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ブックラバー宣言

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世界の無償性のなかで〜『不純なる教養』

●白石嘉治著『不純なる教養』/青土社/2010年4月発行

b0072887_20224857.jpg 本書には大学や思想をめぐるラディカルなテクストが収められている。高等教育の無償化やベーシックインカムなどアクチュアルな問題が議論の対象になってはいるが、それらの政治課題もまた思想やアカデミックな言説のコンテクストのなかで捉え直される。
 大学という存在そのものについても同様だ。大学とは建物でもなければ、厳密には学校でもない。大学(university)とはまず組合(universitas)として創設されたものであることを銘記すべし。それは国家や資本の萌芽に対して出現したものにほかならない。そのことはくりかえし中世ヨーロッパにおける大学の誕生に遡及されることで強調される。

 白石嘉治はフランス文学の研究者であるが、ここでの思考は当然ながらそのような専門分野の垣根を軽々ととびこえていく。白石は図像学におけるパノフスキーとヴァールブルクを対照させながら次のように述べる。
 すなわちパノフスキー的な図像学では「知識はクロノロジカルに整理され、なんらかの目的にむけて蓄積されていく。賭け金は、『純粋』な知識の獲得をつうじて、一定の体系や人格を完成ないし進化させることである。それは従来の教養主義が思い描くような教養」である。これは効率化・予測可能性を旨とするネオリベラリズムの統治へとつながるものだ。
 対して「不純なる教養」と呼ぶべきヴァールブルク的な教養は「文献学的ともいえる終わりのない探求によって、めざすべき完成や進化は等閑に付され切り裂かれてしまう。知識は蓄積されるものではなく、一種の出来事として出来する」。

 かくして「不純なる教養」が顕揚されることとなる。その前提として大学は無償でなければならないし、思想の営みは大学の無償化となる世界そのものの無償制にねざしている、と白石はいう。
 ベーシックインカムについても、その要求に賭けられているのは「非物質的なものの生成に寄生する資本の運動の終わりであると同時に、われわれの生が根ざす次元についての再定義にほかならない」として積極的に支持される。これは福祉国家論的な見地からする言説とはまったく趣を異にしていることに留意せねばならない。

 不純なる教養はまた文脈により様々な言辞に置き換えられるだろう。それは「爆発的なコミュニケーション」であったり、新しい共同財を産みだしていく自律的な運動であったりするのだ。
 他方、同じ論理的根拠によって、日本学生支援機構の貸与中心の奨学金制度のあり方やG8大学サミットなどは痛烈な批判の対象となる。

 本書の叙述はさながら引用のタペストリーといった趣で、ところどころ思念的な言辞が先走って生硬な言葉遣いもみられるが、著者独特の熱気に引っぱられるように読み終えた。
 不純なる教養。それは、認知資本主義による精神や感情そのものの捕獲に対抗するために、ネオリベラルな思考による教養教育への攻撃を迎え撃つために、そして無数の新たな夢をつむぐために、要請されるのである。
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by syunpo | 2010-11-29 20:39 | 思想・哲学 | Comments(0)

自発的な公共空間としての〜『美術館をめぐる対話』

●西沢立衛著『美術館をめぐる対話』/集英社/2010年10月発行

b0072887_20244651.jpg 美術館が公金で建てられるとき、それはしばしば「ハコモノ行政」の典型とみなされる。美術館の内容や運営次第では地域社会を活性化する起爆剤となりうるが、逆に財政を圧迫するだけの単なるハコに成り下がってしまうこともある。

 美術館とは本来的には「アート」や「町づくり」や「公共性」の接点となるべき公共空間ではないのか。その意味では今日多様な視点からの再吟味が要請されている。あらためて私たちは問い直さねばならない。……美術館はどうあるべきか? そしてアートとは? 公共性とは?

 そうした問題をめぐって、これまでいくつか美術館の設計を手がけてきた建築家の西沢立衛が五人の関係者と語りあった。対話相手は、青木淳(建築家)、平野啓一郎(小説家)、南條史生(森美術館館長)、オラファー・エリアソン(アーティスト)、妹島和世(建築家)。このうちエリアソンとの対話は電子メールを通じて行なわれた。

 全編をとおして西沢たちは美術館を作品を容れるための単なるハコとしてのみ捉えるのではなく、周辺環境や共同体との連関のなかで「開かれた空間」として位置付けようと心をくだき、さらには都市や地域社会の再生の契機として捉えようとしているのが特筆される。
 そのような文脈で、西沢が手がけた金沢21世紀美術館や十和田市現代美術館などの具体例が引かれ、それらの美術館がいかに街に溶け込み、地域の活性化に貢献しているかが具体的に語られる。
 たとえば、十和田市現代美術館は「(美術館が建つ)官庁通り全体を美術館と見立てる」というコンセプトでコンペティションが行なわれ、通りに広がるアート活動全体の一部として建設されたものだという。開館後には市内に新しくできた病院で展覧会が開かれるといった波及効果も生まれている。

 その一方で、海外においては企業の倉庫や発電所、校舎などの古い建物が美術館に転用され成功しているケースが少なくない。「もともと違う目的のためにつくった建物のほうが、結果的に優れた回答になりうるというのは、建築設計の側にとっては皮肉な話」(西沢)だが、そのような事例についても建築家たちが関心を示しているのも注目に値するだろう。

 また「公共性」や「公共空間」を行政のみの課題に矮小化することなく、官民を問わず市民たちが能動的につくっていくべきとの認識が繰り返し示されている点も本書の重要な問題提起といえよう。

 総じて論者たちの理念が強く押し出された内容になっているが、実例が具体的に紹介されているので、それなりに説得力を伴った議論になっているように思う。
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by syunpo | 2010-11-26 20:34 | 美術 | Comments(0)

六〇年ぶりの新訳〜『嘔吐』

●ジャン-ポール・サルトル著『嘔吐』(鈴木道彦訳)/人文書院/2010年7月発行

b0072887_18283886.jpg サルトルを初めて読んだのは高校生の時だった。新潮文庫に入っている短編集『水いらず』は思いの外スラスラ読めた(ような気がした)。とくに偶然性の問題に触れた《壁》は面白く読んだ記憶がある。当時は今以上に何でもかんでも因果論で語ってしまおうとする考え方に嘘っぽさを感じていたので、とりわけ私には親しみやすく思われたのかもしれない。ただしそれ以外の本はチンプンカンプンだった。

 さて『嘔吐』である。白井浩司が訳して以来、六〇年ぶりの新訳らしい。鈴木道彦の訳なので読む気になった、というのが実際のところだ。
 本作は主人公ロカンタンの手記という形式をとる。彼は、浜辺の小石をひろって吐き気をもよおし、避難所たるべきカフェに入って吐き気をもよおす。最初に吐き気を感じた時、恐怖を伴ってはいたが、何に恐怖を感じたのかはわからない。それは身体の不調というよりも、ある種の精神疾患の発症を思わせる。ロカンタン自身「自分が狂ったとは一向に思えない」と記しながら、そのすぐ後段では「狂気の発作だったのだろう」と書きつける。彼はそれを契機に物の存在をめぐってデカルト的さらには現象学的な思索へとずぶずぶと嵌っていく。

 やがて公園でマロニエの木──黒い節くれだった塊──と劇的に対面する。一挙にしてヴェールは割かれ、そこで存在についての万人には理解しがたい天啓を得る。普段、存在は隠れているが、しかし存在は私のまわりに私たちのうちにある、すなわち存在は私たちである、と。「もう〈吐き気〉を耐え忍んでいるわけではない。それはもはや病気でもなければ、一時の気まぐれな発作でもない。私自身なのだ」。

 かつての恋人アニーと再会したり、図書館でABC順に本を読んでいる「独学者」とランチタイムを過ごした後に、ロカンタンは小説を書こうと決意する。
 拍子抜けするような唐突なエンディングを含めてこの作品は異様である。あまりに異様なのでいっそすがすがしい。

 鈴木は「実存」「実存する」と訳されてきた“existence” “exister”を「存在」「存在する」と改めた。「実存主義の小説化」「実存主義の聖書」という読解が一般化している本作から「実存」という語句を追い出しただけでも新訳を出す意義があったといえるのではないか。
 無論、翻訳の巧拙は私にはわからない。日本語としての読みやすさという点では旧訳も悪くないと思うが、鈴木の訳文はさらに明晰で読みやすい。またロカンタンの想念のうちに紛れ込むフィジカルな表現をより強調したような訳文も面白い。

 私は性器に強い失望感を、長く続く不快なむずがゆさを覚えた。(p34)

 私は軽い頭痛を感じ始めたが、彼だったらそのかわりに、両のこめかみに治療される権利を痛いほど感じたことだろう。(p149)

 私はかすかな熱のように、彼を鳩尾に感じていた。(p159)


 ロカンタンと独学者は食事の席で対立してしまうのだが、この両者のいずれにもサルトル自身の考えやキャラクターが反映されているように思えた。とりわけ独学者の言葉──「まず行動し、一つの企てのなかに身を投じなければならない。しかる後に反省すれば、すでに賽は投げられており、人は束縛(アンガジェ)されている、というのです」──には、戦後のサルトルの思想の萌芽がみられるのではないか。

 鈴木は読売新聞のインタビューに答えて、ロカンタンや独学者の孤独は「今の引きこもりやニートが持っている孤独と通じるものがある」と述べている。とすれば『嘔吐』を古典としてでなく現在進行形のテクストとして、これに今一度向き合うのも一興というべきだろう。
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by syunpo | 2010-11-23 18:35 | 文学(翻訳) | Comments(0)

世界は分けないことにはわからない、しかし〜『世界は分けてもわからない』

●福岡伸一著『世界は分けてもわからない』/講談社/2009年7月発行

b0072887_18254320.jpg 「わかる」とは「分かる」であり、それは当然「分ける」とつながっている。博物学や動植物学の初期段階では、それぞれの種類を分類する、つまり「分ける」ことに情熱が傾けられた。動物や植物をカテゴリー化し、それぞれの差異を見分けること。それが「分かる」ことの第一歩であった。無論、今でも様々な局面で「分かる」ために「分ける」ことが日々実践されている。

 福岡伸一は本書の末尾で結論的に述べている。
 「世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである」。
 そしてそのすぐ後でこう付け加えることも怠らない。「分けてもわからないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである」と。
 本書は、みずからがよって立つ足場にたえざる懐疑の目を向けながら仕事を続ける分子生物学者のエッセイである。

 ロスアンジェルスにあるゲティ美術館に展示されている一枚の絵。ヴィットーレ・カルパッチョ作《ラグーンのハンティング》。遠浅の海で貴族たちが舟遊びをしている様子を描いた絵だ。そしてヴェネツィアのコッレール美術館に飾られている同じくカルパッチョの《コルティジャーネ》。二人の女性がテラスのような処で所在なげに座っている、いささか頽廃的な感じのする作品である。この二つの作品はもともと一枚の絵だった。いや正確には一枚の絵だったものが四分割されてしまったものの二片だということが最近の調査で明らかになった。つまり《ラグーンのハンティング》も《コルティジャーネ》も「全体から切り取られたほんの部分にすぎなかった」のだ。

 顕微鏡で生物組織を観察すると、細胞が整然と並んでいる様子を見ることができる。倍率を上げると細胞の一粒が、一気に近づいて見える。しかしその瞬間、観察者は元の視野のどの一粒が拡大されたのかを見失う。拡大された映像はなるほど解像度を一段と高められたものだが、それと引き換えにこれまで見えていた部分が見えなくなる。

 カルパッチョの絵画にまつわるエピソードを語り終えた後に、福岡は、自然科学の観察に不可避の「分ける」という営みに思いをめぐらせて「今見ている視野の一歩外の世界は、視野内部の世界と均一に連続している保証はどこにもないのである」と結ぶ。
 このように要約してしまうと、福岡の文章にただよう微妙なニュアンスが失われてしまうようでいささか気が引けるのだが、とにもかくにも本書における福岡の自在なイマジネーションの飛翔ぶり、それらを一つの命題に緩やかに集約せんとする構成力には、素直に納得させられるものがあった。

 コンビニで販売しているサンドイッチから説き起こされる腐敗と腸内細菌の話。渡辺剛の写真集から展開されていく臓器移植、さらには動的平衡論。コンピュータ・グラフィック技術と〈脳の中の古い水路〉との関わり。……どれもこれも読み応え充分だ。

 さらに後半では、エフレイム・ラッカーと若き学究マーク・スペクターのエネルギー代謝に関する研究データ捏造事件について多くの紙幅が費やされている。その記述内容じたいがたいへん興味深いものだが、福岡はその最後に、やはり「切り取られた絵と、それにまつわるさまざまな物語に思いを馳せる」のだ。ラッカーという指導教授の仮説を実験で実証してみようとしたスペクターは「ラッカーが見たいと願った絵を切り取っただけなのだ」と述べ、同業者として、彼らに強い憤りを示す代わりに捏造事件から自戒の契機を引き出そうとするのである。

 そうした後半部の複数の章を除けば、個々の文章は原則的に一話完結的で様々な題材やトピックスを扱っている。が、全体を通して世界を分けることに対する福岡の一貫した知的懐疑が通奏低音のように響いているので、バラバラのエッセイを無理やり一冊にまとめたというような印象はまったく受けなかった。

 倒置法を多用した達者な文章は、かなり専門的な話題に踏み込んでも決して読者を弛れさせることはない。本書は、多方面に伸びていく福岡の知的好奇心が巧い具合に織り合わされた面白い本であると思う。
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by syunpo | 2010-11-18 18:32 | 生物学 | Comments(0)

関西弁で甦る〜『歎異抄』

●唯円著、親鸞述『歎異抄』(川村湊訳)/光文社/2009年9月発行

b0072887_1951216.jpg 『歎異抄』は、親鸞聖人の弟子唯円が、聖人の死後、その教えが歪められ、異なったものになってゆくことを憂え歎じて、それを正すために書いたものとされている。親鸞の生前の発言内容を唯円が記憶のままに記した前半部と、唯円が親鸞と交わした対話、親鸞の教説を唯円が解釈したり敷衍した後半部とから成る。

 現代語訳はすでに何種類も出ているが、「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」というコンセプトで注目を集めている光文社古典新訳文庫の一冊ということで、本書は思い切った策に出てきた。全編コテコテの関西弁風スタイルで現代語訳しているのだ。

 これは親鸞が京都に生まれ比叡山で修業を積んだことに拠るものだが、著者と目されている唯円は常陸国の人とされているから、関西弁に置き換えるという試みじたいに無理を感じる読者のいることは当然予想される。何より非関西人にしてみれば従来の普通の現代語訳の方が読みやすいには違いない。

 もっとも関西人で仏教にさほど詳しくない私としては、いささかバイアスのかかった現代語訳本ということを承知のうえで、それなりに面白く読めた。
 ちなみにどのような訳文かというと、たとえばあの有名なフレーズ「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は「善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない」となる。その後段部分「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、……」は以下のような具合である。

 アホで悩みっぱなしのワテらは、いくら何をやったところで、悟りなんかひらけるもんかいな。それを見越してアミダはんが、可哀想なやっちゃ、こらあ、いっちょう救ったろかいなと、願かけしてくれはったんや。(p18)

 無論、親鸞の考えはたとえ平易な言葉と文章によって再現されようとも、われわれ凡夫には必ずしもわかりやすいものではない。が、自力による思考や「はからひ」といったものは不要だと親鸞が考え、法然の教えを「もっと庶民的に、一般人に向けて押し広げたもの」とする川村の認識は訳文からもそれなりに伝わってきた。

 ただ、問題の「本願他力」を「人まかせ」としているのは、いくら何でもやりすぎではないか。親鸞は自力による善行に見返りを期待する心に傲慢を見出してそれを戒め、仏の力に帰依することをとなえたのであって、「人まかせ」ではそのようなニュアンスからますます遠ざかってしまう。この言葉は歎異抄のキーワードであり、本文中でその概念の意味するところは繰り返し説明されている。従来の現代語訳──梅原猛にしても五木寛之『私訳歎異抄』にしても──その多くがそのまま「本願他力」で通しているのもそのためだろう。無理に噛み砕いてインパクトにも欠ける訳語に置き換えるくらいなら「本願他力」のままでも良かったように思う。

 また、「ライブ感あふれる関西弁」を前面に打ち出しのはいいけれど、全般的にギクシャクしたガラの悪い関西弁なのが惜しまれる。とくに「……になるんや」という語尾が頻出するのが気になった。そこだけを取り出せばなんだか関西人のオヤジが競艇場でくだを巻いているような口調ではないか。たしかにいまどきの坊さんにも威張って品のない人もいるかもしれないが、ここはやはり「……になりますのや」くらいにしてほしかった。
 案の定、川村湊は非関西人、北海道の出身らしい。どういう経緯で本書が刊行されたのかは知らないが、このアイデアでいくならやはりネイティブ関西人で仏教にも詳しい人間が手がけるべきではなかったかと思う。
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by syunpo | 2010-11-14 19:11 | 宗教 | Comments(0)

表層を追う目から離れて〜『政権交代の政治経済学』

●伊東光晴著『政権交代の政治経済学 期待と現実』/岩波書店/2010年9月発行

b0072887_107866.jpg 日本で政権交代が実現してすでに一年余。時とともに民主党政権が何をやりたいのか不鮮明になってきたが、本書はケインズ研究で名高い理論経済学の重鎮・伊東光晴が政権交代以降に雑誌『世界』に寄稿した時論を集めたものである。

 民主党の基本政策に理解を示しつつも、その拙い政権運営に対しては当然ながら批判も怠らない。内容的にはとくに新味は感じられなかったものの、ダムの建設予定地を転々として補償をかすめとる「ダム屋」の存在に触れている点、郵政民営化をニュージーランドやドイツの先例と比較する論考などが参考になった。

 またケインズについてはニューディール政策を理論的に支えた学者として評価されるのがもっぱらであるが、それと同時に「企業活動が投機の渦巻きに翻弄される泡沫(バブル)になってしまう」状態を懸念していたことに注意を向けている。「ケインズの真意は、バブルとその崩壊をひきおこさないような事前政策をうつべきであるということだと、考えざるをえない」と伊東はいう。まさに『現代に生きるケインズ』像の鮮やかな一面がそこにも表われているように思われる。
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by syunpo | 2010-11-12 10:23 | 経済 | Comments(0)

《真珠の耳飾りの少女》の白い点〜『誰も知らない「名画の見方」』

●高階秀爾著『誰も知らない「名画の見方」』/小学館/2010年10月発行

b0072887_1923034.jpg 美術史家の第一人者・高階秀爾が「絵の見方」をわかりやすく解説した本である。小学館101ビジュアル新書の〈Art〉編の第一弾ということらしい。

 多くの作品を鑑賞し、互いに比較し、歴史や背景を探っていくうちにまるで山道で突然に眺望が開けるように、今まで気づかなかった新しい視点が浮かびあがってくることがある。それは思いがけない細部の特質であったり、歴史とのつながりや画家の仕掛けた密かな企みなど、様々だ。著者のいう「絵の見方」とはそのような視点を見出すことにほかならない。
 というわけで、本書では八章にわけてこれまで見落としがちであった「絵の見方」が具体的にレクチュアされる。週刊誌形式で刊行された絵画全集に掲載された文章を書き改めたもので、要点を簡潔にまとめた短文形式が新書の体裁には適っていると思う。言及されている主要作品には写真が必ず掲載されているのも好ましい。

 とりわけ冒頭の〈もっともらしさの秘訣〉と題された小論が面白かった。
 フェルメールの《真珠の耳飾りの女》における少女の魅力は神秘的ともいえるそのまなざしにある。この表情豊かな目をじっと見ると瞳に白い点が描かれていることがわかる。ハイライトとして白い点をひとつ加えることだけで、生命感あふれた人間の顔になった。
 同じように徹底した写実表現で知られるヤン・ファン・エイクはどうだろう。《ファン・デル・パーレの聖母子》に描かれた老人の目をよく見ると、瞳の真ん中に線が描かれているのが知れるだろう。この線は画家がこの絵を描いたアトリエの光源となっていた窓の枠なのである。

 すなわち、同じ「写実的な画家」といってもその表現は大きく異なる。ファン・エイクは光を即物的に「自然のとおり」に描くことで、人物の存在感や質感を豊かに表した。一方、フェルメールは「不自然で人為的」な白い点を描き加えることで、瞳に生き生きとした輝きを与えることに成功した。ちなみに現代においても写真家は生き生きとした表情をつくり出すために被写体のなかに人為的な光を加えることがあるという。フェルメールは、メディアこそ違うものの現代にも通じる技法を四百年近くも先取りしていたことになる。

 このほかゴーガンの「隠された代表作」や、黒の使い方からその画業を見直そうとするルノワール論、モデルの背中を実際より長く描いて女性の身体の丸みを強調したアングルの《グランド・オダリスク》についての分析などなど、多様な角度から「名画の見方」が提起されている。
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by syunpo | 2010-11-10 19:09 | 美術 | Comments(0)

脳科学の可能性を拓くために〜『つながる脳』

●藤井直敬著『つながる脳』/NTT出版/2009年5月発行

b0072887_18122762.jpg 脳は常に他者や社会など外部環境とつながりをもち、そのつながりの中で働いている。藤井直敬はそのような観点から社会的脳機能について研究を続けてきた脳科学者である。本書は現在の脳科学が抱えている問題やその問題を乗り越えるための方策や展望などを率直に叙述したものである。

 前半では、脳科学が直面している四つの壁について論述する。「技術の壁」「スケールの壁」「こころの壁」「社会の壁」。
 社会の壁を論じたくだりでは、似非脳科学的な言説がマスメディアに安易にのってしまう傾向に釘をさしていて、その点は坂井克之の『脳科学の真実』(刊行は本書の方が五ケ月早い)とまったく同じスタンスである。

 後半では、藤井がこれまで行なってきた複数のサルを使って社会性課題に挑んだ実験の結果が具体的に詳述されていく。結論的に記せば、サルたちは自分よりも強いサルが隣にくれば、自分を弱いサルとして振る舞い、自分より弱いサルがやって来たには、強いサルとして振る舞う。初めて会ったサル同士は、まずはどちらも強いサルとして相対する。

 つまり、サルたちのデフォルトのモードは強いサルなのだと僕は思います。
 このことは、デフォルトの社会性フリーの強いサル状態から、社会性をもった弱いサルに自分を変えるときに新しい機能が必要とされ、逆に自分が強いサルに戻ったときには、その機能を解除することでもとに戻るということを示唆しているように思います。(p128)


 以上のような観察・分析から「抑制というものが社会性の根本にあるのではないか」と結論づけるあたりに、著者の認識が明確に示されているといえるだろう。ちなみに社会性のもう一つの有力な要素だと思われる「協調行動」については「新しい脳内認知機能の発現によるものというより、文化的、教育的側面からの学習体得の要素が強い」(p133)という。

 ただし、こうした考察は従来の動物行動学的な観察をもとに得られたもので、とくに脳科学の成果というほどのものではないだろう。
 そのような予備実験の結果を踏まえて、これからの脳科学の可能性や展望について述べたまとめのチャプターで著者の脳科学者としての姿勢がよりクリアになる。

 一般に従来の脳科学では脳に対する操作不可能性が最大の問題点であるとされてきた。著者が考える有力な解決方法はブレインーマシン・インターフェイス(BMI)といわれるものである。これは脳内部の神経活動を記録し、その活動から情報を抽出することを可能にする技術である。その方法やメリットについては縷々説明がなされているのだが、とにもかくにも「脳科学最大の問題点であった操作不可能性を克服すること」が「ファンタジー」を脱して「科学」へと移行するために必要なのだと著者は力説する。

 「私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だった」──そのように述懐したのは分子生物学者の福岡伸一である。しかし研究対象が「生命」ではなく「脳」になると、そのような悠長なことを言って済ますわけにはいかないらしい。

 藤井は脳を操作的に扱うことの倫理の問題についても当然ながら言及している。
 そもそも、BMI技術はすでに知らない間に世界に浸透しており「情報デバイスの機能という点で携帯電話とBMIの間に差がない」。ゆえに、BMI技術などによって脳を人為的に操作することを「倫理的に制限することは困難かもしれません」と述べているのだ。
 知覚能力を拡張する技術としての携帯端末と、脳に直接働きかけるBMI技術とを同一次元のものと見做す見解には、あるいは反発や異論がありうるかもしれない。

 また「西洋の宗教は自己とは何かという点について、神を離れたところでの明確な基準をもっていないように思えますから、BMIに関しては感情的な対応しかできないかもしれません」などという発言はどうだろう。明確な基準など何処にもないからこそ議論することの重要性があるのに、そのための建設的な問題提起も不充分なままに、感情的な対応しかできないかもしれない、などという粗雑な感想をそのまま記述してしまう無神経ぶりには、はっきり言って共感できない。
 ついでにいえば、最終章で脳科学の範を越えてマキャベリなどに言及しつつ、あるべき社会や国家像について論述しているくだりなども失礼ながら陳腐という以外の感想を抱きえなかった。

 とはいえ、これからの脳科学のあり方をめぐって一線の研究者がどのような意識や展望をもっているのかを知るうえでは本書はきわめて有益な本といえるだろう。
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by syunpo | 2010-11-08 18:33 | 脳科学 | Comments(0)

無為の方へ〜『人、中年に到る』

●四方田犬彦著『人、中年に到る』/白水社/2010年10月発行

b0072887_18455524.jpg 足の速さを競う時期は過ぎた。これからは少しずつ生き方に緩やかさを与え、しだいに無為の方へと身を向けさせるべきなのだ。そしてその作業の道標のためにも、わたしはありのままの自分の思念について書いておくべきだと思った……。(p31)

 昨年、著者が脳腫瘍の手術を受け、一時は失明を覚悟したことは『俺は死ぬまで映画を観るぞ』の冒頭でも報告されていたが、その後も細菌感染で入院生活を余儀なくされるなど心身の不調が続いていたらしい。
 本書は病いを得て「中年」を実感することにもなった四方田犬彦が新たな境地に分け入って書き下ろしたエッセイである。「老いと衰退を肯定的に受け入れること」をみずからにも言い聞かせるように、冷静に且つある熱気とともに自身の過去と現在と未来とが綴られている。

 十七の掌篇から成る。
 〈知識の不幸と知識人について〉では、知識人のあり方に関する東西の知見を概観した後に江戸の漢詩人たちの間に存在していた小さな共同体の復活を求めんとする。そのような四方田の感懐からは『先生とわたし』の残響が聴き取れなくもない。

 憎悪は割にあわない、憎悪と憎悪から来る応酬という構図は不毛極まりないものである、憎悪のワクチンにも代替物にもなりうる「軽蔑」という術をこそ学ぶべきではないか、という〈憎悪と軽蔑について〉は、世界に蔓延る「憎悪」の断片をいくつも目撃してきた四方田らしい考察。

 〈言語の修得について〉は、外国語を学ぶ多大なるメリットを論じて、最後にエズラ・パウンドの「習うということは白い羽になることだ」という茶目っ気が隠された警句(習という漢字を分解したら白と羽になる)を引いて含蓄に富む一文だ。

 そして後半に収められた〈老いと衰退〉〈死について〉は、本書の趣旨に最も適った内容であろう。志津太夫、野上弥生子、大野一雄らの老年期における芸術的達成を称揚しつつ、老いと衰退を受け入れ、諦念をモラルとして受け入れることを考える。さらには死そのものに静かに向かいあおうとする境地の吐露へといたる。

 それにしても、激しい競争の軌道から逸脱して「無為の方へと足を向けさせる」ことを思念しながら、四方田は、というより人間という存在はやはり無為を回避しようとしていた時と同様にいや場合によってはそれ以上に饒舌を重ねてしまう。これは皮肉ではない。人間とはおそらくそういう生き物なのだ。

 本書を読み終えて、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の浮浪者ふたりの会話をふと思い出した。

 ヴラジーミル「何を言っているのかな、あの声たちは?」
 エストラゴン「自分の一生を話している。」
 ヴラジーミル「生きたというだけじゃ満足できない。」
 エストラゴン「生きたってことをしゃべらなければ。」
 ヴラジーミル「死んだだけじゃ足りない。」
 エストラゴン「ああ足りない。」
 (白水社『ゴドーを待ちながら』安堂信也・高橋康也訳、p105)

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by syunpo | 2010-11-04 19:00 | 文学(小説・批評) | Comments(0)