のあり方について議論が始まり、『アース』の上映後には「地球温暖化への言及が希薄である」と文字どおりスクリーンには「見えてはいな」かったことに対して不満を表明する人があらわれる。そこでは映画は誰かのメッセージが託された媒介物にすぎず、それ自体として独立した生命を与えられてはいないかのようである。

 映画を観よう。スクリーンに映し出されているものをまずは虚心に観ることから始めよう。蓮實重彦は四百数十ページにわたる本書をとおして、ひたすら、そう語り続けるのである。
by syunpo | 2008-10-31 09:46 | 映画 | Trackback | Comments(0)

宇宙人って本当にいるんですか?〜『谷川俊太郎質問箱』

●谷川俊太郎著『谷川俊太郎質問箱』/東京糸井重里事務所/2007年8月発行

b0072887_18534059.jpg 人気のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載されている同タイトルのコーナーでのやりとりをまとめた本である。読者からのいろいろな質問に谷川が回答する、という形式をとっていて、本書のために著者が書き下ろした回答もいくつか含まれているほか、友人の重松清や坂本美雨らが新たに出した質問にも答えている。
 どんな愚問も受けつけます、という触れ込みで始めた企画らしく、人生相談風のありふれた質問から哲学的科学的な難問まで質問は多種多様だ。

 〈私は「たわいのないおしゃべり」ができません。いつも人のこととか、まじめな話ばっかり。どうすればみんなみたく楽しいトークができるようになりますか?〉(もみじ 二十四歳)
 〈飼い猫をとても愛してるのですが、飼い猫は私のことを愛してるのでしょうか?〉(ホッパー 十五歳)
 〈人間はどうして「国」をもたなければならないのでしょう。「国」に所属しない人間は「無国籍者」で悪い人なのでしょうか。〉(さんさん 六十五歳)
 〈谷川さんが、もし年が近かったら、つい好きになってしまうだろうと思います。谷川さんはどんな女性が好きですか。これからなっていきたい女性像の参考として、教えていただければと思います。〉(坂本美雨 二十七歳)

 谷川の回答は、良くも悪しくも詩人らしさ・谷川らしさがにじみ出たもので、いずれも懇切丁寧。ふつうの言葉と詩の言葉の違いを問う質問には、実例をあげた後に「ふつうの言葉には、その言葉に責任を負う主体がいますが、詩の言葉の主体である詩人は真偽については責任がなく、言葉の美醜、または巧拙について責任があるのです」とみずからの詩観を明快に示している。
 ただ通読して思ったことは、もし寺山修司が生きていてこの企画をあてがわれたなら、もっとスリリングな本になったのではないかということだ。「元気のでないひととき、どうやって元に戻ったのか」という問いに「……海辺に行き、ビール飲んで海を見てぼんやりしているうちに……」というような陳腐な答えを寺山ならしないだろう。私の嗜好からすれば、この種の言葉(発想)の遊戯にはもう少し毒気が欲しい。

 まぁ、それはそれとして、本書において私が最も感心したのは、以下の問いに対する回答であった。

 〈どうして、にんげんは死ぬの? さえちゃんは、死ぬのいやだよ。〉(こやまさえ 六歳、追伸:これは娘が実際に母親である私に向かってした質問です。目をうるませながらの質問でした。正直、答に困りました〜)

 さて、谷川の回答は、……それは読んでのお楽しみ、ってことで。
by syunpo | 2008-10-25 19:11 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

人を狂わせる至高の楽器〜『ストラディヴァリウス』

●横山進一著『ストラディヴァリウス』/アスキー・メディアワークス/2008年10月発行

b0072887_16184585.jpg クラシック音楽に関心のない者でも一度はその名を聞いたことがあるであろう弦楽器の名器「ストラディヴァリウス」についての本。著者は、みずから楽器製作をも手がける写真家である。口絵に著者自身が撮影したストラディヴァリウスの数々、名器を生んだ古都クレモナの美しい写真が掲載されている。

 昨今とみに価格高騰の著しいストラディヴァリウスの名器の名器たる所以を述べたくだりは、凡庸な講釈が続いていささか退屈させられたが、スパニッシュ・セットをめぐる歴史的挿話や楽器商・コレクターのサラブーエ伯爵、ルイジ・タリシオに関するエピソードなどは楽しく読んだ。
by syunpo | 2008-10-22 20:02 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

脱作家主義のアプローチ〜『日本映画と戦後の神話』

●四方田犬彦著『日本映画と戦後の神話』/岩波書店/2007年12月発行

b0072887_1910026.jpg 著者の言葉をそのまま拝借すれば、本書は『クリティック』『回避と拘泥』につづく「現代の神話と映像をめぐる書物」の第三弾ということになる。
 一九八四年に刊行された『クリティック』は、私が四方田犬彦の名を脳裏に刻みつけることになった印象深い本だが、冒頭からソシュールやロラン・バルトが華麗に引用され、記号学的な方法が導入されるなど、当時の批評状況を色濃く反映するものでもあった。一九九四年に出された『回避と拘泥』では、李香蘭をはじめ東アジアの映画に関して現在まで継続している著者の主要テーマのいくつかにすでに言及されていて、四方田の愛読者としては今あらためて読み返してみても興味深い内容である。

 さて、本書は著者が二〇〇〇年以降に執筆した映画論・映像論のなかで、もっぱら日本の敗戦や在日朝鮮人の問題に焦点をあてつつ映像と神話の関係について考察した文章を収めたものだ。

 本書の一つの特徴として、山田洋次の『男はつらいよ』や東宝の『ゴジラ』シリーズ、韓流ブームの先鞭をつけたテレビドラマ『冬のソナタ』など、これまで批評家・研究家が真剣に論じることの少なかった作品について真摯な分析を加えている点を挙げることができる。
 いずれも読み応え充分で、とりわけ『ゴジラ』シリーズに関して黒澤明を意識しながら論じ、「来たるべき日本映画史は、本多の怪獣演出と黒澤のシェイクスピア解釈とを同じ地平のうえに乗せて論じるところから、執筆されなければならない」と締めくくる〈ゴジラとその後裔〉は、単なる映画感想家ではない映画史研究者としての発想の柔軟さを感じさせる論考といえるだろう。
 また〈再考 山口百恵〉なる一文では、二〇〇五年に開催された山口百恵に関するシンポジウムの様子が報告されている。中国における百恵神話の影響といった問題が彼の地のアカデミズムの場で研究対象になっていることを知り、たいへん面白く読んだ。

 日本の文学史にあってひときわ神話的な存在となっている三島由紀夫についても彼と映画との関わりについて論じられていて、韓国で『憂国』を上映した際の多様な反応を紹介している点など著者ならではの記述といえよう。

 このほか〈天皇裕仁の肖像〉と題されたソクーロフの『太陽』論は、日本の「天皇神話」解体の観点から作品構成を精細に論じて卓見、高嶺剛のフィルムを世界的コンテクストに位置づけて記した〈高嶺剛と沖縄〉なども短いエッセイながら示唆に富んでいる。
by syunpo | 2008-10-21 19:18 | 映画 | Trackback | Comments(0)

他者と自己をめぐって〜『アジアとヨーロッパの肖像 図録』

●『アジアとヨーロッパの肖像 図録』/朝日新聞社/2008年9月発行

b0072887_18152635.jpg アジアとヨーロッパ一八カ国の博物館、美術館が共同で作りあげた国際巡回展『アジアとヨーロッパの肖像』大阪展のカタログは、なかなかの大冊である。
 先日、紹介した四方田犬彦『人間を守る読書』のなかでも、わざわざ「展覧会カタログ」の項目を設けて、映画祭や展覧会が開催されることの意義として、文献的価値の高いカタログがしばしば製作される点を指摘していたものだ。

 巡回展の皮切りとなる大阪展は、国立国際美術館、国立民族学博物館の二会場同時開催という形になっていて大掛かりなものであるが故に、ややもすると茫漠とした印象だけが残りかねない。その意味でもこのカタログは、展覧会の企画意図や構成の狙いが手際よくまとめられているうえ、掲載されている論考もおおむね啓発的な内容で、一冊の書物としても充分に成立するものではないかと思う。

 冒頭に収録されている〈総論:アジアとヨーロッパの「肖像」〉で、吉田憲司(国立民族学博物館教授)は、アジアとヨーロッパとはもともと一対のものとして概念化された、という説を紹介している。ギリシア語のアジアとエウロペ(ヨーロッパ)の語源は、それぞれアッシリア語の“asu”(出る、日の昇る場所)と“ereb”(入る、日の沈む場所)とに遡ることができるというのだ。すなわち、日出づる処としてのアジアと日没する処としてのヨーロッパ。
 この両者だけで世界が構成されているわけではもちろんないが、「両者の関係とその変化を問うことは、この世界のあり方を問うこと、より根源的には、相補的な関係においてしか成立しない『自己』と『他者』のあり方を問うえでの、重要な糸口になりうるのではないか」との認識が立ち上がる。本展を支えているのは、そうした問題意識にほかならない。

 籾山昌夫(神奈川県立近代美術館主任学芸員)の〈日本の洋画とヨーロッパ〉と題する論考では、アジアとヨーロッパの接触以降の時代における相互の影響関係が概説されていて勉強になった。
 たとえば、松本竣介の描いた《立てる像》がアンリ・ルソーの《私自身、肖像風景》を踏襲したもので、そのルソーの絵の万国博覧会を描いた背景の左半分は、三代歌川広重の《横浜海岸鉄道蒸気機関車》を典拠している……という指摘。「近代の『他者の手法をとり入れる』摂取は、交通や出版の近代化によって急速に拡大し、画家の近代的自我を通して、終には交錯するに至った」具体的な事例としてたいへん興味深い。

 また〈モダニズムとジャポニスム〉を考察した渡辺俊夫(ロンドン芸術大学教授)の一文や、現代美術の状況を概説した黒田雷児(福岡アジア美術館学芸課長)、安来正博(国立国際美術館主任研究員)らの論考からも多大な示唆を受けた。

 なお巻末には、カタログに掲載されている論文、コラムのすべての英訳が収められている。
by syunpo | 2008-10-17 18:24 | 展覧会図録 | Trackback | Comments(0)

公共の利益と組織の狭間で〜『ルポ内部告発』

●奥山俊宏、村山治、横山蔵利著『ルポ内部告発』/朝日新聞出版/2008年9月発行

b0072887_10495441.jpg 昨今、組織の不正行為が内部告発によって明るみになるケースが増えてきた。本書は、朝日新聞記者による「内部告発」に関するルポルタージュである。内部告発した人、内部告発された組織の両面からその実態が報告されている。

 俎上に乗せられているのは、三菱自動車の欠陥車隠し、ミートホープ社、船場吉兆などの食品偽装、バブル期の千代田生命の杜撰な経営をめぐる内部告発や、大阪市など地方自治体でのコンプライアンスの取り組み……などなど。
 なかでも、検察庁の裏金問題を告発して逮捕され実刑をくらった三井環のケース、トナミ運輸で違法行為を告発し続けて、会社から報復にあいながらも定年まで勤めあげた「内部告発のパイオニア」ともいえる元社員の事例などは章を独立させて紙幅を割いており、興味深く読んだ。

 ただ、本書は新聞記事をベースにしたものが中心で、全般に皮相的な記述にとどまっている。たとえば、大阪トヨタ自動車で会社の不正を通報窓口の弁護士に通報した結果、その社員が「報復」的に自宅待機を命じられた一件については、当事者に通り一遍の取材をして言い分をそのまま文字にしただけという印象を拭いがたい。最終的には弁護士一個人の不始末とでもいいたげなまとめ方で、トヨタの企業体質にはほとんどメスが入らず消化不良の感が残った。

 いろいろ話題を詰め込んだはいいけれど、本にするからには初出の記事からさらにもう一歩も二歩も踏み込んだ取材と分析が必要ではないかと思う。
by syunpo | 2008-10-14 10:52 | ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

気ままな戯れとしての〜『人間を守る読書』

●四方田犬彦著『人間を守る読書』/文藝春秋/2007年9月発行

b0072887_1010991.jpg ブックレビューのブログでブックレビューの新書を紹介するというのも屋上屋を架すようなものでいささか気が引けるのだが、面白いので取り上げることにした。
 これは、四方田犬彦が「読みなおすに値すると思った本」をクロード・レヴィ=ストロースの「料理の三角形」に倣い「生のもの」「火を通したもの」「発酵したもの」の三つのカテゴリーに括って紹介したブックガイドである。さらに巻末に「読むことのアニマのための100冊」と題する簡潔なレビューが添えられている。

 「生のもの」で取り上げられているのは、若松孝二の『時効なし。』、重信房子の歌集『ジャスミンを銃口に』、ジョー・サッコや岡崎京子、岡田史子の漫画作品など多岐に渡っているのだが(これは続く二章でも同じ)、もう一つ注目されるのは、本来なら「火を通したもの」にでも分類されそうな思想家のエドワード・W・サイードとジャック・デリダが章の頭と結びに配置されている点だ。彼らのアクチュアリティに重きをおいて「生のもの」として推奨しているところに四方田の炯眼が存するというべきか。

 「火を通したもの」では、吉田健一や平岡正明らこれまでの四方田本ではおなじみの批評家に加え、笠原和夫『映画はヤクザなり』、山口猛『映画俳優 安藤昇』など著者の専門分野からやや意表をついたリストアップがなされていて興味深い。また岡田節人の『生物学の旅』を評して「ジャン・ルノワールの自伝を読み終えたときのような、ある爽快さを感じた」と表現するあたりがいかにも四方田的なのである。

 「発酵したもの」は、岩波文庫に収められているマルクス・アウレーリスの『自省録』で始まり、ダンテ『神曲』、クロード・レヴィ=ストロース『神話論理』などを吟味して、世阿弥の『風姿花伝』で締めくくられる。今橋理子の『江戸の動物画』と『手塚治虫のディズニー漫画』とを並べて論じるというのも他の著者にはちょっと思いつかない芸当だろう。

 全編を読み通してみて、世の中にはまだまだ自分の知らない書物がたくさん唸りをあげて書棚で待っていてくれるのだなぁ、という当たり前の事実をあらためて実感させられた次第。
 テレビでおなじみの某評論家が朝日新書から出した退屈な新書ブックガイドとは、モノが違います。

 書物を読むということは現実の体験なのです。体験の代替物ではありません。そしてそれ以上に、体験に枠組みと深さを与え、次なる体験へと導いてくれる何かなのです。(p15)
by syunpo | 2008-10-10 10:32 | 書評 | Trackback(1) | Comments(0)

戦時中に輝いた一灯の良心〜『気骨の判決』

●清永聡著『気骨の判決 東條英機と闘った裁判官』/新潮社/2008年8月発行

b0072887_9555861.jpg 日本が太平洋戦争を戦っていた一九四二年、後に「翼賛選挙」と呼ばれることになる衆議院選挙では、政府や軍部に非協力的な候補者を落選させようとして露骨な選挙妨害が行なわれたことはよく知られている。その選挙の違法性を訴える裁判が各地で提起されたなか、唯一時局に逆らって「選挙無効」の判決を下した裁判官が存在した。司法の独立を貫いたこの気骨の裁判官、吉田久の生涯を追跡調査したのが本書である。

 米国との開戦が現実味を帯びていた一九四一年十月に首相の座に就いた東條英機は、翌年、当時の司法関係者幹部を一堂に集めた全国司法長官会同において「戦争遂行に障害を与えるような判断をした者には政府として非常手段をとる」との恫喝的な発言を行なった。いわゆる「東條演説事件」である。
 聖戦遂行の美名のもとに、あらゆる分野の組織や人々が国家の管理下に置かれようとしていた。「翼賛選挙」もその後に続く裁判もそのコンテクストのなかで行なわれたものだ。

 鹿児島二区における「衆議院議員選挙ノ効力ニ関スル異議事件」の裁判長となった大審院判事の吉田久は、訴状を読んで「これは容易ならぬ由々しき事件」と認識し、鹿児島への出張尋問を敢行する。時勢を考えれば、それは決死の覚悟を要するものであったに違いない。その際、吉田が漏らしたという言葉にその悲壮感が如実にあらわれている。
「わたしは、死んでもいい。裁判官が事件の調べに行って殺されるのは、あたかも軍人が戦争に臨んで弾に当たって死ぬのと同じ事だ、悔ゆることはない」(p81)

 無事に出張尋問を終えて帰京するも、裁判に対する圧力やいやがらせは一層激しくなり、吉田には特高警察の監視がつくようになる。
 こうしたなかで一九四五年三月、吉田はみずからの見識と良心にしたがって選挙無効の判決を言い渡す。判決にもとづいて選挙は実際にやり直された。
 当の吉田は、判決の四日後に大審院を辞職。吉田自身は「辞めるよう圧力を受けたわけではない」と戦後に述懐しているが、実際には「体よく辞職させられたと見る方が正しいだろう」と著者は述べている。

 それにしても、戦時中にこのような裁判が行なわれたことを知る人が少ないのは何故なのか。それは一つには判決直後にあった東京大空襲によって判決原本が焼失したものとみなされていたからである。吉田自身もそう思いこみ、残念に思っていたらしい。しかし、実際には……。

 本書の著者はNHKの報道記者である。文献記録が乏しいなかで、関係者やその遺族への取材を含めた綿密なリサーチによって「幻の判決」を浮かび上がらせた筆致はジャーナリストの面目躍如たるものがある。

 当時と比較すれば明らかに自由な状況にある現在、行政府に阿った判決文を書き続けている数多の裁判官たちは本書を読んで大いに猛省すべきではあるまいか。もちろん一般市民にとっても司法に関心のある者ならば必読の一冊といえるだろう。
by syunpo | 2008-10-05 10:05 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)