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異分野との遭遇が生み出す新たな世界〜『エッジエフェクト』

●福岡伸一著『エッジエフェクト 福岡伸一対談集』/朝日新聞出版/2010年7月発行

b0072887_95021.jpg 今をときめく分子生物学者の対談集。書名のエッジエフェクト(界面作用)とは「二つの生態系が出会う場所で生成される現象」をさす生物学上の術語である。広く一般化すれば「異なる分野の出会いが生み出す、新たな世界」というオビの宣伝文句となる。その書名どおり、対談相手は桐野夏生、柄谷行人、森村泰昌、小泉今日子、鈴木光司、梅原猛と多士済々。

 もっともこの種の対談は双方がなんとか話を合わせようと大雑把なアナロジーが必要以上に強調されがちで、当人たちの盛り上がりはともかく、第三者が後から読む場合には粗雑で抽象的な対話になっている場合が少なくない。
 エッジエフェクトの効能に充分自覚的な福岡であってみれば、相手の言辞から自分の分野に話題を引きつけて巧みに対話を膨らませていく聡明ぶりはさすがだが、いかんせん、森村にしても鈴木にしても梅原にしても対談相手の発言が概して陳腐で、目からウロコが落ちるような「界面作用」が作動したとは言い難い。

 そのなかでは〈科学の限界〉と題された柄谷行人との対話がとびぬけて刺戟的だ。
 環境問題に関して、柄谷は二酸化炭素のみを温暖化の主因とする説に疑問を呈したうえで「未来の他者」を前提した「自分自身の倫理性」に基づく行為を力説しているのが印象に残った。また、科学者は人間と自然の関係に注目するが、「人間と自然の関係は、常に、人間と人間の関係を通して実現される」。人間と人間の関係とは現代でいえば資本主義的な関係であり、ゆえにテクノロジー批判が「資本主義経済を無視した議論」になってしまうと意味はない、と言い切る。このあたりは交換様式から社会のあり方を探究してきた柄谷のここ数年来の「トランスクリティーク」的な洞察の跡を強く感じさせるものだ。

 また、福岡は、最近の生物学者が提唱している生命の始まりの定義(人の生命の始まりを脳の機能が始まる時とするもの)を認めると「脳死の議論が臓器を利用できることを可能にしたように、脳の機能が始まる脳始以前であれば人でないので、ヒト未満の単なる細胞の塊としての胚をES細胞などに利用できる」ことを指摘しつつ「科学技術が先端化するに従って、延命できるのではなく、人間の時間を両側から縮める分節化が起きている」と述べているのは、まことに鋭い警鐘ではないかと思う。

 蛇足ながらキョンキョンに対する福岡のただならぬオマージュには読んでいるこちらが赤面しそうになったにゃ〜。012.gif
by syunpo | 2010-07-30 09:09 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

活私開公という理念〜『公共哲学とは何か』

●山脇直司著『公共哲学とは何か』/筑摩書房/2004年5月発行

b0072887_17494262.jpg 今日の社会は、公共性に関する新たなビジョンとそれを論理化する学問を必要としている。ところが、哲学を含めた諸学問は、専門分化して高度に発達した反面、専門家にしか享受されない「学問のための学問」に堕し、社会的意義を失っているように思われる。このような反省から出発し、私たちは、「公共哲学」を中心概念として、社会的に有意義な学問を再生させたいと思う。……

 このような言明に始まる「公共哲学宣言」が出されたのは、二〇〇一年であった。本書はそうした理念をもとに結成された「公共哲学ネットワーク」の中心人物の一人である山脇直司による入門書である。

 「民を担い手とする公共」という観点で新しい思考回路を切り開くことを目指す公共哲学では、従来の単純な公私二元論に代わり「政府の公/民の公共/私的領域」の相関三元論を採用する。そこでのキーワードは、滅私奉公でも滅公奉私でもない「活私開公」。
 また「公共性」なるものが幅広い分野にまたがる概念であるため、「宣言」でも示されたように、関係するアカデミズム——哲学、思想史、政治学、法学、経済学、社会学、歴史学、教育学、科学技術論等——が横断的に討議していくこと、すなわち「学問の構造改革」を進めることも公共哲学の主要なコンセプトとなる。

 以上のような基本認識に立ち、これまでの知見から公共哲学に相当する論考を歴史的にトレースしていくのが前半。アリストテレスが公共哲学の祖として紹介され、ストア派の「自然の理法」やキリスト教の教えが「宗教的公共性」の見地から論じられる。アクィナスの「共通善」思想、ロックやルソーなどの啓蒙思想、カント、フィヒテらのドイツ観念論からも公共哲学的要素が取り出される。ヘーゲルは古典的公共哲学の総決算として登場するが、「ヨーロッパ近代中心主義的な進歩史観」として批判的な論評も付加される。

 東洋の思想に目配りすることも忘れてはいない。儒教思想における「仁義礼智信」を為政者の公共倫理と見做し、横井小楠の「公共の天理」は「ストア派の自然法思想にも匹敵する公共思想」だという。

 後半では様々な学問領域と公共との関連から公共哲学の今後について展望される。「政治社会と公共世界」を論じたくだりでは、ハーバーマスやロールズの思想のほか、今話題のマイケル・サンデルらのコミュニタリアニズムも相対化されることとなる。
 結論的におかれた最終章では、「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」という九〇年代以降のNGOが好んで使う標語にヒントを得た造語「グローカル」な公共世界の創出が提起される。

 文字どおり「公共哲学」の基本知識を得るには格好の本とはいえるだろう。が、新たな学問の入門書ということもあってか、スローガンの羅列といった印象も拭いきれず、やや茫漠とした読後感が残った。
by syunpo | 2010-07-28 18:24 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

時代の変転を生きた思想家〜『丸山眞男——リベラリストの肖像』

●苅部直著『丸山眞男——リベラリストの肖像』/岩波書店/2006年5月発行

b0072887_8264339.jpg 丸山眞男に言及する人は今もなお多い。たいていはそこに批判的なニュアンスがこめられる。隠れナショナリストと非難する論者がいるかと思えば、共産主義に迎合した学者と叩く者あり、大衆から遊離した啓蒙家と揶揄する者がいる一方で、工業化とレジャー社会の到来を賛美して国民の精神的頽廃を助長したと公憤を露にする言説もある。生前・死後を問わず、これほどあちこちから弾が飛んでくる学者も珍しいのではないか。

 苅部は丸山に対する批判——とにかく丸山を叩かなくては気がすまない怨念——の熱病のようなありさまを「丸山病」と名付け、そうした病理的言説からは距離をおこうとする。
 最初から排撃や崇拝の対象として身構えるのではなく「ビールを片手に」談笑するような気分でもって「丸山ののこした言葉をよみなおし、あたかも本人と問答するようにして、『現代』の人間と政治について、また『日本』という空間について、考えていた軌跡をたどる」——これが本書の趣旨である。

 丸山は、学者を二つの類型に分けて考えていた。「体系建設型」と「問題発見型」である。前者は自分の思考のうちに一つの体系を形成し、個々の問題をどうやってその体系のうちに組みこむかをいつも考える。対して後者は、現実のドロドロした渾沌のなかから新しい視角をみつけていく姿勢をとる。
 丸山自身のスタイルはどうであったか。苅部は両方の要素が混在していたとみる。苅部が強調するのは、丸山を批判するにせよ擁護するにせよ、丸山を「体系建設型」の思想家として考えすぎたのではないか、ということだ。「丸山が時代の変転のなかで、さまざまな問題を見いだし、それに応答してきた姿を動的にたどる」こと。それが苅部の一貫した姿勢である。

 丸山に対して、様々な立場から批判がなされたことについて、苅部は丸山自身にも批判を招くような分裂的な要素のあったことを冒頭で認めている。たとえば、市民に対して積極的な政治参加を訴えた一方で、みずからは隠遁好みを何度も口にしている、といったことだ。
 六〇年の安保闘争においては組織に属さない膨大な運動参加者が出現した。その後も様々な問題領域で展開された「市民運動」に対して、丸山は「市民」という存在を実体として考えるのは不適切であるとして「市民主義」という言葉を使わない、と公言した。非職業政治家の政治参加を力説しながら、時をおいて「市民主義」に対して懐疑的になったように映る丸山の態度をどう理解すればよいのか。

 苅部は、このような矛盾する態度が丸山のなかに並び立っていることは丸山自身も深く気づいていたと言い、それが丸山の文章に強い緊張感を与えた、とまず指摘している。

 丸山にとっては、さまざまな職業に就いて生活する人々がやむをえずその寸暇をさいて、自分の本来の目的ではない政治活動へとむかい、職場の内部をこえた「外への連帯性」にふみでるとき、意識のそうした側面を「市民的」と呼びうるだけなのである。
 これとは異なって、自分の生活のすべてを政治参加に捧げるような「完全市民像」に対しては、大衆社会における不安と孤立感を共同体との合一化で癒そうとする志向を感じとり、そこにファシズムと紙一重の危うさを見出す、というのが丸山の認識であった。
 一般人の政治との関わりはあくまでも「いやいやながら」のはたらきかけ、「パートタイム参加」にとどまるべきだと丸山は主張した。激しい行動によるラディカルな変革へのあこがれを丸山が辛辣に批判したのもこの文脈でとらえるべきだ、というのが苅部の見解である。

 これは一例にすぎない。本書ではこのように丸山の残したテクストに即して、丸山の思想を虚心に読み取ろうとする点で一貫している。
 ちなみに丸山が共同体との過剰な合一化の弊害を意識するのは、戦前・戦中の実体験に拠るところが大きいだろう。彼が高校三年生だった時、戸坂潤や岡邦雄らが結成した唯物論研究会の公開講演会を聴きに行ったのだが、折悪しく警察に踏み込まれ、警察署に留置されて特別高等警察(特高)による暴力的な取り調べを受けることとなった。
 異論を排除し単一の思想に染めようとする社会、ありていにいえば公権力による言論弾圧を実際に生身で体験したことは、その後の丸山のファシズム論や権力論に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

 苅部はこうした丸山自身が書き残した経歴や体験談にも触れながら丸山へのアプローチを試みている。丸山が江湖に問うた言説は質的にも量的にも多岐にわたる。そこから現代人は何を吸収し糧とすべきなのか。無論それは読者に委ねられているといっていい。
 ただし本書を読んで丸山を理解したような気になってはいけないだろう。本書はあくまで道標である。道標とはあくまで通過点の目印の一つにすぎない。最後は自分の脚で丸山という高峰を踏破することがもっとも重要であることはいうまでもない。

 私は、ぬくぬくとした今日の環境の中で、戦後の民主主義などは空虚なイデオロギーだとか、平和憲法なんてたわごとだとかいう、いかにもわけしりの口調をマスコミでいう人を見ると、正直のところ、いい気なもんだなあと思いますが、それにしても、戦後民主主義や日本国憲法への疑問や懐疑が出されることそれ自体は大変結構なことだと思います。もしかりに、皆さんが、戦前に、大日本帝国憲法なんて虚妄だというようなことを公然口にしたらどういうことになるでしょうか。皆さんはただちにつかまるだけではありません。おそらく一生涯、どこでなにをしていようと、国家権力によって、見えないところから皆さんの一挙手一投足をじっと監視される身になることを覚悟しなければならないでしょう。(本書p55、『丸山眞男集第九巻』p291〜292)
by syunpo | 2010-07-24 08:35 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

その寛大なる魔力をめぐって〜『東京から 現代アメリカ映画談義』

●黒沢清、蓮實重彦著『東京から アメリカ映画談義』/青土社/2010年5月発行

b0072887_9271340.jpg 若い頃からハリウッド製の活劇に親しみ「アメリカ映画を語ることだけが、真の意味で批評の言葉を鍛えてくれたのだという確信にたどりついた」という批評家と、その批評家の熱い視線を浴びながら映画を撮り続けてきた映画作家によるアメリカ映画に関する対話の記録である。対象になっているのは現代アメリカ映画を代表する監督、クリント・イーストウッド、スティーブン・スピルバーグ、クェンティン・タランティーノの三人。

 「変態する変態」としてのイーストウッド、時代劇作家としてのスピルバーグ、「才能をひけらかすことのない努力の人」としてのタランティーノ……と三者三様の個性が、例によって批評家のちょっぴり尊大なる語り口と映画作家の実感をまじえた喋りとで懇々と説かれている。
 蓮實独特のクセのある言い回しは、シンポジウムなどで彼の語りに慣れない人が絡んだ場合には齟齬をきたして会話が滑らかに転がっていかない事態を生じさせたりもするのだが、黒沢清が相手ならば文字どおりよく出来た活劇のごとくにトントンと話は進みゆく。

 とりわけスピルバーグへの評価に熱のこもっているのが特筆されよう。

 やはりスピルバーグと言うと、マーケティングの人だと思われてしまっていて、たしかにマーケティングは下手ではないんでしょうけど、……その前にもう少しまともにスピルバーグを評価しておくべきでしょうね。(蓮實、p102)

 ……ジョージ・ルーカスみたいに、もう自分では撮らずプロデューサー業に転職するという選択が普通です。アメリカではその方が権力があり、かつ楽なんですから。でもスピルバーグはどういうわけか監督業にこだわっている。あれだけ成功しているのに。その点に限っても特異な、そして語られるべき監督だと思っています。(黒沢、p114)


 ついでにトム・クルーズ擁護の弁舌も面白い。

 トム・クルーズを貶めることが知的な振る舞いだと思いこんでいる連中の頭の悪さは救いようがない。(蓮實、p98)

 「目標としては、まあイーストウッドは無理にしても、タランティーノよりは上を狙って、何とかスピルバーグに手が届くくらいかと……あはは、何という自惚れでしょう」というクロサワの今後が大いに期待されましょう。
by syunpo | 2010-07-21 09:39 | 映画 | Trackback | Comments(0)

混迷の時代における愛とお金の物語〜『悪貨』

●島田雅彦著『悪貨』/講談社/2010年6月発行

b0072887_1646024.jpg ある日、目を覚ますと足元に百万円。ホームレスの男はその札束をもって享楽を満喫しようと身支度を調える。しかしそれは精巧につくられた偽札であった。その偽札を知らずに盗む若者、その若者が遊んだキャバクラのホステスと資金繰りに苦労している父親。偽札は巡る。巡り巡って、ひょんなことから偽札であることがバレてしまう。贋金騒動はババをつかまされた個人の人生だけでなく社会全体を混乱の渦に巻き込んでいく。

 やがて、独自の地域通貨を流通させて資本主義の矛盾をただそうとしている革命運動組織「彼岸コミューン」や、中国を拠点とする巨大な贋金作りの組織などが浮かび上がってくる。地下組織にスカウトされる天才的な印刷職人、マネーロンダリングに手を貸す宝石商、そこに潜入して容疑者に文字どおり肉薄する美人刑事、素性の怪しい偽札鑑定のスペシャリスト……などなど多彩な登場人物が時には交叉しながら組んず解れつ物語は進展していく。けっこう面白い。

 貨幣経済の行き詰まりとそれに対抗しようとする宗教的コミュニティ。さらには国際的に暗躍する非合法組織と国家との駆け引き。現代小説は資本主義経済や国際政治にもそれなりに通暁せねばならぬとのテーゼは村上龍以降いっそう浸透しつつあるようにみえる。

 冒頭におかれたエピソードがこの小説の主題を象徴している。
 ホームレスの男はカネを手に入れたが故に、ささやかな夢をみる。しかし迂闊にも事の次第を理髪師に打ち明けてしまい、理髪師の友人の若者にあっけなくカネを引ったくられてしまう。久しぶりにベッドで眠れる期待を打ち砕かれたホームレスの男は、束の間みた夢の残骸を持て余して、怒りと絶望をおぼえ、ガソリンスタンドに乗り込んで焼身自殺を遂げるのだ。……やはり、カネは人を狂わせる。そして、贋金は国家の経済を狂わせる。

 「彼岸コミューン」に身を投じて、出向先の海外で中国人の実業家と知り合い、結果的に組織を裏切ることになる野々宮冬彦という男の顛末が一応この作品の機軸を成す。当然ながら島田はこの人物の生い立ちに労力の多くを注入しているのだが、彼には父親にまつわるトラウマが刻まれていて、フロイト的なエディプスコンプレックスを体現している風である。さらにこの男と絡む女性刑事との間にロマンスの花を咲かせ、成否はともかく、現代小説のエッセンスはひととおり詰め込んだという作りになっている。

 もっとも、これは単なる社会派エンターテインメント小説という枠におさまりきらない深味をも感じさせる。それはこの作品の多義的な寓意性、もっと具体的にいえば、貨幣論が孕むアナロジーだ。よく言われるように貨幣論はしばしば言語論とシンクロする。
「カネは使わなければ、ただの印刷物だ。……だが、ひとたび使い出したら、いろんなものに化ける」という作中人物のセリフはそのまま「書き言葉」にもあてはまるだろう。「文字は使わなければ、ただの印刷物だ。……だが、ひとたび使い出したら、いろんなものに化ける」

 文字を操ることで生まれる文学作品こそは化け物の最たるもの、といえるのではないか。その意味では島田はこの小説で自己の生業をそっと語ろうとしたのかもしれない。
by syunpo | 2010-07-18 17:07 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

肝心なのはイデオロギーなんだよ!〜『ポストモダンの共産主義』

●スラヴォイ・ジジェク著『ポストモダンの共産主義』(栗原百代訳)/筑摩書房/2010年7月発行

b0072887_19563746.jpg スラヴォイ・ジジェクはスロヴェニア出身のラカン派マルクス主義者ということになっている。とはいえ、ジジェクの特徴はそのマルクス読解よりもラカン理論の立場からヘーゲルを大胆に読み直している点に見出せるかもしれない。かつて、ヘーゲル主義者フランシス・フクヤマが冷戦終結を予言するかのような論考をタイミング良く発表して資本主義と自由民主主義の勝利を謳歌した時、「ある政治システムが完成されて勝利をおさめる瞬間は、それが孕む分裂が露呈される瞬間でもある」とのヘーゲル的言辞を掲げて警告を発したのがジジェクであった。
「私のフクヤマに対する批判は、彼がヘーゲル的でありすぎるということではなく、まだ十分にヘーゲル的でないということです」(※)

 実際、それ以降の世界は資本主義の矛盾や問題点をあからさまに露呈させてきたといっていい。わが日本でもマルクスの入門書がいくつも刊行されるようになった。本書においてジジェクはフクヤマへの批判をさらに一般化し、これからの世界におけるコミュニズムの位置付けやあり方を考察している。無論、そこではヘーゲルやラカンのみならず、アラン・バディウやマイケル・ハート、アントニオ・ネグリなど同時代人の知見が(時には批判的に)自在に参照される。

 今日の資本主義の限界については、もっぱらハートとネグリを引きながら、四つの問題点を挙げている。「環境破壊の脅威」「知的所有権に関連した私的財産についての不適切な考え」「遺伝子工学などの新しいテクノロジーの発展にまつわる社会・倫理的な意味」「新しい形態のアパルトヘイト」である。
 こうしたグローバル資本主義の問題点は彼らの独創的な認識というわけでは無論なく、似たようなことは多くの論者によって指摘されてきているが、環境にしても知的財産にしても、ジジェクの認識からすれば「われわれが共有すべき実体」に含まれるものであり、「これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってしてでも抵抗しなければならない」(p154)と断ずるあたりにジジェクのコミュニストたる所以がはっきり示されている。

 本書の核心をなす第2部の表題〈コミュニズム仮説〉は、バディウの言葉をそのまま借用したものである。革命の過程とは漸進的な進歩ではなく、反復の運動、何度でも「始まり」をくり返す運動である。この始まりとはバディウが「コミュニズム仮説」と呼ぶものにほかならない。ジジェクにおいては、コミュニズムとはカント的な意味での「統制的理念」などではなく、資本主義に立ち向かう運動としてある。

 ただし、ジジェクのいうポストモダンの時代におけるコミュニズムのかたちがいかなるものなのかは必ずしも明確ではない。少なくとも私にはよくわからなかった。本書でも言及されている柄谷行人がマルクスの提起した「アソシエーション」なる概念の読み替えに七転八倒したことを想起するなら、ジジェクの豪放なる姿勢は「闘う思想家」の看板にふさわしい。

 もとより、経済学や政治学を専攻する研究者のような精緻な議論が展開されているわけではない。ラカン派の論客らしくレトリックを駆使した叙述は論文というよりエッセイに近いものだ。一般読者には難解な箇所も少なくないのだが、ジジェク節全開、毒気満載の一冊とでもいっておこう。


※浅田彰との対談における発言。(浅田彰著『「歴史の終わり」と世紀末の世界』小学館、1994年、 p40)
by syunpo | 2010-07-17 20:11 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

金銭が織り成す人間模様〜『道草』

●夏目漱石著『道草』/新潮社/2000年6月発行(文庫改版版)

b0072887_19322226.jpg 『道草』は自叙伝的な作品ということで知られている。岩波書店の《漱石全集》に解説を寄せている小宮豊隆によれば「主人公は、それをそのまま漱石と見做して、少しも差支えないほど、漱石自身を直接に、赤裸裸に表現」したものらしい。

 外国から帰ってきて東京に世帯を構えている健三。妊娠中の妻と二人の娘をかかえ、教師として地味な生活を送っている。そこに縁を切ったはずの養父の島田、島田と別離した養母の御常が別々に金の無心目当てにやってくるようになる。官僚としてかつては豪勢をふるった妻の父も窮乏して健三に救いを求めてくる。さらに健三は実姉にも月々いくらかの小遣いをやっている。ここでは、健三を取り巻く人間関係がもっぱら金銭のやりとりを軸にして事細かに描写されているのだ。

 健三の態度は優柔不断で煮え切らない。脅しまがいの無心をしかけてくる島田に断固たる態度を取ることが出来ず、ずるずると面会を続けている。そんな夫に対して妻は当然ながら苛立ちを隠しきれない。
 妻はときおりヒステリーの発作をおこすかと思えば、健三もまた子供のために買ってやった鉢植えを「無意味に」縁側から下へ蹴飛ばして鉢の割れるのに満足している。二人ともに神経を病んだ状態にあるのだ。読むほどに気が滅入ってくるような陰々滅々たる家庭生活である。

 この作品に描かれているのは、漱石がロンドンから帰国して小説家としてデビューした頃の事とみられるが、養父が金銭の無心を始めるのは実際には朝日新聞社に入社した頃であるから、時期を違えた漱石の実体験がこの作品に詰め込まれているともいえる。

 それにしても『吾輩は猫である』の明るい饒舌と、この作品における人物間の意思疎通の乏しい陰気なありようはあまりに好対照ではなかろうか。このような気鬱な環境の中からあの傑作が生み出されたとは、ちょっと意外な気もする。逆にいえば、『吾輩は猫である』のような軽妙洒脱な作品を書くことで、かろうじて漱石は精神のバランスを保っていたともいえるのかもしれない。
 『吾輩は猫である』を対極に想起しながら、さて、私たちはこの辛気臭い小説をどのように読めば良いのだろうか?

     *     *

 「小説は、たかが商品ではないか。そして、商品に徹した魂のみが、また、小説は商品ではないと言いきることもできるのである」——そのように言い放ったのは坂口安吾だった。けれども、それに先立つこと三十年、漱石が生きた時代にはそのように言うことはやはりはばかられた。資本主義の発展の度合いに相違のあった点に加えて、知識人や文化人といった知的階級が厳然と存在していたという時代状況も大きいかもしれない。文学や学問を志す者の精神的知的な営みはけっして金銭の額に換算されるようなものではないと漱石は真面目に考えていただろう。

 健三の内面にもそのような漱石の考えが充分に反映されている。
 『吾輩は猫である』の第一回分原稿と思われる仕事に関して「彼の心は全く報酬を予期していなかった」と述懐しているし、また「物質的の富を目標として今日まで働いて来なかった」とも述べているのだ。

 そんな健三のもとに島田が吉田という男とともにやってくる。そして本について語りだす。

 「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」
 健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも儲けるには本に限るような事をいった。
 ……(中略)……
 「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ資金が要るようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りの良い訳になるんだから、無学のものはとても敵いませんな」


 こうして二人は健三に本を書いて稼げば良いではないかと示唆する。健三にとっては「嫌がらせ」というほかなく、その時には無関心を装うものの、やがて彼は結果的には島田や吉田の言ったとおり最初から金銭を得ることを自覚しながら原稿を書くことになる。島田に手切金の百円を渡すために。
 「暑苦しい程細かな字」で講義ノートを作成していた健三は、ノートではなく原稿用紙に向かって「猛烈に」働く。それは「書いたものを金に換える」ことの出来る執筆活動へと本格的に踏み出した新たな局面でもあった。

 つまり、この小説は、ごく通俗的な読み方をするならば、職業作家誕生の舞台裏を描いたものと読むこともできるわけだ。ただし現実の漱石がこうした金銭上の必要に迫られて文筆家生活に入ったというわけではない。前述したように島田の無心が始まる前に大学教師の職を辞して朝日新聞社に入社していたのであるから、ここでの健三の振る舞いはたぶんに漱石自身の文筆家生活を戯画化したものと考えられる。

 とにもかくにも健三は無事、島田に手切金を渡して、二人の関係にひとまず決着をつける。
 妻はいう。
 「安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
 健三は答える。
 「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない」

 この健三の言葉はよく引用される。直接的には、島田との金銭的な関係は片付いても養子に出され苦労させられた過去は決して片付かない、という意味にとれる。しかし、それだけではない。
 島田との関係が契機となって心ならずも「書いたものを金に換える」生活へと本格的に踏み出すことになった健三にとっては、おそらくは死ぬまで片付かない文学という問題がこれまでとは形を変えて在り続けるのである。
by syunpo | 2010-07-13 19:45 | 文学(夏目漱石) | Trackback | Comments(0)

映画史の枠を超えたフィルム〜『『七人の侍』と現代』

●四方田犬彦著『『七人の侍』と現代——黒澤明再考』/岩波書店/2010年6月発行

b0072887_10405643.jpg 『七人の侍』が封切られたのは一九五四年。私は生まれていなかった。私が一映画ファンとして映画館に通い始めた頃には、クロサワの名はすでに数々の神話に彩られ、『七人の侍』は映画史のなかに古典的名作としての位置を確保していた。また、その物語は世界のいたるところで翻案され、ナショナリズムと抵抗闘争を説く装置として今もなお現在進行形で機能している。

 だが、そうした栄光とアクチュアルな影響力の一方で、黒澤が差し出した虚無に通じる問いかけはおきざりにされたままではないか──。本書で四方田犬彦が試みるのは、この作品を古典や名作という称号から解き放つことである。すなわち誤解と思い込みの上に成立した過剰な栄光をひとまず払いのけ、それが制作された社会的文脈と、延々と続いてきた日本映画のなかの時代劇の文脈の交差点に立って、作品そのものを虚心に見つめ直すこと。それが本書のコンセプトである。

 日本の映画史のなかで『七人の侍』を捉えようとするとき、この作品は何よりも時代劇の革命を目指した、といえる。様式化された殺陣を排し、非合理的な精神主義を斥け、不自然な鬘も衣装も排除した。代わって、冷静にして合理主義的な兵法と戦術を採用した侍たちの姿、戦闘は断じてきれいごとではないという確信を映像化したのである。

 四方田はまたこの作品が公開された一九五四年という時代について一章を割り当てて論じている。この時期は敗戦にまつわる様々な記憶や荒廃がそこここに生々しく残存している時代であった。同時に冷戦構造が確立し国内においても再軍備への動きが慌ただしくなった時期でもある。

 敗戦の後の虚脱感。職も希望もなく放浪する復員兵。土地と財産を失った引揚者。原水爆の脅威。冷戦体制に由来する国防意識の強化。東宝争議による撮影所の荒廃。共産党による山村工作隊の挫折に象徴される知識人の大衆啓蒙の夢の崩壊……。
 一九四五年から一九五四年の間に日本社会で生じた様々な事件や現象。そうした時代の推移のなかで、占領軍の時代には事実上禁止されていた時代劇大作『七人の侍』が登場したとき、それが単なる娯楽映画として消費されるはずはなかっただろう。実際、『七人の侍』に関して、再軍備の必要性を説いた映画として外敵に立ち向かう百姓たちの姿に政治的寓意を見出す批評も登場したのである。ついでにいえば、陸上自衛隊から劇中で描かれた作戦の出典について真面目な問い合わせもあったらしい。

 無論、四方田は、一つのフィルムを政治と社会の図式のなかに還元して、素朴な因果関係のもとに理解したつもりになることを戒めている。しかし、この作品が今や古典として拝跪の対象になっていることを思えば、それが成立した時代の文脈をおさえておくことは決して意味のないことではないだろう。

 また『七人の侍』が描く時代背景についても、歴史学に則って念入りな検証がなされている。本作において百姓は野武士に襲われる哀れな存在としてたちあらわれる。しかし、昨今の史学では、戦国時代の百姓たちは充分に武装していたことが明らかになっている。百姓と戦国時代の傭兵との間に判然とした境界があったわけではなく、また敵対することになる野武士と助っ人となる侍との階層関係も必ずしも明瞭ではなかったのだ。つまり事と次第によっては互いに立場が入れ替わることもありえたのである。
 四方田は日本史学の当時の状況を勘案しつつ慎重な筆致でもって黒澤の素朴な歴史観の妥当性を問いかけ、野武士たちの個性を欠いた描写について批判をこめながら吟味するのである。生き永らえた侍たちに次なる出番があったとすれば秀吉による朝鮮出兵であろうという指摘はまことに興味深い。

 さて、四方田が本書において強調するのは、この映画に描かれた「服喪の感情」についてである。
 戦闘に参加した七人の侍のうち四人までが戦死する。野武士たちは最後の一人まで退治され、戦いは侍と百姓側の勝利に終わる。終結部では、亡くなった四人の土饅頭の墓が映し出され、風が吹き抜ける。後にはただ仏教の説く無常観だけが残される。
 四方田はここでの描写に弔いの感情を読み取る。生き残った侍たちが死んだ同志たちに向ける服喪の感情。科白が簡略化され、土饅頭の映像に説明すら与えられないことによって、この感情はより強烈なものとなり、さながらフィルム全体を締めくくる基調音と化している、という。

 ラストで志村喬扮する勘兵衛がポツリと漏らす言葉は、この映画を語る者が言及せずにはおれない名セリフとされている。「今度もまた……負け戦だったな。……勝ったのは、あの百姓たちだ。わしらではない」。
 だが、この言葉の意味するところは必ずしも明確ではない。高校野球で勝った側の監督が「勝ったのは選手たちだ。話は選手たちに聞いてやってくれ」というのとは明らかに次元を異にするものだ。何故なら自分たちははっきりと「負け戦」だったと述べているのだから。
 四方田はいう。

 『七人の侍』のエピローグが告げているのは、もはやいかなる意味でも……善意に満ちた農村啓蒙活動などありえないという諦念にほかならない。状況を機微に分析して大衆を先導する知識人としての侍を、百姓たちはただただ意地悪く眺めているだけであり、彼らにとって重要なのは季節ごとに廻ってくる作物の生育ぐあいでしかない。百姓に何か貢献ができると思い込んだ瞬間に、侍は愚かな傲慢の罠に陥ってしまうのだ。勘兵衛の説く侍の敗北とはそのようなものであったと、黒澤明はいいたげである。(p182)

 もっともこの部分だけをいきなり引用してもわかりにくいかもしれない。四方田がこのように記すまでには、綿密な時代考証のみにとどまらず、黒澤の過去の作品『わが青春に悔いなし』などの詳細な分析が行なわれている。また共産党による山村工作隊の挫折に言及し、プロレタリア絵画運動の尖兵として非合法活動に従事した彼の経歴をたどったりもしている。エンディングにおける勘兵衛のセリフはなかなかに意味深長なのであり、単純な解釈を許さないものだ。

 いずれにせよ、四方田はここで『七人の侍』を多角的に論じて、この作品が孕みもつ豊穰さを美事に提示した。この大作、いや黒澤明という映画作家に関心をもつすべての映画ファンにとって必読の書といっても過言ではないだろう。
by syunpo | 2010-07-10 10:59 | 映画 | Trackback | Comments(0)

少年は、旅立った〜『「悪」と戦う』

●高橋源一郎著『「悪」と戦う』/河出書房新社/2010年5月発行

b0072887_18501792.jpg 「悪」と戦う。といっても、そこは高橋源一郎。ウルトラマンが他の惑星から侵攻してくる宇宙怪獣と戦ったり、水戸黄門が悪徳商人を退治するような、明快な勧善懲悪の物語が綴られているわけではもちろんない。ここでは、戦いに駆り出された三歳のランちゃんは本当に戦っているのか、そもそも「悪」とされている者たちが本当に「悪」なのかすらもあやふやだ。

 冒頭に子どもの言葉の習得をめぐる挿話がおかれている。長男のランちゃんはもっぱら文学作品から引用することで言葉を操り、次男のキイちゃんは言葉が遅れていて、「だっ」とか「ったったった」というようなパパには認識不能の擬声語を発するのみ。言葉と格闘するパパ(=小説家らしい)と息子たちの挿話が提示される導入部は何やら暗示的で、純言語的なモチーフへの期待感をも充分に抱かせてくれるのだが……。

 世界が壊れかけ、世界の中身が流出し始め、この世のあらゆるものが隙間に落ちていく。世界は今までも壊れかけていたが、みんながちょっとずつ補修してきた。けれどもどうやら小手先の補修では間に合わなくなったらしい。
 世界を救うために、ランちゃんは「悪」と戦うはめになる。けれどもどうやって戦うのか、「悪」がどこにいるのかもわからない。みんな自分で見つけなければいけない。「悪」の手先とされるミアちゃんがいろいろ姿を変えて出現する。ランちゃんが「悪」と戦っていく様はさながら地獄巡りのようで、次から次へと試練が襲いかかってくるのだった。

 並行世界を描いた作品ということでは東浩紀の力作『クォンタム・ファミリーズ』が想起されるが、こちらはもう少しお手軽で童話風。高橋のエコロジー的な問題意識のうかがわれる描写が随所にみられるほか、イジメや家庭崩壊といった今日的な社会問題も取り込まれている。

 子どもの頃に誰もが感じるであろう、宇宙の広大さや悠久の時間の連鎖に対する眩暈のような感覚、あるいはもっと端的に死後の世界への恐怖感にも通じる漠たる不安感のようなものが巧く描出されているような気もするが、ありきたりなオチのつけ方にはいささか拍子抜けした。
 ツイッターを操る今時の作家の、いかにも今風の首都圏の若者言葉が駆使された小説で、私の嗜好には今一つフィットしなかったけれど、面白いと思う人にはたいそう面白い小説かもしれない。
by syunpo | 2010-07-07 19:01 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

道徳も宗教も大いに論争せよ〜『これからの「正義」の話をしよう』

●マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳)/早川書房/2010年5月発行

b0072887_21104462.jpg 今、話題のハーバード大学マイケル・サンデル教授の本である。念のため記しておけば、彼の学部講義〈Justice〉は超人気で、建学以来初めて一般公開されることとなり、その模様はPBSで放映された。評判は太平洋を越えて、この春から日本でもNHK教育テレビの電波に乗った。本書はその講義録をベースにして執筆されたものである。

 私も吹替による日本版番組を断片的に何度か見たが、なかなか見事な授業であった。大教室での講義でありながら聴講生の集中力はよく持続されている。随時投げかけられる教授の問いかけにも学生たちがぞれぞれ忌憚なくしっかりした意見を返し、教授もまた一つひとつの発言を丁寧に咀嚼し手際よく交通整理をほどこして講義を転がしていく。我が学生時代を振り返ってみても、これだけ中身の濃い授業を実現させている米国の最高学府の底力はやはり侮れないと思った。本書では、サンデルのよく吟味された語りを充分に味わうことができる。

 前半部では、これまで正義や道徳について深く考察した先賢の知見が手際よく紹介されている。ジェレミー・ベンサムの功利主義、ロバート・ノージックが擁護したリバタリアニズム(自由至上主義)、イマヌエル・カントの道徳哲学、ジョン・ロールズの正義論、アリストテレスの倫理学……。これらを概説するのに、具体的な裁判や事件を引き合いに出して論点を導き出すサンデルのスタイルはよく洗練されている。カントやロールズの考え方を紹介した後に、アリストテレスの素朴な道徳論を持ってくる構成もなかなか巧みだ。

 とりわけ著者の論敵ロールズに言及したくだりはいっそう熱が帯びる。
 ロールズが「無知のベールに覆われた仮説的同意」という考え方を提起したことはよく知られている。共同体の生活を律する原理を選ぶために、ある一つの仮定を設定する。人々は自分が社会のどの位置(階級、性別、人種などなど)にいるかわからない「無知のベール」をかぶった状態にいると仮定した場合——つまり交渉力に差のない状態——において選択する原理こそが公正なものだ、という考えである。そこでは、言論の自由などの基本的自由が選ばれ、社会で最も不遇な立場にある人々の利益になるような社会的・経済的格差のみが認められる。それがロールズの想定する「仮説的同意」だ。
 サンデルはロールズの正義論について「アメリカの政治哲学がまだ生みだしていない、より平等な社会を実現するための説得力ある主張」とひとまず評価する。

 しかし、後半、サンデルが自説をはっきり打ち出すチャプターに入ると、市場原理や功利主義はもちろん、ロールズに代表される現代リベラリズムに対しても批判の刃が向けられる。ロールズを批判するためにサンデルが持ち出すのはアラスデア・マッキンタイアの提唱した「物語」という概念だ。ちなみにサンデルの立場は現代リベラリズムに対してコミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ばれている。

 ロールズらリベラル派が唱える人間の責務には二種類しかない。人間に本来つきものの自然的責務と合意のうえで受け入れる自発的責務である。サンデルはそれでは不充分だとして「連帯の責務」という概念を持ち出す。端的にいえば、国家・民族の一員、歴史の担い手、共和国の国民……としての自分、「物語」の中を生きている自分を引き受けよ、という主張だ。そうしたアイデンティティは、道徳や正義を考える際に無視しえない要素であるという。

 「達成不能な中立性を装いつつ重要な公的問題を決めるのは、反動と反感をわざわざつくりだすようなものだ。本質的問題に関与しない政治をすれば、市民生活は貧弱になってしまう。偏狭で不寛容な道徳主義を招くことになる」(p314)
 ゆえに、みずから生まれ育ってきたコミュニティの歴史や伝統など「物語」を無視することはできない。人間には、契約や合意には拠らない「物語」のコンテクストにおいても道徳や責務は生じる、というのだ。

 なるほど、米国の白人たちが重ねてきたネイティブアメリカンや黒人への差別、あるいはナチスドイツの反ユダヤ政策への責任を問う場合には、こうした「物語」の導入は有効に働く。
 また、サンデルのいうように道徳的・宗教的判断を完全に回避して政治的論争を行なうことはできない。その意味で「各個人の選択を尊重すべきであって、政治的公共空間に宗教や道徳を持ち込むべきでない」というリベラリズムの「中立性」の主張には無理がある、というサンデルの指摘は正鵠を射ていると思う。

 しかし、疑問も拭えない。
 相互に異なる「物語」を背負った公的人間が新規の課題で厳しい対立局面に入った時、「物語」を強調する政治哲学はその対立を助長することはあっても問題の解決にはあまり貢献しないだろう。
 「歴史」や「伝統」はそれじたいが学術的に論争のある概念であるが、それらを重視するサンデルの態度は、エドマンド・バークに源を発する本流保守思想とも通底する。
 いずれにせよ、偏狭で不寛容な道徳主義を回避するためと称して持ち出される「物語」もまた、別の局面では偏狭で不寛容な道徳主義をもたらすことは必定である。現実の国際社会をみれば、それぞれの国家や共同体が抱える「物語」と「物語」が衝突することは避けられず、その場合には政治的・軍事的に強い側の「物語」が勝つことは自明ではないか。それは何を隠そうサンデルが生きて立つアメリカ合衆国政府の振る舞いを見れば瞭然であろう。ロールズの正義論には欠点があるが、それを批判するコミュニタリアニズムの物語論にも副作用は多い。

 結論的にサンデルが述べている「共通善に基づく政治」にしても内容的にはいたって凡庸なものだ。コミュニティの空洞化が市民道徳を蝕むという懸念は、サンデルによれば再分配に執心しているリベラル派が見過ごしているものらしいが、そのようなサンデルの指摘には逆に驚いてしまった。コミュニティの空洞化による弊害など、日本では学者はいうにおよばず社民主義政党から保守派までたいていの政治家が口にしていることだ。

 もっとも、政教分離の欺瞞性を暴き出し、あらゆる問題を公共空間に持ち出して議論しようではないかというサンデルの提起は討議を重んじる昨今の政治哲学や公共哲学の流れに沿ったものとはいえるだろう。そもそも今日では斬新で画期的な政治哲学の構想などそう簡単にありえようはずもなく、かえっていかがわしいというべきかもしれない。サンデルのいうように「同朋が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念」と対峙し「ときには反論し、論争し、ときには耳を傾け、そこから学」ぶ姿勢以外にさしあたり公共空間を強化する術はないだろう。「正義」への道に魔法の杖などありはしない。
by syunpo | 2010-07-04 21:43 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)