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ブックラバー宣言

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芸術からアウラが消滅する時〜『図説 写真小史』

●ヴァルター・ベンヤミン著『図説 写真小史』(久保哲司編訳)/筑摩書房/1998年4月発行

b0072887_11144865.jpg 『複製技術時代の芸術作品』で芸術のアウラ──「いま、ここ」という一回性──の崩壊を論じることになったヴァルター・ベンヤミンは、その前段としてこの『写真小史』という短いエッセイを書いた。ここには〈芸術と技術〉という問題が先鋭的なかたちで論じられている。

 「芸術としての写真」という議論はしばしば堂々めぐりに陥ってしまうが、「写真としての芸術」という一見はるかに明白な社会的事実はほとんど一顧だにされなかった。ベンヤミンはそのように述べた後で次のように記す。

 芸術の機能に関して、芸術作品の写真複製がもたらす影響は、写真を多かれ少なかれ芸術的に造形すること……とは比較にならないほど重要である。(p44)

 ベンヤミンの認識は、その後に膨張していったマスメディアの時代、さらには二〇世紀末から現在につづくデジタル技術の進展を先取りしていたといっていい。七〇年代に『写真論』を著わしたスーザン・ソンタグがベンヤミンを引用して「写真術のもっとも独創的で重要な批評家であった」と評したのもうなづけよう。

 なお本書はベンヤミンが本文中で言及している写真家の作品画像を数多く掲載しており、見た目にも愉しい本になっている。
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by syunpo | 2010-12-30 11:21 | 写真 | Comments(0)

格差と排除を乗り越えて〜『格闘する思想』

●本橋哲也編『格闘する思想』/平凡社/2010年11月発行

b0072887_1975452.jpg 所与の社会条件のもとでいかに巧く折り合いをつけ世渡りをしていくか。ネオリベラリズム的な風潮を受けて「実学」の必要性ばかりが喧伝される御時世だからこそ「不穏なる教養」の魔力もまた浮上してくるのではないのか──。本書は今売り出し中の若手研究者七人を選んで、英文学者の本橋哲也が対論した記録である。週刊金曜日に断続的に掲載された記事がベースになっている。登場する学者は、萱野稔人、海妻径子、廣瀬純、本田由紀、白石嘉治、岡真理、西山雄二。

 それぞれの特長がよくでた対論集ではないかと思う。
 萱野のここでの発言には彼の愛読者にはとくに新味は感じられないかもしれないけれど、政治哲学者としてのこれまでの仕事の要点がうまく引き出された対論にはなっている。マックス・ウェーバーに依拠しつつ暴力としての国家論を展開してきた萱野だが、現在では国家権力のリアリティはむしろ希薄になってきている。これからはまさに「いまの社会の権力状況をどういうかたちで提示できるかがわれわれに問われている」。

 フェミニズムの立場から男性性を問うてきた海妻はネオリベラリズムへの批判のポイントを家父長制イデオロギーに見出して自身の立場を鮮明にする。個人主義的な「運動への拒絶反応」をいかに乗り越えていくか、社会変革のための現実的な側面にも関心を怠らない姿勢は「格闘する思想」のコンセプトにも適っているだろう。

 廣瀬は独特の言い回しで映画を語り思想を語って、熱い。
 映画は社会の反映ではない、映画は文字どおり世界を創造するのであり、映画の真理は直ちに世界の真理──と言い切るところに廣瀬の真骨頂がある。「映画作品のなかに社会の反映を見るだけなら、最初から社会を見ればいい」。
 眼を政治や教育現場に転じても、その思考に曇りはみられない。民主主義とはすべての人がすべてを語るものでなければならないというジャック・ランシエールの言葉を引きながら、ユニヴァシティ(大学)は「すべてがすべてを語る」ということへの入り口、民主主義への入り口として社会のなかに位置づけられるべきだという発言がとりわけ印象に残った。

 教育社会学を専攻する本田由紀は本書に登場する学者のなかでは最もアクチュアルな問題に対峙しているといえるかもしれない。ハイパー・メリトクラシーのような「選別」や「格差」の基準が跋扈する現代社会に対して「フレクスペシャリティ(柔軟な専門性)」を提起しているのはすでにおなじみだが、アメリカの大学の職種に対応した専門性の組み替えを評価しているのが興味深い。

 新自由主義批判の代表的論客である白石は、ベーシック・インカムや高等教育無償化などの政治的課題を生存のみならず表現の自由に現実的な裏付けを与えるものとして捉える。
 世界とはもともと無償性としてある。それは網野善彦の日本史学における「無縁の原理」や喜安朗がフランス社会史に見出している「絶対自由」の原則にも通じるものだとする指摘も面白い。

 現代アラブ文学の研究者である岡真理の「表象」をめぐる発言は示唆に富んでいる。パレスチナ問題における「当事者」とは誰かという問いをつきつける岡の発言には迫力が感じられた。
 「当事者が語らなければならないのは、贖われていない歴史的不正を知らしめるためではあれ、いつまでも辛い思いをした当事者ばかりに語らせなければならないのはどうしてか。(逆に)沈黙を強いる暴力もあるし、歪曲して表象する暴力もある」という指摘もまた重い。

 西山はジャック・デリダが始めた国際哲学コレージュのディレクターとして国際的に活躍している哲学者である。最近ではドキュメンタリー映画《哲学への権利》を製作したことでも知られる。デリダのいう「制度という概念が問題となり続けるような制度的実践」を身をもって実行している研究者の一人ではないかと思う。

 ここに登場する研究者たちは学問や社会に対する構えも姿勢ももちろんそれぞれに違っている。当然、ボキャブラリーもずいぶんと趣を異にしている。しかしその一方で、彼らから発せられる言葉には根底において相通じ合う認識も見出されるように思われる。それは、個々の専門性の狭くて固い穴に落ち込んでしまうことへの警告や自戒、あるいは世界を横断的にダイナミックな視野のもとに見ていこうとする姿勢といったようなものである。

 専門知の枠のなかで世界全体を把握し記述できる能力を多少なりとも身につけた上で、その能力をまさに「基礎」として、様々な分野の科目をできるだけ広範囲に学んでいくようにしたらいいのです。……つまり(一般教養過程から専門課程に進むのではなく)専門こそを基礎教育として位置づけるということです。(廣瀬、p122)

 専門性とはもともとフレックスな能力のあり方なんです。(本田、p157)

 すべてに関わることはできないけれども、日本であれどこであれ抑圧され、その抑圧と闘っている人たちの問題は、実はパレスチナとつながっている。日本の社会問題も歴史の問題も、パレスチナ問題に通じている。(岡、p212)

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by syunpo | 2010-12-27 19:24 | 思想・哲学 | Comments(0)

自然、社会、精神〜『三つのエコロジー』

●フェリックス・ガタリ著『三つのエコロジー』(杉村昌昭訳)/平凡社/2008年9月発行

b0072887_1854995.jpg 一九九二年に他界したフェリックス・ガタリは晩年、エコロジー思想に強い関心を示した。といってもそれは環境保全など今日メディアを賑わしている狭義のエコロジー問題としてではなく、人種差別や宗教的ファナティズム、子供の労働の搾取、女性の抑圧といった人間社会を包み込む環境全体に関わる課題としてのエコロジーである。

 ガタリのいう「三つのエコロジー」とは、環境のエコロジー、社会のエコロジー、精神のエコロジーを指す。この三つの作用領域の倫理−政治的な節合だけがこれからのエコロジーに相応の照明をあてることができるという。
 すなわち環境の問題を環境の問題としてのみ解決しようとするのは不可能である、それに加えて社会のさまざまな関係の改変や人間の精神のあり方を変えていくこと──これらを連関的に考えてこそ初めてエコロジーの問題は解決の方向へと向かうことができる。ガタリはこうした節合をエコゾフィー(エコロジーとフィロソフィーの合成語)と名づけ、その重要性を説いたのである。

 無論、ガタリのことであるからエコゾフィーの構想は必ずしもわかりやすいものではない。その内実は、哲学、社会学、政治、経済、文化、精神分析、記号論、言語学など多様な領域を往還する横断的なものだ。その骨格をここに具体的且つ手短に要約することは私には困難である。
 そのなかで特筆しておくべきことは、今日の資本制経済に対するラディカルな批判に向かうのは、エコゾフィーにとっては必然であるということだ。環境破壊というものはおしなべて「利潤だけにかたよってしまったこの生産のための生産というイデオロギー」(p116)に拠るものだから。したがって「世界市場のもたらす災いに対して受動的に異議申し立てをするよりも、むしろ、これまでの資本主義的な同質化傾向のかたよりをただすような、異質の価値のシステムがそれ自身の力で新しい力関係の中で確立される必要がある」(p119)だろう。

 以上のような視点は現在の日本では柄谷行人が踏襲し力説しているところである。また、エコゾフィーの「詩的機能」を重視するような発想は一見無関係にみえる廣瀬純の映画論の中にもエコーを響かせているように思われる。

 本書にはガタリの〈三つのエコロジー〉の論考に加えて、大阪と沖縄で行なわれた講演録も収められている。杉村昌昭の〈訳者あとがき〉はガタリの生硬で難解なキーワードを解きほぐして有益。さらに末尾にはマサオ・ミヨシの解説が添えられている。なお原本初版は一九九一年に大村書店から刊行された。
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by syunpo | 2010-12-25 19:07 | 思想・哲学 | Comments(0)

美と知識の宝庫へ〜『肖像画論』

●高階秀爾著『肖像画論 モーツァルトの肖像をめぐる15章』/青土社/2010年5月発行(新版)

b0072887_18152821.jpg 現在に伝わるモーツァルトの肖像画は全部で十四点あるという。美術的には価値のある作品は少ないようだが、一人だけの独立像や集団肖像、正面を向いたものもあれば横顔もあり、材質・技法でいえば油絵のほか、水彩、素描、シルエット、ミニアチュアなど実にバラエティに富んでいる。
 本書はそうしたモーツァルト象を出発点として、西欧美術史上の作品を中心に肖像画にまつわる問題を論じたものである。

 作者未詳の《黄金拍車勲章をつけたモーツァルト》から説き起こして、芸術家の社会的地位の変化や王家の権威表象の変遷などに考察を進めたり(第5章)、横顔の肖像画から絵画の起源(をめぐる物語)について遡行的に論じたり(第9章)、高階の筆は自在に展開していく。

 オランダ発祥の集団肖像画はオランダの市民社会の要請によって生まれたものであるが、さらに時代が下ると画家たちの主張を込めた「マニフェスト」的な意味をも含有することとなった(第7章)。たとえばモーリス・ドニの《セザンヌ礼賛》。この絵は当時ほとんど無名に近かったセザンヌとナビ派への支持を表明しているのはいうまでもないが、画中画としてかつてゴーギャンが所蔵していた静物画が描かれていることから同時にゴーギャンに対する敬意の表明でもあるのだ。

 また油彩画のための予備的習作という意味をもつことの多いデッサンについて、著者は「完成されたひとつのジャンル」という視点から叙述する(第13章)。デッサンのなかで肖像画の分野に大きな足跡を刻んだアングルは「線こそがデッサンであり、それがすべてだ」と考え、そのようなデッサンを数多く残した。一方でその孫弟子にあたるスーラは線を用いず明暗だけで描画した。《シニャックの肖像》などはその優れた作品の一つである。彼が新印象主義の理論家として色彩表現の上で後の世代に大きな影響を与えたことはよく知られた史実だろう。

 肖像画という一つの限定されたジャンルにスポットをあてるだけでも、美術史の大きな流れや絵画表現に転換をもたらした時代の社会背景や思潮、芸術観が浮き上がってくる。ちょっと面白い本である。
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by syunpo | 2010-12-21 18:28 | 美術 | Comments(0)

〈徳〉を教えることは可能か〜『プロタゴラス──あるソフィストとの対話』

●プラトン著『プロタゴラス──あるソフィストとの対話』(中澤務訳)/光文社/2010年12月発行

b0072887_18225575.jpg 若き日のプラトンは政治家を志していたといわれている。しかしソクラテスに師事して哲学の道へと転じ、師の刑死をきっかけにソクラテスを主人公にした対話篇形式の作品を執筆するようになった。現在まで三十篇以上のテクストが伝わっている。もともと文学的才能にも恵まれていたというから、その作品は哲学書であると同時に文学的作品としての味もあわせもつ。
 『プロタゴラス』はプラトン初期の傑作の一つで、ここに描かれたソクラテスは三十六歳頃という設定である。

 黄金期を迎えていたアテネに一人の高名なソフィスト・プロタゴラスがやってくる。ソフィストとは教育を職業とする進歩的知識人のことで思想界の花形でもあった。なかでもプロタゴラスはその名声をギリシャ中にとどろかせていた。若きソクラテスは百戦錬磨の老獪なソフィストを相手に論争を挑む。主要な論題はアレテー(徳)である。

 アレテーとは、訳者の中澤務によれば「たんに現代の日本語でイメージされがちな道徳的高尚さ(人徳)」を意味するだけでなく「勇敢さや優れた知力など、さまざまな能力を含み込むもの」だという。
 直接民主政をとっていた当時のアテネにあっては、アレテーを持つ優れた人物が政治家として成功し社会を動かすことができた。ソフィストたちはアレテーとしてなによりも弁論術など言葉を遣って人々を動かす能力を重視し、それを教育しようとした。プロタゴラスは授業料をもらって啓蒙活動のために各地を巡っていたのである。
 ソクラテスはそうしたソフィストたちの活動に疑問を抱いていた。何か貿易商人とか小売商のようなものではないだろうか。はたして人間のアレテーというものはそんなに簡単に教えることができるものなのか。

 二人の対話は始まった。
 ソクラテスはいう。アレテーは教えることができない。
 対して、プロタゴラスは教えることができるという。
 そもそもアレテーとは何か、とソクラテスは問いかける。アレテーはある一つのもので、正義や節度や敬虔はその部分なのか?
 いかにもアレテーは一つのものであり、きみが尋ねているものはその部分だ、とプロタゴラス。
 ソクラテスはさらに追求する。さまざまなアレテーの間には密接な関係があるのではないか? たとえば正義は正しいものだが、同時に敬虔な性質をもっていなければ、正義といえないのではないか……。

 ……二人の対話は、時に蛇行し時に脱線しながら白熱の度を増していく。やがてソクラテスは、正義や節度や勇気などのすべてのものが知識であることを証明しようとしている自分に気付く。そうして二人は一つの結論的な命題に立ち至る。

 アレテーとは知識である。

 ……だが、そうなるとアレテーは教えることが可能だということになり、当初ソクラテスが主張した「アレテーは教えることができない」という考えとは相反することになる。アレテーをめぐる対話は最終的にはアポリア(行きづまり)に陥ってしまったのだ。

 本書の面白さは討論によってどちらか一方が相手を論破するのではなく、ひとまず得られた結論が最初の二人の主張をともに覆す──という終わり方にあるだろう。人は討議することによって、つまり互いに考察を深めることによって、最初の自分の考え方に変更を余儀なくされる。というより考察を深める前の自分がいかに無知で浅薄であったかを思い知る。
 そうなのだ。無知の知。それこそがまさにソクラテスの哲学の核心にあるものだった。

 途中、ソクラテスが詩に関して述べる見解──詩歌について議論するというのは、低俗で卑しい人たちの催す酒宴にとてもよく似ている──などは現代人からすると今一つピンとこないし、討議のための討議といった印象を受ける場面もないではない。が、二人の対論が充分に現代にも通じるものがあることは間違いない。

 本書は長らく愛読されてきた藤沢令夫訳を基本的に踏襲するものだが、訳注や解説にプラトン研究の進展の成果が盛り込まれている。
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by syunpo | 2010-12-18 18:33 | 思想・哲学 | Comments(0)

低成長時代を生き抜くための〜『超マクロ展望 世界経済の真実』

●水野和夫、萱野稔人著『超マクロ展望 世界経済の真実』/集英社/2010年11月発行

b0072887_15402930.jpg 三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストを経て埼玉大学客員教授となった水野和夫と哲学博士・萱野稔人の対談集。タイトルにあるように「超マクロ」な視点、具体的にいえば一六世紀の大航海時代からグローバリゼーションを説き起こして、そのコンテクストにおいて現在の経済状況を読み解こうとするものである。そのような歴史的なパースペクティブをもって世界経済を見る水野の姿勢は、社会科学全体に目をやれば別段目新しくもないけれど、時の政府中枢に関わるエコノミストとしてはやはり特筆すべきものといえるかもしれない。

 水野は世界の経済史をヘゲモニー国家の変遷という観点からみていく。そして先進国と周辺国の間の交易条件の変化や覇権国の利潤率の増減を重視する。交易条件とは「どれだけ効率よく貿易ができているかをあらわす指標」で、輸出物価を輸入物価で割ることで算出される。一国家単位でみた場合に一製品あたりどの程度の利ざやを得ているかが、これでわかる。
 この指標でみると、ざっくりいえば七〇年代から先進国の交易条件は下落傾向に、途上国は改善傾向にある。一般に原油価格が高騰すれば、先進国の交易条件は悪化するし、原油を産出している途上国の交易条件はよくなるわけで、交易条件の変化はそうした原油などの資源価格をめぐる産油国と先進工業国との政治的駆け引きの劇としてみることが可能である。
 交易条件が悪化し利潤率を低下させたヘゲモニー国家や先進国は実体経済から金融経済に活路を見出してくというサイクルを繰り返してきたことを二人は指摘しあう。現在の状況はヘゲモニー国家たる米国が金融経済で利益を得ようとしていったんは功を奏したものの破綻が顕在化しつつある、その末期段階にあると喝破する。

 以上のような見立てはもちろん水野の創見ではなく、もっぱらジョヴァンニ・アリギの『長い20世紀』(この本の存在は萱野が水野の話を受けて出してくるものだが、おそらく水野も読んだ上での発言だろう。)やカール・シュミットらに依拠したものである。水野の発言を萱野が他のアカデミズムの識見でもって補足していくというのが全体を通してのスタイルになっている。

 タイムスパンを長くとって社会科学の識見を幅広く動員しながら世界経済の流れを俯瞰する前半はなるほど骨太の対論で読み応えも充分。ただ話題がよりミクロのレベルに降り立つ後半は、米国のイラク侵攻の真の狙いを推察するなど(それはそれで面白いが)、ジャーナリズム・レベルのニュース解説風のトークへと移る。水野によって引用される文献も谷口智彦や孫崎亨といった現場に関わった人々のものが中心になり、おのずと話の内容も生臭さを増す。
 低成長期が続く今後の展望や指針を示す結論的なくだりでは、財政再建の重要性を強調したり環境規制によって技術の市場価値を高めることなどを提起していて、とくに異論はないけれど、「経済成長前提でやってきた負の遺産」(萱野)の一つとする現行の社会保障政策に関してはもっぱら萱野が削減の必要性とその困難を言うだけなのには拍子抜けした。

 本書全体を通じて、萱野の肩に力が入りすぎていているのが少し鼻につく。
 萱野は「資本主義を市場における交換へと還元する認識はそろそろ見直されなくてはなりません」(p120)と柄谷行人を名指しで批判しているのだが、そもそも柄谷のいう「交換」とは萱野が後段で述べているような「対等な交換というには程遠いやり方」すなわち略奪のような形態(=不等価交換。略奪はその究極的な形態にほかならない。)をも含んだ広義の概念である。
 また、資本制経済が市場外部の政治的軍事的要因にドライブされることがしばしばあることもむしろ柄谷がこれまで強調してきたこと。だからこそ世界を〈資本=国家=ネーション〉の強固な三位一体構造として考察を続けてきたのである。萱野はそれらをすべて資本主義内部の動因として一括りにして論じているだけで、話の趣旨としてはほとんど大差ない。
 つまり、萱野は柄谷をはじめとする在来の資本主義論を批判しながら、結局は柄谷が『トランスクリティーク』以来深めてきた洞察を別の言い回しで(資本主義を拡大解釈して)粗雑に繰り返しているだけなのだ。

 「資本主義の成立において軍事的なものがどれほど不可欠だったのかという点はもっと認識されるべきですね」だとか「資本主義の歴史のなかで国家による税の徴収やその支出が資本蓄積に果たした役割は、もっと議論されてもいいのではないでしょうか」だとか、その程度のごくあたりまえのことを言うのにも萱野はそうした認識の希少価値をにおわせていて、読者としてはシラけてしまう。

 本山美彦との共著『金融危機の資本論』でも同様に萱野は既存の人文・思想アカデミズム全体を批判するような気負った発言をしていたが、その後に続く議論はすんなり既存のアカデミズムの枠内におさまるものだった。
 萱野が聡明な学者の一人であることを認めるに吝かではないけれど、対談となるとやたら大口をたたきたがる性癖は自身の言説をかえって安っぽくしてしまっている。あるいは、発言の多くを先人の知見に依拠しているがゆえに他の言説との差異をことさらに強調して存在価値(=商品価値)のアピールに励まざるをえない論客の姿にこそ、出版資本主義の力動の生々しい現前を見るべきなのだろうか。
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by syunpo | 2010-12-15 18:22 | 経済 | Comments(0)

日本文化論の金字塔〜『日本文学史序説』

●加藤周一著『日本文学史序説 上下巻』/筑摩書房/1999年4月発行(文庫版)

b0072887_19351156.jpg 加藤周一の代表的著作ともいえる『日本文学史序説』は一九七五年に原書が刊行された。翻訳も数多く出版されていて、日本人のみならず世界の日本文化・文学研究者にとってはバイブル的存在ともなっている名著である。
 古事記・日本書紀から戦後文学に至るまでの文学史を記述した本書は、文学の範疇にとどまらず芸術文化全般さらには政論にまで目配りする広い視野に支えられ、同時に古今東西の芸術・文化を知悉した著者ならではのグローバルなスケールを併せもった日本文化・思想の通史といえよう。

 全体の構造ではなく、それぞれの部分に独立した意味や妙味を見出し、悠久の時間の流れにではなく現在にすべての興味が集中する。端的にいえば「部分の細かいところに遊び、全体の構造を考慮することが少ない」(上巻p21)ところに、加藤は日本文化の精髄を見る。絵巻物しかり、平安朝の物語しかり、連歌しかり、谷崎潤一郎の《細雪》しかり。そうした日本文化観は加藤においては最晩年の著作『日本文化における時間と空間』まで一貫して保持されたものであった。
 もちろんそのような認識に対しては当然ながら異論反論もありえよう。が、日本文化を歴史的に貫いているとする基層的なコンテクストを取り出したことは、それを支持するにせよ異説を唱えるにせよ、日本文化論の一つの雛形になったことは間違いない。

 本書にみる加藤の叙述はケレンを排した正攻法に拠ってたつ。その分、面白味には欠けるかもしれない。タイプは全く異なるが同じようにブッキッシュな教養人・松岡正剛のように気の利いた語彙を駆使して気の利いた日本論をものしてやろうという色気がこれみよがしには出てこない点にこそ本書の美点が存するように思われる。またそうでなければこれだけの浩瀚な書物をつくることはできなかっただろう。

 それに加えて特筆されるのは、洋の東西にわたる加藤の碩学ぶりが遺憾なく発揮されていることだ。
 《古事記》にみえる恋の道行きからワーグナーの《愛と死》の管弦楽を想起するかと思えば、《万葉集》の歌にファウストのマルガレーテの思いを重ねたりする。《竹取物語》の空想的な物語の枠組と現実的な描写力の組み合せに、エドガー・アラン・ポーやホフマンの才気を並べてみせたあとには、親鸞の念仏にパスカルの賭の論理との類似点を指摘してみせる。一休宗純の「形而上学的で同時に感覚的」な詩の世界は、一六〜一七世紀におけるヨーロッパの形而上学的詩人であるジョン・ダンらと比較される。

b0072887_19355887.jpg 時代が降って江戸期から近代文学へと叙述が進んでくると、当然ながら加藤の文学観や作家評がより鮮明さを増してくる。
 「文学史においては、文化の一部分としての文学作品の歴史的な面に注目」すると著者があとがきに断わっているとおり、文化史的な系譜におさめやすい作家とおさまりきらない作家との間に加藤の文学観・歴史観や嗜好(?)がおのずとにじみでる。

 突然変異的に出現していかなる文学上の系譜にも連なりがたい樋口一葉については簡単に触れる程度(わずか五行)だが、野上弥生子や宮本百合子に関しては多くの字数を費やして、その文学史的な意義付けを試みている。
 柳田国男を採って折口信夫をとらず、太宰治については「津軽の旧家の自負と失敗の居直りの証言であり、挫折した人生の美化と自己陶酔の記念碑」と素っ気ない。
 また文庫化に際して新たに追加された〈戦後の状況〉の章で最初に出てくる固有名詞が小説家でなく丸山眞男であるのも加藤の問題意識を映し出して興味深いし、鶴見俊輔や小田実には言及しても吉本隆明の名を挙げないのは、加藤の反戦市民運動への共感のあらわれとみるべきなのか。

 ただはっきり物足りなく思われたのは、言文一致運動に関する記述の薄さである。日本の近代文学の成立という点でその運動の果たした意味は小さくないと思うのだが、ここでは日本の自然主義を論評するに際しての序章的な扱いで、本格的な検討の対象になっていないのは何故なのか。
 無論、このような通史では読者の数だけ注文や不満は出てくるものだろう。いずれにせよ加藤の文章は終始一貫して明晰であり、晦渋を気取った点は微塵もない。

 文学研究にかぎっても正規のアカデミズムの世界では専門分化が進む折から、今後この種の力技を示す教養人の出現する可能性はきわめて低いといわねばならないだろう。
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by syunpo | 2010-12-13 19:57 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

虚無と享楽の四行詩〜『ルバーイヤート』

●オマル・ハイヤーム著『ルバーイヤート』(岡田恵美子訳)/平凡社/2009年9月発行

b0072887_18482856.jpg オマル・ハイヤームは一一〜一二世紀、アラブ・イスラームの支配下にあったペルシア(現イラン)に生きた詩人である。もっとも生前は天文学・数学・医学に詳しい「科学者」として知られた。詩人としての業績が議論されるようになったのは、彼の死後、何百年も経過してからのことであるらしい。

 ハイヤームの詩は四行詩。四行詩の単数形は「ルバーイー」、複数形が「ルバーイヤート」である。本書はイラン現代文学の第一人者であるサーデク・ヘダーヤトの『ハイヤームの四行詩集』に収録された百四十三篇のなかから百篇を抽出したもので、基本的な構成もヘダーヤトの編纂した詩集に拠っている。

 ルバーイヤートの邦訳はこれまで何種類も刊行されているが、英訳本からの重訳が少なくなかった。名文の誉れ高い片野文吉訳の筑摩書房版もその例にもれない。
 本書はペルシア語原典からの和訳である。原典から直接訳したものとしては、小川亮作訳の岩波書店版、陳舜臣訳の集英社版などがある。前者は読みやすい訳文ながら岩波文庫ならではの無愛想な本づくりだし、後者は格調高い美文調であるが、それ故に「お勉強モード」で臨まねばならない。その点、本書の訳文は詩句としてのコクにはやや欠けるものの、内容に見合った、より平易な訳文であり、親しみやすい編集と合わせてルバーイヤートの世界を私たちにぐんと近づけた功績は評価されても良いだろう。

 ハイヤームの詩は「この世でうけとる楽しみは、あの世の約束に勝る」というフレーズに象徴されるように、人間はいずれ死んで土に還るのだから生きているうちに酒を飲み恋愛をして楽しもうよ、と呼びかけることで一貫している。
 イスラームでは酒は禁じられているからハイヤームがイスラーム教に帰依していなかったことは確かだろうが、といっていたずらに無頼を気取っていたわけでもなさそうだ。「信仰にも異端にも耽らぬわが宗旨」らしい。

 いずれにせよハイヤームを評する際には、飲めや歌えやの精神的自由を謳歌した詩人──エピキュリアン──としての人間像を描くのが一般的である。しかしそれだけなら古代中国辺にもっと豪勢な詩人がいただろう。あるいは世のはかなさを強調する虚無主義的な人生観に対する論評も多いが、その方面なら日本の随筆文学にも似たような無常観をいくつか見出せるに違いない。
 訳者の岡田恵美子も示唆しているように、ハイヤームはペルシアに固有の宗教的な世界観を反芻しながらも同時に科学者としての認識を心の片隅に保持しつつ人世を歌った。その両義的な態度が何より私には面白く感じられる。

 万物は流転する。ヘラクレイトスはそう言った。
 ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。鴨長明は記した。
 すべての生き物は動的平衡にある。福岡伸一は宣言した。

 そして、ハイヤームは。

 地表の土砂のひとつひとつの粒子が、
 かつては、輝く陽の君の頬、金星の美女の額であった。
 袖にかかる砂塵をやさしく払うがよい、
 それもまた、はかない女の頬であった。(p92)
 
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by syunpo | 2010-12-10 18:53 | 文学(翻訳) | Comments(0)

資本論がスクリーンに甦る!?〜『シネキャピタル』

●廣瀬純著『シネキャピタル』/洛北出版/2009年5月発行

b0072887_222873.jpg 映画のミヤコ・京都から跳び出してきたユニークな映画論である。ジル・ドゥルーズの大冊『シネマ』全二巻をベースにマルクス的思考にも知恵を借りながら映画を語る。〈映画=資本〉すなわちシネキャピタル。労働だとか剰余価値だとか革命だとかいった語彙が頻出する記述は文字どおり〈映画資本論〉といった様相を呈しているのだが、もちろんそれは古典的マルクス主義とはあまり関係がない。ありていにいえば、一種のパロディとして資本論風に映画を論じたといった方が適切かもしれない。

 それにしてもマルクス経済学の手垢にまみれた語句をキーワードに取り込んで、ドゥルーズのシネマ論を今に甦らせながら映画における「革命」を軽やかに謳う筆致には知的な運動神経の良さを感じさせる。

 ドゥルーズの「普通のもの/際立つもの」という二分法を転用して「普通のものたちの協働が際立つものを剰余価値として生産する」装置として映画を認識し、そのうえでヒッチコックの作品にコミュニズム的なあり方を見出す。
 ドゥルーズはまた「純粋に光学的音響的な状況」をたとえば小津安二郎に探り当てて評価しているのだが、それを廣瀬は「労働を拒否し自律的なやり方で自分の生を生き始めるプロの失業者としての普通のイメージ」と読み替え、小津の再吟味にいそしむ。
 一人二役を好んだマキノ雅弘を「余分な価値が生み出されるように同一のイメージの回帰を組織」しえた映画作家として、経済とのアナロジーで論じるあたりの「インチキ」な叙述ぶりなど、映画そのものの「インチキ」ぶりに見事に拮抗していて愉しい。
 無論このように要約してみたところで、何のことだかよくわからないだろう。廣瀬のシネマ論は情報ではなく運動そのものとしてあるのだから、そもそも要約にはなじまない、というべきかもしれない。

 ちなみに、ここにはいくつもの映画作品(ヒッチコック《鳥》《めまい》、ロメール《獅子座》、ゴダール《新ドイツ零年》などなど)が具体的に名を挙げられ、分析の対象とされているのだが、これらをあらためて見直したくなる思いを喚起する度合いはたとえば淀川長治や蓮實重彦を読んだ時に比べればいささか弱いだろうと思う。本書の面白さはあくまで著者のエクリチュールそのものにあるのだから。
 いずれにせよ、編集もなかなか洒落ているし、充分に剰余価値として「際立つもの」を感じさせる本にはちがいない。
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by syunpo | 2010-12-07 22:53 | 映画 | Comments(0)

対話と独白の濃密な語り〜『アガタ/声』

●マルグリット・デュラス、ジャン・コクトー著『アガタ/声』(渡辺守章訳)/光文社/2010年11月発行

b0072887_9294290.jpg デュラスの《アガタ》とコクトーの《声》。この興味深いカップリングは渡辺守章が訳すとなれば必然的なものであっただろう。渡辺は高名なフランス文学者であるが、同時に演出家としても自前の制作会社を持ち、この二篇の戯曲を実際に舞台化しているのだから。

 《アガタ》は兄と妹の許されない愛──近親相姦──を主題とする対話劇である。過去の記憶から欲望を現在に甦らせようとする二人の対話にあっては、時制や人称代名詞が一貫せず混淆した状態で言葉が紡ぎだされていく。そこでは真実と妄想の区別さえ必ずしも明瞭とはいえない。それは「対話」というよりも二人の話者による「語り」といった方がふさわしい。いずれにせよ、その「語り」の詩的な趣は充分に魅惑的である。
 渡辺による解題は微に入り細を穿ったもので、読者へのよき水先案内人の役割をも果たしてくれているのだけれど、懇切な訳注がかえって読みの勢いをそいでしまう懸念もなくはない。注釈など無視して読み進むのがいいだろう。

 《声》は五年間付き合った男から別れを告げられ、絶望とともに電話で最後の会話を交わすという話である。舞台に姿をあらわしているのは受話器を握りしめている女一人で、男の台詞は無論、戯曲には書き込まれていない。つまりは女の一人芝居という形式である。
 この戯曲が発表されたのは一九二九年。通話の際には必ず交換手を通したり、電話が混線したり、長いコードをひきずって動き回りながら話す、というスタイルは今となっては古めかしい時代物的な舞台設定に感じられるようになってしまった。それにしても、男が話している間は文字どおりの「間」──沈黙が支配することになり、そうした趣向はこの戯曲の大きな特徴を成しているといえる。電話の長いコードが重要な役割を果たすエンディングをふくめて、やはりコクトーの才気は非凡だったというべきだろう。

 ところで、この戯曲はプーランクによってオペラ化されていて、ずいぶん前にNHK教育がヨーロッパでの公演を完全収録したものを放映したことがある。何も知らずに見始めたのだが、途中で退屈してしまってチャンネルをかえてしまったように記憶している。
 しかし緻密に構成された戯曲を読んだ今では、演劇であれオペラ化されたものであれ、一度実演に接してみたいという思いが強くなった。
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by syunpo | 2010-12-04 09:34 | 文学(翻訳) | Comments(0)