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日系二世建築家の軌跡〜『9・11の標的をつくった男』

●飯塚真紀子著『9・11の標的をつくった男』/講談社/2010年8月発行

b0072887_20192316.jpg 二〇〇一年九月一一日、ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)はテロの標的となって崩壊した。このビルをつくったのは日系二世アメリカ人の建築家であった。ミノル・ヤマサキ。本書は彼の苦難と成功の軌跡を追った初めての評伝である。

 ミノル・ヤマサキはシアトルのスラム街で生まれ、叔父の影響で建築家を志し、日系人に対する偏見や差別と闘いながらWTCプロジェクトの仕事を獲得・成就した。完成後も批判が絶えなかったビルのメンテナンスやパブリシティにも気を遣い、またWTCの建設と並行してサウジアラビアでのプロジェクトにも関わった。晩年には日米で宗教建築を手がけた。家族との時間を犠牲にしながら建築家として名を成し、オックスフォードの墓地に遺骨が埋葬されるまでの波乱万丈の生涯が関係者への取材や残された文献などによって再構成されていく。なかなかの労作だ。

 ミノルがWTCの主任建築家に起用された理由や背景については、様々な見方や証言がある。
 「(クライアントの)ニューヨーク港湾局は、ヤマ(=ミノル・ヤマサキの呼称)がデザインに取り込んできた人間的な要素が、非人間的に感じられる高層ビルの弱点を克服してくれると考えたのでしょう」「ヤマを選んだのは、彼がとてもよくレスポンスしてくれたからです」「ヤマサキはアウトサイダーだったから選ばれたんです。港湾局は著名な建築家にうんざりしていました。彼らは頑固で大きなエゴがあり自己正当化し、一緒に働きにくく、コストもかかった」「港湾局は、有名建築家ではなく、当時、中堅だったヤマサキのような建築家なら操作しやすいと考えたのでしょう」……などなど、元部下、クライアント関係者、批評家たちがヤマサキ指名の理由をそれぞれの立場から分析する声をひろいあげ、結果として当時の米国建築界の潮流や空気までを浮き彫りにしたくだりがとりわけ面白かった。

 それにしても、人間的スケールの建築、建物のヒューマニティを志向したミノル・ヤマサキが「ピラミッド以来の最大の建築」と謳われる巨大プロジェクトに参画し、完成後にはそのビルが弱肉強食の米国型資本主義のシンボルとみなされテロリストによって破壊される──何という歴史のアイロニーだろうか。
 本書ではさらに、ミノルがイスラム建築から多大なインスピレーションを得ていたことに言及し、WTCもまたイスラム建築風であったことに触れ、「オサマにとって、WTCはおそらく国際的なトレードマークであっただけでなく、間違った偶像だったのだ」という建築家ローリー・カーの興味深い指摘を引用している。
 著者がミノルの墓地を探しあてて、その墓石の様子と彼の建築を重ね合わせるエンディングが深い余韻を残して印象深い。

 ところで、著者の飯塚真紀子さんとはずいぶん昔、同じ月刊誌で仕事をしていたことがあって、一度だけ編集部で顔を合わせたことがある。当時すでにロサンゼルスを拠点にして仕事をしていたと思う。その後ほどなくして彼女は単行本を続けざまに刊行、私にも報告のポストカードをくれた。『ある日本人ゲイの告白』『キャブにも乗れない男たち』という書名と題材が、会った時の印象や私たちの接点である月刊誌のコンセプトとギャップがあったのでちょっぴり驚いた。
 本書は彼女の十年ぶりの単行本ということらしい。海外での煩雑な取材やリサーチを一冊の書物に結実させるには苦労も多いことだろう。変わらぬ精力的な仕事ぶりには拍手をおくりたい。
by syunpo | 2010-10-31 20:45 | ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

英語にはない新たな世界〜『我的日本語』

●リービ英雄著『我的日本語』/筑摩書房/2010年10月発行

b0072887_1114329.jpg 日本語を母語としない西洋人が日本語を書く。これは近代以降の日本文学史、いや日本語史にとって画期的な出来事であるといってよい。しかしもっと長いタイムスパンでみれば、そもそも日本語の書き言葉そのものが大陸からの渡来人によって大きな影響を受け、外国語との接触によって鍛えられてきたという側面は否定できない。その意味では、リービ英雄の日本語への参入は日本語を問い直し且つ活性化していくという点では極めて意義深いことであるだろう。

 《万葉集》において人々は漢文ではなく仮名混じりの言葉で歌った。すなわち「初めてエクリチュールを持った文化として作られた」。その代表的歌人・山上憶良は百済からやってきた帰化人であるとする説が中西進らによって提起されている。リービ英雄はその説に共鳴する。そのうえで「外国人には日本語が分からない」という思い込みは「近代の虚妄」であると言い、成り立ちから今日に至るまでの日本語の歴史に奔放な文学的想像力を発揮しながら自身の文学や翻訳を解題していこうとするのだ。

 リービ英雄は幼年時代を台湾で過ごした。初めて大陸に旅して北京の地に立ち、現地の言葉が聞こえてきたとき、その音によって、台湾での記憶が呼び覚まされた、という。言葉の響き。言葉の記憶。リービ英雄の関心は常に言語に対して鋭く開かれてある。そこから「ジャーナリズム/文学」さらには「真名/仮名」「文明/文化」などの対比におもむき、中国を文学的・言語的に捉えようとする姿勢は刺戟に富んでいる。
 天安門広場に立って《万葉集》の歌を想起する。そのような発想は日々ホットな情報を追いかけているジャーナリズムにはありえない。

 ひとりの作家の洞察と、実際の世界の権力の構図が、今並行して動いている。並行して動いているから、現代史は複雑になり、中国そのものがさらに複雑になって、わかりにくくなっている。
 しかし、そのような大陸を書くことは、絶対新しいことだと、ぼくは自信を持っていえる。(p144)


 中国やアメリカ大陸での体験を日本語で表現することのうちに、日本語さらには言語の可能性が拓かれていくのではないか。そう著者は考える。「日本語によって、世界そのものの輪郭と細部がすべて新しく見えた」という述懐はまさに文学者のものだ。

 このほか、新宿での生活、万葉集の翻訳、他界する直前の李良枝と交わした対話、九・一一同時テロでカナダに足止めをくらったこと……などなどの実体験が「日本語論」「言語論」となってほとばしる様はまさに越境的作家としての面目躍如たるものがある。

 ただし、本書の内容は著者がこれまで刊行してきたエッセイや対論と重複している点が非常に多い。リービ英雄の愛読者にとってはいささか新鮮味に欠けるかもしれない。
by syunpo | 2010-10-28 11:48 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

カメラはぎりぎりの境界線に置け!〜『黒沢清、21世紀の映画を語る』

●黒沢清著『黒沢清、21世紀の映画を語る』/boid/2010年10月発行

b0072887_19111453.jpg 黒沢清が商業映画にデビューしたての頃、あるテレビ番組で映画についてトークしているのをみて、そのあまりの口下手ぶりに好感を抱いた記憶がある。管見では、そのような場所で滔々と喋るクリエイターにロクなのはいない。というわけで、そんな映画監督も今では国際的にも評価を高め、大学で講義するなど立派なカリスマ的存在になってしまった。

 本書は黒沢清が映画について語った講演の記録をまとめた本である。講演場所は日本にとどまらず、ソウルシネマテーク、イェール大学など海外も含まれる。気の利いた語彙を駆使するわけではないが、その素朴な語り口からいつのまにか映画の本質に迫っている……というような内容で愉しく読んだ。

 本書において最も重要な事柄の一つとして語られているのは、映画における「リアル/ドラマ」の相克とでもいうべき問題である。この場合、リアルを「映像」に、ドラマを「脚本」に置き換えることができる。
 映画の製作現場においてはこの両者は完全に分離している。カメラを回せばとりあえずカメラの前にある風景はありのままに映ってしまう。脚本を映像にするという作業は「嫌になるほどあからさまなリアルを相手にしなければならない」。そして編集などの仕上げの段階で、本来は水と油で縁もゆかりもないはずの「リアル」と「ドラマ」とを強引に妥協させていく。そして最後に「リアル」とも「ドラマ」ともつかない、本質的に中途半端なできそこないの表現がそこに出来上がる、それが「映画」ではないか、と黒沢はいう。
 とすれば、この「リアル」と「ドラマ」の兼ね合いにこそ監督の意思や作家性が露骨に現れるということになるだろう。

 ルイ・リュミエールの《工場の出口》に何度も言及しているのも目をひく。これを世界最初の映画と認定するのは「おそらく世界で初めて、画面には映っていないフレームの外にまで見ている者の思いをかき立てる、そういう映像だった」からだと黒沢は指摘する。
 そこから話を発展させて、あるべき二一世紀の映画とは「不意に露呈する外側」が色濃く立ちこめるものではないか、と蓮實重彦ばりに提起するくだりが印象に残った。

 また「人間描写」という概念をめぐって《悪魔のいけにえ》を例に問題を投げかけるのもいかにも黒沢らしいし、「高橋洋と哀川翔に負けた話」(?)も黒沢の実直さが出ていて面白い。
 本書を読んで、スピルバーグや大島渚、ブレッソンらをあらためて見直してみようと感じる読者は少なくないだろう。
by syunpo | 2010-10-24 19:21 | 映画 | Trackback | Comments(0)

人間への鮮烈な問い〜『漱石 母に愛されなかった子』

●三浦雅士著『漱石 母に愛されなかった子』/岩波書店/2008年4月発行

b0072887_1828283.jpg 夏目漱石は母に愛されなかった。少なくとも彼自身はそのように思っていた。三浦はもっぱらそのような観点から漱石の作品を読み解いていく。通常、作者のそうした生い立ちにまつわる事実を切り口にした場合、その切れ味の良さを提示できたとしても、それと引き換えに肝心の作品の持つ豊かな多義性が損われ、テクスト読解としては貧相なものに終わってしまいがちなのだが、本書はそのような陥穽を免れて彫りの深い漱石論となっている。
 それは何よりも、自分は「母に愛されなかった子」という漱石の認識が個人としての苦悩や僻みを超えて人間存在そのものの苦悩や葛藤へと繋がるものであった、と考えられるからだ。

 母に愛されなかった子という主題は、もちろん、きわめて個人的な漱石自身の出生の秘密に根差していますが、しかし漱石はそれを自分というものの仕組み一般の問題にまで高めた。自殺が一貫して話題になるのもそのためである。狂気にしても同じです。漱石は、自分というものの仕組み、人間の仕組みは、狂気に隣接していると考えたのです。(p52)

 捨て子などめずらしいことではない。孤児だってめずらしいことではない。その境遇を自分の課題として受け止め、深く考え抜くことがめずらしいのです。(p154)

 漱石は、母に愛されなかった子という主題のさらに背後に、母から認められなかった子という問題が潜むこと、そしてそれがじつは、家族をも含めた社会というものの本質であることに気づいたのだと思われます。(p212〜213)


 三浦は、鏡子夫人の『漱石の思い出』などに言及するほかは弟子や第三者の書いた伝記類にほとんど依拠せず、当然のことながら漱石の残した(友人宛の手紙を含む)テクストのみに関心を集中している。そのことによって出生の秘密からくる漱石自身の屈折した感情を浮き上がらせ、さらにその地点から漱石が(時には無意識に)描出しようとした「人間の仕組み」へと接近していくのである。

 それにしても三浦の俯瞰的かつ緻密な読みによって個々の作品が明快に位置づけられていく、その手並みは見事というほかない。
 『虞美人草』は「母に愛されなかった子が、母を罰する小説」であり、『三四郎』『それから』『門』の前期三部作で主題とされているのは「自分が愛していること、自分が愛されていることに気づかない罪にほかならない」。
 また『こころ』においては「母に愛されなかった子という主題が、随所に滲み出てくるわけですが、漱石はあからさまなかたちではどこにもその痕跡を残していない。ただ、母に愛されなかった子という主題によって発生した心の癖、行動の癖だけが、さまざまなかたちで物語を動かしていくだけです」という。
 『明暗』を「承認をめぐる闘争」の劇として読み解くのは、柄谷行人の批評を基本的に踏襲するものだが、『野分』との対比で論じられる登場人物像の分析には思わず唸らされた。

 さらに漱石の懐疑的な人間理解を世界思想史の文脈で把握しようとする三浦の読解は、凡百の漱石研究にはないスケール感をもたらしてくれる。

 漱石は考え始めるそのいまの自分を疑っている。何ものかによって考えさせられているのではないかと疑っている。こういう疑い方を一般的なものにしたのは、マルクスとニーチェとフロイトだと言われています。マルクスは社会が考えさせる、ニーチェは言語が考えさせる、フロイトは無意識が考えさせる、と考えた。影響関係があるとは思えないが、漱石の考え方にはマルクスやニーチェやフロイトに通じるところがとても多い。(p195)

 常体と敬体の入り混じった三浦の奇妙な文体に最初は違和感を覚えたが、読み進むうちに気にならなくなった。漱石の複雑な生い立ちを背後に見る読解はこれまでにも多くなされてきたけれど、本書はそれを徹底しより深化させたという点で、いっそうの光彩を放っているように思われる。
by syunpo | 2010-10-22 18:34 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

リベラリズムの新たな地平〜『生きるための自由論』

●大澤真幸著『生きるための自由論』/河出書房新社/2010年10月発行

b0072887_18575037.jpg 今日、脳科学や認知科学の研究成果は人文・社会科学の学者にも大いに刺戟を与えるものらしい。現実に認知科学との関連をその学問の名に刻みこむケースも珍しくなくなった。認知考古学や認知経済学、認知社会学、認知哲学などがそれである。

 本書は「自由」という古くて新しい概念を考察した二篇の論考から成る。
 第一部ではやはり認知科学の成果に立脚しつつ心脳問題の観点から「自由」を考える。いわば認知科学的自由論とでもいうような内容だ。とりわけ「盲視」や「カプグラ症候群」(自分の両親を本物そっくりの贋物であると思い込むような症状があらわれる)などのケースを引きながら、身体の動きと自意識とが必ずしも一致しない実例が紹介されるくだりは興味深い。
 もっともこれらの症例を経由して「自由」の問題へと思考を進めていく大澤の足取りを手短に要約するのはむずかしい。詳細を省いて結論的なことだけを記すと、おおよそ以下のようになる。

 大澤は最終的にはジャック・ラカンに基づく「第三者の審級」という概念を援用しながら「自由」の再定義を試みる。第三者の審級とは、規範の普遍的な妥当性に対する保証人をさす。大澤によれば、自由な行為とは第三者の審級の問いかけに対する応答である。
 他者の肯定・否定のまなざし、他者の審問から独立に、私の「行為」の選択という現象自体はありえない。それゆえ自由は、本来的に社会的な現象である。
 第三者の審級が撤退した現代においては、したがって自由の実現が困難になる。しかし〈他者〉とは、第三者の審級でなくてもよい、と大澤はいう。

 それはごく普通の他者、第三者への審級へと転回する以前の他者である。そのような〈他者〉との間で、自由を、純粋状態で、いわば発生状態で復活させることができるのだ。(p91)

 このような「自由の復活」に関して大澤は論考の末尾において聖書の「善きサマリア人」の例を引用して締め括る。
 認知科学の最新情報からラカンの精神分析理論を経て自由の再定義へと向かう道筋は、スリリングではあるものの、結論的には茫漠としたもので、私には今一つピンとこなかった。

 第二部〈連帯の原理としてのリベラリズム〉は、政治思想としてのリベラリズムを再吟味することによって「自由」という概念そのものを抜本的に刷新しようとする意欲的な試みである。

 古典的なリベラリズムは、他者の存在が自由にとって脅威になりうることを当然視してきた。それゆえリベラリズムはそれ自体として連帯の原理とはなりえず、連帯のための条件はリベラリズムとは別のことろから調達しなければならない、と考えられてきた。(p155)

 しかし第三者の審級によって自由が成立している以上、「他者がいなければ無際限の自由が可能だ」という古典的なテーゼとは逆に「他者がいなければ自由そのものも不可能だ」ということになる。
 特殊化されたアイデンティティへの違和にこそ「普遍性」の次元があらわれるという大澤の認識はなるほど面白い。普遍主義の徹底化とは「他者がいなければ自由そのものも不可能だ」とする新たなリベラリズムの原理を最後の最後まで追求することなのである。
 すなわち、リベラリズムが直接に連帯の原理ともなりうるということ。大澤はそのように結論する。

 アカデミズムの垣根を自在に飛び越えながら、いつのまにやら「自由」の問題へと接近していく前半部のスタイルは読者によって評価は大いにわかれそうだが、大澤の文字どおり「自由」で闊達な思索の跡が刻まれている本といえるだろう。
by syunpo | 2010-10-20 19:14 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

民主政治再生のために〜『ポピュリズムへの反撃』

●山口二郎著『ポピュリズムへの反撃』/角川書店/2010年10月発行

b0072887_9395529.jpg 「ポピュリズム」とは一九世紀の米国で農民を支持基盤とした政党(ポピュリスト・パーティ=人民党)による重農主義的な政治運動を意味する言葉であったことは、政治学の入門書や事典には必ず書かれている。ただし今日ではこの言葉は原義を離れてしまい、論者によって異なった意味内容を込められ、時には明確な定義を与えられず漠然と使われていたりする。ゆえに「ポピュリズム」という言葉を使って政治を語る時には、明快な再定義をほどこしたうえでなければ、いたずらに議論を空転させるだけでたいした成果は得られないだろう。

 本書はその「ポピュリズム」をキーワードに現代日本の政治を考察した本である。
 手垢にまみれた言葉に新鮮なコンセプトを盛り込んで政治の新たな可能性を提示してくれるのか。それとも混乱のうえに混乱を重ねるようなつまらない結果をもたらすのか──。

 山口はポピュリズムについて英国の政治学者バーナード・クリックの定義を掲げることで叙述を開始している。

 ポピュリズムとは、多数派を決起させること。あるいは、少なくともポピュリズムの指導者が多数派だと強く信じる集団(中略)を決起させることを目的とする、ある種の政治とレトリックのスタイルのことである。(p14)

 いきなりここでズッコケた。ポピュリズムを定義するのにポピュリズムという言葉を用いる同語反復に陥っているのだから定義になっていない。議論の根幹部分がこのような杜撰なものなので、本書において「ポピュリズム」なる言葉は結局いかようにも拡大解釈され濫用されているような印象である。

 山口によれば社民党もみんなの党もポピュリズム的政党ということになるらしい。さらに小泉純一郎に代表される今のポピュリスト的リーダーについて「本来利害を共有する人々の中に分断線を引き、人々のエネルギーの分散させます。そういうポピュリズムなのです」と述べるに及んでは、およそクリックの定義ならざる定義の対極にまで意味内容が拡散してしまっている。ポピュリズムの内実が変容したというよりも、山口が恣意的にこの語句を使っているだけではないかと感じた。

 ありていにいってしまえば、著者の賛同できない政治リーダーを批判するのに「ポピュリスト」のレッテルをはり、随時彼らに適した定義や解釈をあてはめているにすぎないのではないだろうか。
 もっとも山口はポピュリズムを全面的に否定しているわけでもなく、「ポピュリズムにはポピュリズムで反撃を」と嗾けてもいる。そうなると実質的なことは何も言っていないに等しい。

 手垢にまみれた言葉に新鮮なコンセプトを盛り込んで政治の新たな可能性を提示してくれるのか。それとも混乱のうえに混乱を重ねるようなつまらない結果をもたらすのか──。
 ……最初に示した問いかけに対して、今ここで私の読後感を記すならば、答えは明らかに後者ということになる。

 山口二郎の識見には私はこれまで多くのことを教えられてきた。小泉・竹中の新自由主義路線を未だに主張してやまないエコノミストや自民党政権からお金を頂戴して長期腐敗政権の太鼓持ちを演じてきたエセ言論人などに比べれば、はるかに信頼できるし共感できる点は多い。
 本書においても、高福祉高負担のスウェーデンと税負担の軽い米国とを比較して、可処分所得の割合をみればほぼ同じという指摘など、キラリと光る叙述にも少なからず触れることができた。
 しかし全般的には上に記したような議論の粗雑さや混乱が目立ち、山口の最近の著作のなかでは残念ながら最悪の出来映えといわざるをえない。
by syunpo | 2010-10-16 09:52 | 政治 | Trackback | Comments(0)

推理小説の嚆矢〜『モルグ街の殺人・黄金虫』

●エドガー・アラン・ポー著『モルグ街の殺人・黄金虫』(巽孝之訳)/新潮社/2009年5月発行

b0072887_1842561.jpg 二〇〇九年は、エドガー・アラン・ポー生誕二百年のメモリアル・イヤーだったらしい。本書はそれを記念して刊行された新潮文庫の新訳版〈ポー短編集〉シリーズ第二弾の〈ミステリ篇〉である。世界文学史上、探偵小説(推理小説)の草分けとなった《モルグ街の殺人》をはじめ、主要な作品六篇が収録されている。

 ポー以降、このジャンルは様々なトリックやプロットが考案・開発されて大いなる発展を遂げた。その基礎を固めたポーの作品は現代にあっても古臭さをあまり感じさせない。
 密室殺人、名探偵の活躍、意表をついた犯人像……といった推理小説の主要な要素を織り込んだ《モルグ街の殺人》。犯人は最初に明らかにされ、盗まれた手紙の在処をめぐって探偵デュパンが活躍する《盗まれた手紙》。語り手と事件との意外な関係を描いた《おまえが犯人だ》。暗号小説の傑作《黄金虫》。それに加えて、ミステリの範疇には入らないが、不思議な味わいをもった《群衆の人》、童話風にまとめられた《ホップフロッグ》。

 これらの作品を読むと、あらためてポーの文学・科学全般への関心の広さに驚かされる。無論、それはポーにかぎった話ではなく一九世紀の文学者はたいてい教養人であったのだが。
 いずれにせよ、それだけデュパンをはじめ主役的な登場人物は饒舌であり、ところどころ理屈っぽくて辟易させられたりもするのだけれど、単にミステリ小説の専門家というワクにはくくれないポーの器量の大きさを本書においても確認することができるだろう。

 さらに、探偵が真実を暴かんとして行動したり推理を働かせるということは、何か文学そのものの営みではないかという思いを喚起させられる。実際、日本でも谷崎潤一郎は探偵小説的な作品をいくつか残しているし、夏目漱石もまた晩年の作品においては登場人物に「探偵」的な振る舞いをさせている。真実を追究していく探偵的な言動はまさにそれじたいが「文学的」であるというべきかもしれない。

 あえて記してしまうが、《おまえが犯人だ》では語り手が第三者的な事件の報告者を装いつつ、深く事件に加担していたことが最後に明かされる。推理小説では本作以降も語り手の位置すなわち「話法」そのものが常に重要な課題となり議論の的となってきた。しかし考えてみれば、それは文学全般がジャンルに関わりなく常に格闘してきた問題でもあっただろう。漱石の作品群も話法をめぐってのあれやこれやの試行の跡として今日なお私たちに問題を投げかけている。
 その意味ではポーの残したミステリ作品もまた文学の本質に関わる問題に触れているといえるのではあるまいか。
by syunpo | 2010-10-14 18:51 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)

現代をも照らす漱石の思想〜『私の個人主義』

●夏目漱石著『私の個人主義』/講談社/1978年8月発行

b0072887_18581036.jpg 夏目漱石は座談や講演の名手としても知られたらしい。講演録をもとに漱石自身が手を加え「評論」として後世に伝えられてきたものがいくつもあり、本書はその中から《道楽と職業》《現代日本の開化》《中味と形式》《文芸と道徳》《私の個人主義》の五篇を収めている。

 「自己本位」や「内発的/外発的」といった言葉は、漱石の作品や思想を語るときに今でもしばしば言及されるキーワードである。そうした言葉の意味するところはもっぱら漱石の講演で語られた。

 《私の個人主義》は、漱石が自身の半生を顧みながら率直にその苦悩や煩悶を吐露しているもので「他人本位」から「自己本位」へと意識転換した経緯が示されていて興味深い。
 「他人本位」とは「いわゆる人真似」とりわけ西洋への盲目的な信奉をさす。これを文学や人文科学に即していえば次のようになるだろう。

 ある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触れ散らかすのです。つまり鵜呑みと云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし。(p134)

 そこで「自己本位」という四字が浮かびあがってくる。「その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出した」と漱石はいう。

 ……今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人振らないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。(p136)
 
 そうした認識のうえに立って提起される「個人主義」とは「第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事、第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事」に帰着する。

 したがって、個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっていることに相違ないが、「各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです」とも付け加えられている。
 こうしてみると、今日「民主主義」の基本原理の一つともされている認識が、漱石にあっては「個人主義」の名で語られ顕揚されたということになろうか。

 このような「自己本位」や「個人主義」は、《現代日本の開化》における文明批評においては、より大きな歴史的認識とともに敷延されている。
 そこではまず「内発/外発」が問題になる。明治維新以降の欧化=開化を「外からおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式を取る」ようなもので、それを「外発的」として漱石は批判するのだ。「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」。

 対して「内発的」とは「内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向かう」のをいう。漱石によれば、西欧の開化は概してそうであるし、維新前の日本においても「比較的内発的の開化で進んで来た」といえる。日本の開化は「開国」以降急激に曲折し始めたのである。

 「時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない」という認識など今もなお当てはまるのではないか。

 もっとも、この問題で漱石は確固たる処方箋めいた言辞を掲げることはない。ただ以下のような控えめな言葉が発せられるのみである。

 現代日本が置かれたる特殊の状況によって吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされたるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。(p64)

 ……ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化していくが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。(p66)


 漱石の提起した難題から現代人は解放されたといえるのだろうか?
by syunpo | 2010-10-07 19:19 | 文学(夏目漱石) | Trackback | Comments(0)

必読書リストも付いているよ〜『私学的、あまりに私学的な』

●渡部直己著『私学的、あまりに私学的な』/ひつじ書房/2010年7月発行

b0072887_18193145.jpg 本書は、日本ジャーナリスト専門学校、近畿大学、早稲田大学などもっぱら「私学」の教育機関で教えてきた文芸批評家による「陽気で利発な若者へおくる小説・批評・思想ガイド」である。冒頭記された〈本書の使用法〉によれば、著者自身の積年の厳選「ネタ帖」でもあるらしい。

 ガイドと銘打っているだけあって、なかなか親切に出来ている。〈1年次〜基礎演習〉に始まり〈2年次〜テクスト論・ジャーナリズム演習・文芸批評理論〉〈3・4年次〜テクスト読解・批評ゼミ〉を経て〈大学院〜現代文芸研究指導〉へと文章の難易度も次第にステップアップしていくという構成。基本的には渡部がメディアに発表したコラムや批評文が収録されているのだが、種々雑多の文章を一冊にまとめた編集者の工夫のほどがうかがわれる。

 渡部の特長はどちらかというと低学年次のチャプターに収められた〈出来れば「優」を取りたい人のための「十戒」〉やNHKの換言マニュアルを分析した〈禁語録〉などの軽妙なエッセイに発揮されているのでないか。
 前者はレポート作成のノウハウ伝授という体裁をとりながら、「読む」ことをめぐる著者の思考=試行のあとがさりげなく刻みこまれていて、単なるハウツー物の域をこえた文章になっている。「共感とはしみじみすることではななく、深くうろたえることの別称である」といったフレーズなどつい引用したくなるような箴言が随所に顔をだす。後者では換言にみる公共放送局の政治性や思考の不徹底ぶりが鋭く抉られていて痛快。
 高学年次のテクスト読解篇では、中原昌也や川上未映子の小論のほか、後藤明生や谷崎潤一郎の本格的な作品論・作家論が並び、こちらは生半可な素養と読み方では弾き返されてしまいそうだ。

 ただし、著者の批評とりわけスポーツ批評は「サッカーの『チームプレー』とは本来、最高度に身勝手な者たちが、自由自在に作戦と戯れ、しばしば作戦をこえて不意の連携を作り出す一瞬の総和」であるといった言い回しに象徴されるように失礼ながら蓮實重彦の亜流ではないか──という以前からの印象を本書においても完全に払拭することはできなかったことを率直に言い添えておこう。
by syunpo | 2010-10-05 18:27 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

「溜め」のある強い社会へ〜『反貧困』

●湯浅誠著『反貧困 ──「すべり台社会」からの脱出』/岩波書店/2008年4月発行

b0072887_92179.jpg 遅ればせながら湯浅誠の『反貧困』を読む。
 貧困の問題が社会的にも政治的にもクロースアップされる機会が増えてきたのに伴い、それを快く思わない陣営からの湯浅個人に対する誹謗中傷も増えているようだが、本書にみる湯浅は地に足のついた活動家であり、優れた論客である。

 本書のサブタイトルにもなっている「すべり台社会」をはじめ、「溜め」「貧困ビジネス」などなど、貧困の問題を考える際にキーワードともいうべきいくつもの「流行語」を湯浅は生み出した。いずれも状況を簡潔且つ巧みに言い表した言葉ではないかと思う。言論にとってその種の表象能力はバカにはできない。これまで見えにくかった問題をマスメディアを動員して可視化=社会問題化しようと思えば、そうした食いつきの良い言葉は不可欠だ。実際、今でも湯浅の造語や言い回しを引用して貧困問題を語っている論考は少なくない。
 何はともあれ個別具体的な実例をいくつも紹介しながら、決して情緒に訴えるような筆致に堕することなく、豊富なデータに拠ってあくまで客観的理論的に「貧困」をみつめようとする本書には学ぶところ大であった。

 日本社会においては、「雇用のネット」「社会保険のネット」「公的扶助のネット」の三層に整備されているはずのセーフティネットが充分に機能していない。ありていにいえば、とことん貧困にある者ほどネットに引っ掛からない仕組みになっている。たとえば雇用保険は大企業に勤めていた者には手厚いが、非正規雇用の労働者には役立たないといったことだ。

 湯浅の包括的な視点は「五重の排除」の指摘に象徴されるだろう。貧困状態に至る背景には「教育課程からの排除」「企業福祉からの排除」「家族福祉からの排除」「公的福祉からの排除」「自分自身からの排除」の五重の排除がある、というのだ。最後の「自分自身からの排除」というのは、いわば排除の最終段階ともいえる深刻なものである。

 第一から第四の排除を受け、しかもそれが自己責任論によって「あなたのせい」と片づけられ、さらに本人自身がそれを内面化して「自分のせい」と捉えてしまう場合、人は自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態にまで追い込まれる。(p61)

 とりわけ湯浅が懸念するのは、貧困の連鎖だ。親世代が貧困にあると子供も結果的に同じような排除を受け、貧困に陥ることが多いという悪循環。そこではあらゆる条件に恵まれて何不自由なく生きてこられた者が平然と言う「自己責任」には帰せられない構造的な貧困の要因が横たわっているのである。

 今、問題になっている貧困の多くは「自助努力の欠如」ではなく「自助努力の過剰」にある、という湯浅の指摘は充分に説得力を感じさせるものだ。
 たしかに社会福祉の制度を悪用している輩はいるだろう。働ける環境にありながら仕事をしない怠け者も少なからずいるだろう。しかし現下に進みつつある貧困の問題は、そうした連中を「改心」させれば一件落着となるようなお気楽な状況では残念ながらない。政治による積極的な貧困対策が不可欠なのである。
 政権交代により、湯浅自身が内閣府参与に起用されるなど状況は変わりつつあるものの、民主党政権の足下も今一つおぼつかない。

 いずれにせよ、本書を読めば「貧困は働かない当人の自己責任」「本当に学校に行きたいなら、バイトでも何でもして学費くらい自分で稼ぐはずだ」「生活保護以下の収入で生活しているヤツもいるのだから、贅沢いうな」といった言葉を安易に口にすることがいかに傲慢で的外れであるかがよくわかる。今さらいうのもなんだが、貧困問題を語るにはやはり避けて通れない本である。
by syunpo | 2010-10-02 09:24 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)