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ブックラバー宣言

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教科書では学べないこと、あれこれ〜『米朝快談』

●嶽本野ばら著『米朝快談』/新潮社/2013年2月発行

b0072887_18182274.jpg 桂米朝の落語について綴ったエッセイ集。といっても全編これ落語にまつわる話というのでもなく、米朝の持ちネタを標題に立て、それにからめて自分自身の貧乏生活ぶりや趣味嗜好などのよもやま話にもかなりの字数を費やすという趣向である。

 本のオビには〈「門外漢」と侮るなかれ、幼少より寄席に通い、米朝落語に長年親しみ……〉と謳われているけれど、実際には米朝の高座を残念ながら観ていない、とあとがきに記されている。そのためか噺そのものについて論評した部分は意外と平板で、上方落語大全集の速記や米朝の著書からの引用が多く、ごく常識的な内容。松本紳助のテレビ番組や『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』について語る口調の方が熱く感じられた。

 実演を知らずに映像や録音に頼った落語本としてはほかに平岡正明の枝雀論『天才的落語家!』が想起されるが、弛れずに最後まで愉しく読み通せたのは平岡の才気や批評センスのなせる技だったのだとあらためて実感される。本書に関しては、身辺雑記風のくだりも箸にも棒にもかからないものだし、生の高座を知らない書き手の弱点がそのまま出てしまったような印象を拭えない。

 なお巻末に収められた創作落語《噺家綺譚》は内容的には可もなし不可もなしだが、サゲのフレーズはマクラの小噺には使えるかもしれない。
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by syunpo | 2013-03-29 18:28 | 古典芸能 | Comments(0)

イオニアからどんぐりの森へ〜『哲学の自然』

●中沢新一、國分功一郎著『哲学の自然』/太田出版/2013年3月発行

b0072887_17174823.jpg 二〇一一年二月に発生した東日本大震災とそれに伴う原発事故は、少なからぬ言論人をしばし沈黙させたが、一方で多くの論客を様々な発言へと駆り立てた。本書は後者に属する二人の学者による対論の記録である。主なテーマはポスト〈原子力時代〉をどのように構想するか、という問題だ。それは二人にとって〈自然〉とどう向き合うのかという問いにも直結する。敷衍していえば、新しい自然哲学の構築、あるいは哲学の自然を探求する試み。かかる企ては「自然との調和」といったような観念的な紋切型思考におさまるようなものではないはずである。

 二人が参照する知見は幅広い。ハイデッガーやスピノザを足がかりにして、数学理論の「コホモロジー」やホフスタッターの「不思議の輪」など、多方面から掴み出してきた概念によって来るべき自然哲学の見取図を奔放に描きだしていく。

 全体をとおして重要な視点を与えているのが〈贈与〉という概念だ。
 人類に対する最大の贈与とは太陽からのエネルギーである。この贈与の次元を絶ち切って、人間が自律性を獲得したいという欲望の具現化の一つとして原子力利用をみる、というのは中沢が『日本の大転換』で示した認識であった。國分もその見方を共有しながら贈与の次元を包括するような哲学を模索しようとする。贈与には必ず負債感が伴うが、太陽の贈与に対して何の負債感を負わずに感謝する思想を──と國分が提起するくだりはなかなかおもしろい。

 ハイデッガーを再評価するのもそれらの複数のコンテクストに拠る。
 核燃料は冷やし続け「管理」し続けねばならない、この事実そのものが「この力を制御し得ない人間の行為の無能をひそかに暴露している」とハイデッガーは考えていたのだから。さらに「感謝」についてもよく考えていた哲学者だから。彼は「思惟」には「感謝」も含まれるというようなことを述べていたらしい。

 ハイデッガーはイオニアの自然哲学にも強い関心を示した。となれば、柄谷行人の『哲学の起源』も当然射程に入ってくる。新しい哲学の方向性をイオニアの自然哲学に見出そうとする二人の問題意識は完全に柄谷と重なりあう。そこでは単なる交換原理だけでなく贈与の次元が重視されることはいうまでもない。

 本書で論じられていることは、前述した中沢の『日本の大転換』や國分の『暇と退屈の倫理学』など直近の書物の内容と重複するところも少なくないが、一見異質な二つの書物の著者が互いに相手の言葉を咀嚼しながら巧みに議論を進めていく話しぶりは、いささか精緻さを欠くとはいえ二人の知的柔軟性を感じさせる。

 また東京都が進めている小平都市計画道路に関して、小平市の貴重な雑木林を破壊する点などを憂慮する市民が始めた「住民の意思を反映させる」活動に二人が関わったていることも詳しく論じられている。その意味では実践的な民主主義論になっているのも本書の特長の一つといっていいかもしれない。
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by syunpo | 2013-03-24 17:29 | 思想・哲学 | Comments(0)

言葉、死に行く母から娘への〜『鉄の時代』

●J・M・クッツェー著『鉄の時代 〜池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅰ−11』(くぼたのぞみ訳)/河出書房新社/2008年9月発行

b0072887_213512.jpg 舞台は南アフリカ共和国。この地の大学でかつてラテン語を教えていたインテリ女性の主人公ミセス・カレンがガンの再発を宣告された日から話は始まる。時代設定は、悪名高きアパルトヘイト体制が崩壊に向かう途上の、剥き出しの暴力が荒れ狂っている時期である。

 ミセス・カレンは自宅のガレージに居ついてしまった浮浪者ファーカイルと奇妙な共同生活をする羽目になり、アメリカに移住した娘あてに手紙を死後に差し出してくれるよう、彼に依頼する。本当に娘のもとに届くのかどうか定かでない状況で書き綴られた手記が本作の枠組みとなっている。

 クッツェーは二〇〇三年にノーベル文学賞を受賞した。受賞理由の一つとして「西欧文明のもつ残酷な合理性と見せかけのモラリティを容赦なく批判した」ことが指摘されているが、本作はまさにそうした評価がしっくりあてはまる作品といっていいだろう。

 アフリカーナー民族主義に支えられたアパルトヘイトという体制は、少数の白人が土地と富の大部分を占有し、法律によって人種的な階層を作り上げ、人種差別を合法化した制度だった。もちろんそれ以前から先住民に対する圧政は存在した。彼らの土地所有権を奪い、奴隷のように酷使した歴史のうえにこの制度は確立したのである。

 ミセス・カレンは自分の「遺書」を託すことにしたファーカイルに向かって言う。

 罪は遠い昔に犯された。どれくらいむかしか? わたしにはわからない。でも一九一六年よりずっとむかしよ、もちろん、ずっとむかしだけれど、そのなかにわたしは生み落とされた。それはわたしが受け継いだ遺産の一部なの。それはわたしの一部であり、わたしはその一部なのよ。
 どんな罪にも、かならず代償がついてまわる。その代償は、恥のなかで贖われなければならない、とかつてわたしは考えた──恥のなかで生き、恥にまみれて死ぬ、惜しまれることもなく、いずことも知れぬ場所で。それをわたしは受け入れた。自分だけ切り離そうとは思わなかった。わたしが頼んだために罪が犯されたわけではないけれど、でもそれは、わたしの名において犯されたものだから。……(p196)


 南アフリカ共和国に生まれ育った白人が書いた文学作品における白人の台詞として、これは一つの良心を示すものには違いない。

 だが、どうだろう。〈罪〉は遠い昔に犯されただけなのか。人は生まれる土地を選ぶことができないとはいえ、アパルトヘイトを維持してきた現代の白人たちに〈罪〉はないといえるのか。ファーカイルのように無学でなく自分たちの言葉を持った黒人たちがこれを聞けば、もっと直接的な〈罪〉について問い質したいと思うのではないか。

 この文学全集を編集した池澤夏樹は「クッツェーがうまいのは主人公を黒人にしなかったこと」と論評している。そうかもしれないが、うまい/下手で論じることでもないような気がする。そもそも現実にアパルトヘイトの体制下で特権階級の生活を享受してきた白人の文学者がかかる主題を扱った小説を黒人の視点で書くことは文学的想像力をもってしても困難なことだったろう。

 政治的文脈をいったん括弧に入れてしまえば、この作品のもつ別の味が浮かび上がってくる。私が興味深く思ったのは、クッツェーはこの作品においてヨーロッパの古典文学に目配せしながら、現代の文学が生まれ出ずるところを語っているようにもみえる点だ。たとえばミセス・カレンが暴力闘争に明け暮れる少年に語りかけるくだりは印象的である。

 あなたはことばを信じていないわね。殴るほうがリアルだと思ってる、殴打と銃弾。でも聴いて──わたしが話していることばは、リアルだと思えない? 聴いて! 声は空気にすぎないかもしれない、でもそれはこの心から出ているの、この子宮から。それは『はい』ではない、『いいえ』でもない。わたしのなかで生きているのはなにか、ほかのもの、別のことばなの。わたしはそのために闘っている、わたしなりに、それが窒息させられないよう闘っているの。(p174)

 この言葉が、死に行く者の口から発せられていることにいっそうの重みが感じられるし、そこにクッツェー自身の決意が投影されているようにも思われる。

 もちろん文学といえども政治の場所から自由ではありえない。一義的には(狭義の)政治の場で決着すべき問題を文学が肩代わりすることもできない。この作品は文学の可能性と不可能性を同時に考えさせるという点でも多くの人に読まれるべき作品であると私は思う。
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by syunpo | 2013-03-22 21:13 | 文学(翻訳) | Comments(0)

ヨーロッパ中心史観を刷新する〜『新しい世界史へ』

●羽田正著『新しい世界史へ ──地球市民のための構想』/岩波書店/2011年11月発行

b0072887_919838.jpg 国家意識ではなく「地球市民」という新たな帰属意識を与えるような世界史。著者のいう「新しい世界史」とは端的にいえばそのようなものである。ゆえにどこかの国家や地域を中心にして描かれた世界史──従来のヨーロッパ中心史観や〈ヨーロッパ/非ヨーロッパ〉という二分法、さらにはイマニュエル・ウォーラステインの世界システム論のような歴史観──は真っ向から否定される。またその観点から時系列史的な叙述への疑義も提起されている。

 率直にいって本書の主張にはあまり共感できない。安易に「地球市民」を名乗ることの欺瞞性については、ダグラス・ラミスが批判している(私もそれに同意する)し、列強による植民地支配に関して「植民地支配者と被支配者の単純な対立」図式を否定し事態を複雑化して語りたがるのは支配者(及び彼らと結託して利益を得た一部の現地人)たちが好む常套である。
 とはいえ、地理的なヨーロッパと峻別されるべき〈概念としてのヨーロッパ〉の形成過程を明らかにすることはきわめて重要である、とする羽田の指摘には興味をそそられる。そのような歴史書なら読んでみたいと思う。
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by syunpo | 2013-03-17 09:21 | 歴史 | Comments(0)

キッチュ、この人間的なるもの〜『存在の耐えられない軽さ』

●ミラン・クンデラ著『存在の耐えられない軽さ 〜池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅰ−03』(西永良成訳)/河出書房新社/2008年2月発行

b0072887_20382121.jpg この小説は音楽的──弦楽カルテットのよう──な構成美に貫かれている。主要な登場人物は四人。有能な外科医でドン・ファンのトマーシュ、大学教授のフランツ、トマーシュと同棲することになるテレザ、フランツの愛人サビナ。
 時制が入り乱れ、時にバラバラな断章が並んでいるようにみえて、実は精緻な計算に裏付けられていることが読むほどにそして読んだ後にもじわじわと了解されるような造りとでもいえばよいか。ベートーヴェン最後の四重奏曲の最終楽章にまつわるエピソード(モチーフ)が何度も作中に出てきて「変奏」されるのが何より象徴的であるだろう。

 ここではまた人物たちの行動や心理の描写だけで事が運ぶわけではない。そもそもこの物語の語り手である〈私〉とは作者のことで、ニーチェやプラトンらの哲学について講釈を加えたり、あからさまに作品のなかに介入してきて解説めいたことを語りだしたりするのだ。そのような多重的な作法をクンデラ自身は「小説的対位法」「ポリフォニー」と呼んでいるらしい。

 主な舞台となっているのはボヘミア(クンデラは一貫してチェコスロバキアという呼称を回避している)。第二次世界大戦後の〈プラハの春〉とその後のソ連軍の侵攻という時期を背景としている。
 ちなみにクンデラは〈プラハの春〉の政治活動に関わったために、それまで発表していた作品が発禁処分になったほか、プラハの大学における教職を追われ、一九七五年にフランスに亡命した。本作は亡命後の二作目にあたる。

 ロシア帝国とその傀儡政権による言論弾圧が強まってくるとトマーシュはテレザとともにスイスに逃れて新しい生活を始める。テレザはフォトグラファーとしての仕事の機会を得るがそれを断わり、「六、七か月すぎた」頃に置き手紙を残してプラハに帰ってしまう。後を追うようにトマーシュもプラハに戻る……。

「キッチュ」をめぐるクンデラの考察は本作の重要なポイントであるだろう。キッチュとはドイツ語起源の外来語で、一般に「まがいもの。俗悪なもの」というように解釈される言葉だが、クンデラは「この語の概念をより広く近現代人の非本来的な審美=倫理的価値観・様式・風俗を特徴づけるものと考えている」。(p17、訳者脚注)

「キッチュの王国では、心情の専制が行使されるのだ」「キッチュとは死を隠す屏風のことなのだ」「キッチュ、それは存在と忘却のあいだの乗換駅のことなのだ」……後半、次から次へと繰り出されるキッチュにまつわる隠喩的な箴言は印象的である。それらは四人を取り巻く世界の様子を絵解きしている風にも読めるが、おそらくそれだけにはとどまらない。この作品全体を貫く問題意識がそこに込められているのではないかとも思う。
 当然ながら、共産主義や全体主義を批判する西側諸国の人々の運動もフランツやサビナの眼を通して相対化され、そのキッチュなありようが浮き彫りにされる。

 彼女(=サビナ)は友人たちに言いたかった、共産主義、ファシズム、あらゆる占領や侵攻にはもっと根本的で普遍的な悪が隠されている、その悪のイメージ、それこそまさしく腕を振りあげ、声をそろえて同じ音節を叫びながら行進する行列のイメージなのだと。(p117)

 そのイメージに呼応するかのように後段で〈私〉はいう。
「私たちはだれひとりとして超人ではないのであり、全面的にキッチュから逃れることなどできないのだから。私たちにあたえる軽蔑がいかなるものであれ、キッチュは人間の条件の一部なのである」と。

 キッチュを批判したところで、人間はキッチュから逃れることなどできない。文学とはむしろそこから始まるとクンデラは言いたげである。だからこの作品は単なる体制批判や告発という枠組にはもちろん収まるはずもない。

 とりわけ緩徐楽章に準えられるべき最終部の静謐な筆致のうちに、クンデラ自身が舐めた辛酸を文学的考察へと昇華させた言葉の結晶に触れる思いがした。まさしく次代に伝えられるべき二〇世紀文学の一作だろう。
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by syunpo | 2013-03-15 20:50 | 文学(翻訳) | Comments(0)

芸術から遠く離れて〜『反アート入門』

●椹木野衣著『反アート入門』/幻冬舎/2010年6月発行

b0072887_19583288.jpg〈反(=アンチ)〉を唱える身振りによって、そのジャンルは延命をはかっていく。それはアートの諸分野に限らず、文学の領域でも政治勢力においても日常的に観察しうるありふれた光景である。本書にみえる〈反〉の態度もまたしかり。細部にキラリと光るフレーズもなくはないが、基本姿勢においては一つの紋切型の反復であり、その意味では退屈な本である。

 しかもこの退屈さと戯れようにも論旨があまりにも混乱しすぎている。たとえば美術作品が投機の対象として隆盛している現状を概観した後、美術作品と貨幣経済との関係を経済学のタームを駆使して壮大に論じるという大立ち回りを演じたうえで、椹木は「いまアートの世界で起こっていることは芸術の堕落ではなく、それがもともと持つ野性が、思うがままに解き放たれた生の状態」と大見得を切る。そうであるならば、これからも村上隆や奈良美智のような市場価値満点の作品を愛でて芸術の野性あふるる「生の状態」を謳歌すればよろしいはずである。

 ところが最終章にいたって、椹木は芸術の現状に不満を示し、その行く末を深刻に憂えている様子なのだ。しかも問題がすっかり通俗化された形で。

 現在の社会は、政治・経済の難問に始まり、環境破壊、疫病の蔓延、戦争の恒常化、そして生活のこまごましとした次元に至るまで、解決がむずかしく先行きの見えない多くの問題を抱えています。元来であれば、こうした閉塞状況に希望や新しい可能性を兆すのがアートの役割であるはずです。けれども現在のアートは、そうした答えを持っていません。(p245)

 政治・経済の難問や環境破壊などの課題に明解な「答え」を示したアート作品が過去にあったというなら、それは具体的に誰の何という作品なのか是非知りたいと思うが、それに言及した箇所は残念ながらみつからない。そもそも経済の難問も環境破壊も端的に資本主義下での貨幣経済が生み出しているものなのだから、「芸術作品と貨幣経済とは元来は同じもの」だったという認識に同意を示している論者が芸術作品に答えを期待することじたいがマヌケというものだろう。
 もっとも椹木自身はみずからの現状認識に含まれる矛盾には無自覚なまま、ハイデッガーを引用して「即座に有効な処方箋を求める渇望自体が、問題を抱えた社会に固有の特徴」だとして「思索の余裕」を取り戻すべきだと陳腐な「答え」で片付けている。

 では、何が問題なのか。
 続いて椹木は「アートや芸術の復興」について問いかけ、さらに後段では「日本ではアートが社会に根づく余地はないのでしょうか」とも思案している。

 それらの問題に対しても参照されるのはハイデッガーだ。彼の「隠れ・なさ」なる概念に着目して、それを柳宗悦の「民藝」運動や水墨画・禅画などに見出そうとする。しかしすでに東西の多くの論者によって言及されてきた東洋的な美術を引っ張り出してきて西洋哲学風味の理論で再武装を図ったところで、いやそれゆえに、オリエンタリズムの紋切型をオリエント側から反復することにしかなるまい。
 もとより不思議なのは、本文において椹木自身が明確に繰り返し採用している「西洋/東洋」という議論の図式について、〈あとがき〉では「いまやほとんど意味をなさない枠組」とみずから無効を宣言していることだ。

「アートが社会に根づく」ことを妨げているのは、何よりもこういうアカデミズムの意匠をまとった支離滅裂な言説ではないか。本書の壮大な空転ぶりに現代美術批評の混迷の一端が「あらわれ」ているように思う。
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by syunpo | 2013-03-07 20:06 | 美術 | Comments(0)

吾輩はこうして人間になった〜『犬の心臓』

●ミハイル・A・ブルガーコフ著『犬の心臓』(水野忠夫訳)/河出書房新社/2012年1月発行(復刻新版)

b0072887_20263545.jpg 飢えと寒さで瀕死の状態にあった野良犬が一人の紳士によって助けだされ、彼のアパートに保護される。その紳士は医師であった。犬は充分な食事を与えられ栄養失調から回復した後、実験的な手術によって急死した人間の脳下垂体と精嚢を移植される。そして変貌する。犬の心臓をもった人間へと……。

 設定としては別段新奇というほどもでないが、充分に読み応えのあるこの小説は、旧ソ連では体制批判の書として発禁処分になった。ブルガーコフ自身も当時の政治体制に異議を申し立てるつもりで執筆したことは疑えないのだけれど、今さらこの作品をソヴィエトの体制批判という視点のみから読み解いてもつまらない。

 おもしろいのは、漱石の猫と異なって視点が固定されていないことである。犬でいる間は一人称──もっぱら犬の視点──が使われているのだが、人間に変身してからは三人称が貫かれている。シャリコフと命名された犬人間の行動は、一貫して第三者の視点によって描写されることになる。

 それはどういうことを意味するのであろうか。人間にとって人間こそが最大の他者であるから、という解釈はどうだろう。犬から人間に変身していく過程は、犬に手術をほどこしたフィリップ・フィリッポヴィッチ医師の助手・ボルメンターリの「病状記録」という形式で描写が開始されているのはその意味でも興味深い。最初は科学者の目で犬人間の生態が報告されるのである。無論、本作にあっては科学もまた相対化の対象になる。科学=理性によって制御することができない犬人間が生み出されることによって、科学万能主義はここで厳しく審問に付されているのだ。

「病状記録」にはまた犬人間が人間の言葉を獲得していくプロセスも驚きとともに記録されている。人間を人間たらしめるもの。言葉。さりげない描写にはなっているが、この部分は重要だと思う。ある意味では科学の手の届かぬところから発せられる言葉。他者から発せられる言葉。野卑で下品な言葉。やがてその言葉は……。
 ……あえて書いてしまおう。いったん人間世界に解き放たれた言葉は、ふたたび封印される。そして犬人間は言葉を喪失することによって一人称を再び復活させることになるだろう。無論そうした事態もまた言葉によって表現されるほかないものではあるが。ここではメビウスの輪のように言葉は死と再生の不可思議な境界にあらざる境界を往還する。言葉という不思議こそが文学の不思議を生み出す。

 本作が初めて活字になったのは、一九六八年のことだったらしい。ソ連国内で公刊されたのは、さらに遅れて一九八七年。長い雌伏の時を経て「犬の心臓」がまた鼓動を始めたことは世界文学史にとって幸いなことであったと思う。
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by syunpo | 2013-03-05 20:38 | 文学(翻訳) | Comments(0)

日本国のアンチエイジングを考えよう〜『幼少の帝国』

●阿部和重著『幼少の帝国 成熟を拒否する日本人』/新潮社/2012年5月発行

b0072887_20561542.jpg ロラン・バルトの『表徴の帝国』の向こうを張って『幼少の帝国』。本書は一応ノンフィクションということになっている。テーマは日本人の「成熟拒否」。もっともそのような議論の隆盛は今に始まったことではない。「成熟拒否の問題は、戦後ずっと、日本人論の切り口の一定番だった」。ミーハー主義を標榜する阿部和重はそんな常套句中の常套句の世界にすすんで身を投じる。常套句中の常套句を乱発するために。

 そこで一つの仮説が設定された。阿部は一九四五年九月にアメリカ大使公邸で撮影された昭和天皇とマッカーサーのツーショット写真に注目する。

 昭和天皇とマッカーサーのツーショット写真を、戦後日本の「成熟拒否」傾向を決定づけたきっかけだったと、わたしたちは位置づけました──そしてそれを機に、ちっちゃな存在たる自分自身の自己肯定に励んでいったのが、戦後日本の復興期だったのではないか、と一つのストーリーをわたしたちは粗描してみたわけです。(p68〜69)

 本書はそういうわけで「成熟拒否の一例かもしれない物事の表面のみに絞って注目」したノンフィクションなのである。「成熟拒否の一例かもしれない物事」として、アンチエイジングにおけるスキンケアや美容外科の最前線、カーボンナノチューブなどの超小型化技術、ニチアサキッズタイムを利用したバンダイのマーチャンダイジング、終わりなき青春を生きるスタイルとしてのデコトラ文化……などの具体例が取り上げられる。

「成熟拒否の一例」としてアンチエイジングや小型化技術を俎上に載せるのは生真面目な読者にすれば単なる「屁理屈」かもしれないが、ここに登場する資生堂ライフサイエンス研究センターの研究員や高須クリニック院長の談話は読み物としてはそれなりに面白い。また映画『トラック野郎』からデコトラ文化に言及したり、ニチアサキッズタイムにおける東映とバンダイのマーチャンダイジングに興味を示す阿部の語りも熱い。

「成熟拒否の一例かもしれない物事」の考察を通して阿部は一つの逆説を見出すに到る。「現代日本に特有の文化現象としての『成熟拒否』傾向とは、じつは老練な職人芸によってこそ支えられているという逆説」を。そして「『成熟拒否』を可能にする、老練な職人芸が今、重大な危機に迎えているのだ」と付け加えることも忘れない。では、これからどうすれば良いのか。

 老練な職人芸の後継者が、この先不足する一方なのだとすれば、「純潔性」という幻想を捨ててもともとの「異種交配」に立ち返るしか、生存戦略上の選択肢はありません。「成熟拒否」の姿勢という日本ならではの処世術を貫くには、もはやそれしかないように思えます。(p232)

 本書の企画は新潮社のPR誌において立ち上げられたものである。その連載中に東日本大震災が発生した。そこで被災地ルポを二篇執筆するという想定外の成り行きになった。その二篇はいささか優等生的なルポルタージュで、本書のなかでは浮き上がったような印象を拭いきれない。そこを除けば「屁理屈」のこね方や話の展開のしかたに小説家らしい芸を感じさせる「ノンフィクション」作品といえるだろう。
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by syunpo | 2013-03-01 21:06 | ノンフィクション | Comments(0)