ブログトップ

ブックラバー宣言

syunpo.exblog.jp

<   2014年 08月 ( 10 )   > この月の画像一覧

何もないところをぼくは夢見る〜『詩人の墓』

●谷川俊太郎、太田大八著『詩人の墓』/集英社/2006年12月発行

b0072887_10565968.jpg 谷川俊太郎の物語詩と太田大八の絵のコラボレーション。いわば詩の絵本である。

 詩人がいた。詩人に憧れる娘がいた。二人はいっしょに暮らし始める。詩を読むと娘は悲しいんだか嬉しいんだか分からない。詩を書くことは娘はすばらしいと思ったが、ときおり寂しかった。娘にとって詩や詩人は両義的な存在。

 あるいは、ここに登場する詩人も娘もともに作者・谷川俊太郎の分身ともみなしうるのではないか。詩を書きつつも詩に疑いをもつこと。詩を疑いつつも創作し続けること。もっとも詩人は詩以外のことばを紡ぎ出すことはできないようだった。娘は叫んだ。何か言って詩じゃないことを。男は黙ってうつむいていた。娘はいう。あなたって人はからっぽなのよ、と。

 「いまここだけにぼくは生きてる」男は言った。
 「昨日も明日もぼくにはないんだ
 この世は豊かすぎるから美しすぎるから
 何もないところをぼくは夢見る」(p47)


 詩人の男はただ夢を見ていただけなのか。
 人の墓石に刻んだ詩も夢の産物だったのか。
 いや、娘は最初から男の墓の前に立っていただけではないか。
 すべては娘の夢想だったとすれば。
 本当の詩人は娘だった。といえば夢想に聞こえるだろうか。
[PR]
by syunpo | 2014-08-31 11:05 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

プラグマティズムと習慣の力〜『民主主義のつくり方』

●宇野重規著『民主主義のつくり方』/筑摩書房/2013年10月発行

b0072887_19201377.jpg 今日まっとうに機能しているとはいいがたい民主主義をいかにつくりかえていくべきか。アメリカ発祥のプラグマティズムが一つの導き手になる。政治哲学を専攻する宇野重規はそう主張する。そしてパース、ジェイムズ、デューイらの考え方を紹介し、日本における事例をピックアップし、今日の継承者としてオバマ大統領とローティに言及する、というのが本書の大まかな構成である。

 宇野が〈プラグマティズム型〉の民主主義を提起するとき、対極にあるのは〈ルソー型〉民主主義。後者の鍵概念は「一般意思」であるが、それは社会が真に一体になったときに現れる「共同の自我」のようなものと考えられる。人々はそこに到達できないとしても、いわば一つの目標としてそれに近づいていくことが重要なのだ。しかしそうしたフィクショナルな民主主義モデルを宇野は斥ける。明確な意思の担い手としての人間像そのものを問いなおすべきではないのか。そこで浮上してくるのが〈プラグマティズム型〉民主主義というわけである。

 プラグマティズムで重視される概念は〈習慣〉。もっともそれを辞書的な意味でとらえてはいけない。
 
 ……習慣とは、人間による学習された行動様式であるが、それは不断に検証され、修正されていくものである。言い換えれば、そのような状況が生じた場合にただちに行動する準備ができているという意味で、定着し性向になった行動様式である一方、つねに変化に対して開かれているのが習慣である。(p123)

 デューイをはじめとするプラグマティストたちのいう〈習慣〉とは「他者との相互作用やコミュニケーションを通じて、生産され、再生産される」ことがらなのである。宇野によればこのような考え方は、伝統社会ではないアメリカという土地だからこそ生まれたものといえる。

 本書に面白味があるとすれば、持続性や保守と結びつけられて理解されがちな〈習慣〉をプラグマティズムの観点から社会変革の梃子と見做している点に求められるだろう。かつて三木清も『人生論ノート』において〈習慣〉を生命力の躍動とみるような記述を残したが、宇野はそれを民主主義との連関において捉え直し社会的なコンテクストに拡張したともいえる。
 さらに〈習慣〉の可能性を論じるに際して、ハイエクとネグリ=ハートを持ち出しているところにも宇野の思考の柔軟性があらわれているかもしれない。前者は新自由主義者として、後者はマルクス主義の変奏者として引用されることが多いのだが、ともに〈習慣〉に論及していることに着目したのである。

 ただそれにしても、率直にいって本書で述べられているプラグマティズムや〈習慣〉にさほどの魅力は感じられなかった。この程度の抽象的な概念ならば他にも代わりがあるとまではいわないにしても、それで現代社会の複雑さに本当に太刀打ちできるとも思えない。紹介されている具体例(ソーシャル・ビジネスのNPO法人、島根県海士町のIターン政策など)もそれぞれに面白い試みであることは否定しないが、論者によっていろいろな文脈で称揚できそうな多義的な成功事例だと思う。

 たとえば民主主義の機能不全を象徴的にあらわしている原発の問題について考えてみよう。「原子力ムラ」の負の連鎖のなかに取り込まれ交付金漬けにされた地域社会が別の途を模索しようとした場合、どのようにすればそこから抜け出すことができるのか。これは政治家も学者も頭を悩ませる難題である。プラグマティズムのいう〈習慣〉がそのような難題にいかほどの示唆を与えうるのか、と問うことは酷だろうか。

 すべての個人が自らの信じるところに従って「実験」を行なう権利があるとプラグマティズムの教えはいう。だが万人が思い思いに「実験」を行えば当然多くの衝突が生じる。そのような衝突に直面したときに調停することこそが政治の大きな課題ではなかったか。その調停もまた〈習慣〉の力に委ねよということかもしれないが、かかるメッセージにどれほどの実質的な力があるのか。私にはよくわからない。
[PR]
by syunpo | 2014-08-29 19:30 | 政治 | Trackback | Comments(0)

日本国憲法の位置を見定める〜『比較のなかの改憲論』

●辻村みよ子著『比較のなかの改憲論 ──日本国憲法の位置』/岩波書店/2014年1月発行

b0072887_1955853.jpg 日本国憲法を歴史的視座と比較の視座から位置づける。これが本書の趣旨である。憲法を俯瞰的に分析することによって、その現代的意味が明らかになり、より広く且つ多角的な議論が可能になるだろう。

 日本国憲法は改憲のハードルが高いとしばしば指摘されてきたが、立憲主義や硬性憲法のもとでは、現在のような改正手続をおくことはまったく不自然なことではなく、比較憲法的にみても「厳しすぎる」わけではない。その意味では「日本の手続のハードルが高すぎるから、これまで憲法改正ができなかった」という政治家の言い分は論拠の乏しいものである。

 日本国憲法につきまとう「押し付け」論に対しても現代史学の成果を取り入れながら相対化を試みている。憲法史的にみれば、明治時代の自由民権運動が築いた民主的憲法思想が鈴木安蔵らの「憲法研究会案」に結実して、ラウエル文書からマッカーサー草案に伝わり、新憲法に取り入れられた、という史実こそが重要であると著者はいう。それだけではない。自由民権期の思想はフランス人権思想やアメリカ独立宣言などに示される憲法思想の影響を受けたものであり、世界史的な系譜としては日本国憲法は近代立憲主義の正統な流れを汲むものであることが認められるのである。
 日本国民による自主的な再検討の機会を保障するため極東委員会が憲法施行後二年以内の「見直し」を促した際にも、当時の吉田茂内閣はこれを拒み修正の意思なしと言明したことも銘記されるべきだろう。

 また公務員の憲法尊重擁護義務に関してはどうか。つまり国民に擁護義務を課すことも必要なのではないかという意見をいかに考えるべきか。「九九条に国民の尊重擁護義務が明記されていないことこそが重要」だと著者は言い切る。

 その理由は、立憲主義の本質、国民主権・憲法制定権力から説明される。……為政者は、権力を縛る憲法が邪魔になることから一般にこれを改正しようとする傾向があることは歴史的経験上明らかであり、近代立憲主義は、国民が為政者に憲法を守らせるために、監視し、安易な憲法改正をさせない硬性憲法を採用しているのである。(p72)

 自民党の改憲案が国家の介入や国家的規制を強めている点についても「時代逆行的」な草案であると批判しているほか、日本国憲法が二〇一三年に国連人権理事会で承認された「平和への権利宣言」を先取りするものであったことが強調されているのも注目に値する。
 いささか教科書風の無味乾燥な読み味ながら良書であることは間違いない。
[PR]
by syunpo | 2014-08-27 20:05 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)

京の噺家リクヤンのコラム集〜『上方落語十八番でございます』

●桂米二著『上方落語十八番でございます』/日本経済新聞出版社/2010年5月発行

b0072887_11362073.jpg 桂米朝一門のなかでも理屈っぽいことで知られる桂米二。文筆の方面でも活躍しており、日本経済新聞のウェブサイトにコラムを連載したこともある。本書はそのなかから一部を抜粋して編んだもの。一回ごとに落語の演目を一つ取り上げ、それにまつわる蘊蓄や楽屋話を織り交ぜて解説をほどこす。噺家の本としてはありふれた趣向ではあるが、そこは上方の芸人、噂ほどの理屈っぽさを感じさせることもなく、愉しい読み物に仕立てている。

 米朝一門では自分が最初にやったという《百年目》、思い入れたっぷりの一篇はネタの偉大さと相まって本書の冒頭を飾るにふさわしい。《牛ほめ》では、噺のなかに出てくる池田のおっさんの家の模型を展示する落語みゅーじあむの写真を掲載し、建築家の「証言」も取り入れながら、おもしろく読ませる。新作落語のなかでも古典的な風格をもつ名品《まめだ》、作者の故三田純市との思い出話もまじえた一文もまたネタ同様に味わい深い。《代書》は途中で切ってしまうケースが多いが、全編通してやるといろんな人物が登場するらしい。そして上方落語屈指の名作《たちぎれ線香》でしっとり(?)と締め括る。

 またこれらの演題の合間に〈ちょっと休憩〉と題して入門時や内弟子時代の懐古談や舞台裏のエピソードなどを配しているのも一興。
[PR]
by syunpo | 2014-08-23 11:45 | 古典芸能 | Trackback | Comments(0)

民主主義を超えて〜『柄谷行人インタヴューズ2002-2013』

●柄谷行人著『柄谷行人インタヴューズ2002-2013』/講談社/2014年3月発行

b0072887_19135779.jpg 柄谷行人の単行本未収録インタヴュー集の第二弾。二〇〇二年から二〇一三年にかけて行なわれたもので〈資本制=ネーション=ステート〉の三位一体構造を揚棄するための考察を本格化させた時期に相当する。自著『トランクリティーク』から『世界史の構造』『哲学の起源』までの内容に沿った話が中心。また東日本大震災に伴う原発事故のあと日本でも活発化したデモに関する発言も多くなっている。これまでの著作をすでに読んだ者にとってはさほど新味はないが、最近の柄谷の問題意識を手っ取り早く知るには好適な本といえよう。

 そのなかで、既刊書ではあまり触れられていないバウハウスに言及する「X-Knowledge HOME」特別編集三号(二〇〇四年十月)初出の〈アソシエーションとしてのバウハウス〉は特筆すべきかもしれない。柄谷哲学のキーワードの一つともなっている「アソシエーション」をバウハウスに見出そうとするもので、『隠喩としての建築』の著者らしい発言が随所にみられる。柄谷によれば、バウハウスは先生と学生が対等な関係にあるような学校であり、職人と芸術家が対等な関係にあるようなアソシエーションの運動であった。またこのような「集団的な創造」=「アソシエーション」という視点から、室町後期以降の俳諧連歌や芭蕉の連句にも注目する柔軟さ奔放さもまた柄谷の思索の特長といえるだろう。

 人文書の危機から説き起こす〈可能なる人文学〉(「論座」二〇〇七年三月)では、人文学全般についての柄谷の所感が存分に披瀝されている。いくつかのテクニカルな問題に触れつつ、人文学を「この世界を変えようとする志向」として捉えている点は実に明快。
 移動を伴う批評性への論及した〈「トランスクリティーク」としての反原発〉(「小説トリッパー」二〇一二年三月)、古代ギリシアのデモクラシーとイソノミアを対比させる「哲学の起源」について語った〈民主主義を超えて、イソノミアの回帰を〉(「週刊読書人」二〇一三年一月四日)なども含蓄豊かな内容である。
[PR]
by syunpo | 2014-08-21 19:21 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

字引は小説より奇なり!?〜『辞書になった男』

●佐々木健一著『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』/文藝春秋/2014年2月発行

b0072887_8314214.jpg 三省堂国語辞典(三国)と新明解国語辞典(新明解)。日本を代表する二つの国語辞書である。創刊時の三国の編纂者は山田忠雄。新明解はケンボー先生こと見坊豪紀。二人はともに東京大学で国語学を学んだ同級生。若くして明解国語辞典(明国)を編纂した仕事仲間でもあったが、その後、袂を分かつ。そうして二つの個性的な辞書が屹立することとなった。

 本書は「昭和辞書史の謎」ともいえる二人の人間関係に深く立ち入りながら、両者の辞書に賭けた人生を精彩に描き出す。NHKのテレビ番組の企画・制作過程での取材内容に、新たに証言や検証を加えて執筆したもので、著者の佐々木健一はディレクターとして活躍してきた人である。

 三国は現代語を多数収録していることで知られ、語釈は簡潔平明を旨とする。対する新明解は主観的な語釈で人気を集める辞書。二つの辞書にあらわれる「個性」の違いは、まさに見坊豪紀と山田忠雄という二人の編纂者の人物像の違いから醸し出されるものだった。
 ケンボー先生は用例採集に精力を傾け、生涯に一四五万例の用例を採集した。そのカードは今も三省堂の倉庫に保管されている。一方の山田先生は『新解さんの謎』という単行本が登場したほどに、独自の編集方針で辞書の世界に新風をもたらした。

 関係者の証言を組み合わせつつ辞書の語釈を読み込んだうえでなされた記述は、テレビ番組の副産物という以上の出来映えといえるだろう。一見味気ない解説がほどこされているだけと思われている辞書のことばの中に、編纂者の人生観や世界観がこめられている──。周到な資料の渉猟と調査によってあぶり出された物語はドラマティックとさえいいたいほどだ。

 ただし、二人の関係にまつわる機微に触れた物語は随所に生臭さも漂わせ、本書の面白さの少なからぬ部分は楽屋話的なエピソードに負っている、といえば失礼になるだろうか。またプロの書き手ではないので文章の運びが野暮ったいのはしかたないとしても、重複する記述が多く冗漫な印象が拭えない点は編集サイドからの助言があっても良かったのではないかと思う。
[PR]
by syunpo | 2014-08-16 08:38 | 日本語学・辞書学 | Trackback | Comments(0)

有限性による有限性についての哲学!?〜『別のしかたで』

●千葉雅也著『別のしかたで ツイッター哲学』/河出書房新社/2014年7月発行

b0072887_1852855.jpg『動きすぎてはいけない』で颯爽とデビューした千葉雅也の二冊目が早くも世に出た。ツイッターでのつぶやきを並べかえて本にしたもの。ここにピックアップされた呟きの内容は、風物や食べ物の感想、アート、思考法・勉強法・哲学研究のアイデアなど種々雑多である。時系列でなく「新しいリズム」で提示されているところがミソらしい。

 なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。(p200)

 一四〇字以内に収めなければならないツイッターの非意味的な有限性を逆手にとって編まれた本書の戦略性を哲学的語彙でするプレゼンテーションにはそれなりの芸を感じるけれど、このスカスカした読後感をどう表現すればいいのだろう。今風の〈哲学書〉が登場したことを言祝ぐべきか皮肉るべきなのか。

 表象文化論はいつでも異種格闘技なので、「正しい」論述のスタイル、解釈法などは決まっていない。議論の形式それ自体を個々人が発明する。哲学も本来そういうものだと思うけれど、既成形式の踏襲に陥っている場合も多いですね。僕も、新しい仕事のたびに形式の発明を試そうとしています。(p30)
[PR]
by syunpo | 2014-08-14 19:00 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

文学は国境を越える〜『日本語ぽこりぽこり』

●アーサー・ビナード著『日本語ぽこりぽこり』/小学館/2005年3月発行

b0072887_20153553.jpg 日本語で創作している西洋出身の書き手といえば私はリービ英雄くらいしか読んだことがなかったのだが、アーサー・ビナードは彼とはまた違った味わいのある日本語を書く。本書はウェブサイトに発表してきた文章を中心にまとめたエッセイ集。カジュアルな文体で日本語の成句や諺を意識した語彙を鏤めた書きぶりはスパイスも効いていて独特の世界をつくりあげている。

 内容的にはやはり言葉にまつわる随想文に著者の才気が遺憾なく発揮されているように思う。たとえば芭蕉の有名な句「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の英訳をめぐる一文。「閑かさ」の訳語として最終的には“stillness”を採用しているのだが、他の候補として“peaceful”をも挙げるあたりのセンスはなかなかのもの。ほかにも翻訳に関する短文がいくつか収められているのだが、英語の詩を和訳した高橋源一郎や福田隆太郎の誤訳が槍玉に挙げられていて、あまりに見事な誤訳だけにちょいと気の毒な感じがした。
 亡き実父の思い出とからめて「火鉢=hibachi」と「七輪=shichirin」について語った文章は良い味、テンガロンハットや米国の鉄道の軌間をめぐる豆知識の披瀝ぶりも楽しい。

 またベネトンが発行している雑誌《COLORS》に寄稿するため日本の「大人のおもちゃ」を蒐集する話や、三遊亭円窓師のもとで「一日前座」を務めた体験談などもおもしろく読ませる。もちろんその種のユルユルした話題だけで通しているわけではない。〈九・一一〉後の英米国の対テロ政策への辛辣な批判などには著者の世界観が明快に表現されている。
 なお書名にある「ぽこりぽこり」は漱石の俳句「吹井戸やぽこりぽこりと真桑瓜」から。著者自身も「ペダル」の俳号を持ち、句会にも参加しているらしい。

 自転車の籠に缶と瓶万愚節
[PR]
by syunpo | 2014-08-07 20:21 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)

悪の陳腐さを問う強靭な思考〜『ハンナ・アーレント』

●矢野久美子著『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』/中央公論新社/2014年3月発行

b0072887_2259114.jpg 第二次世界大戦中にドイツから米国に亡命して活躍した哲学者ハンナ・アーレント。マルガレーテ・フォン・トロッタ監督による映画『ハンナ・アーレント』のヒットで彼女の著作に対する関心があらためて高まっているらしい。その意味でも時宜にかなった本といえるかもしれない。
 
 ハンナ・アーレントはドイツのユダヤ人家庭に生まれ、はやくから文学や哲学に親しみ、大学では哲学を専攻して、マルティン・ハイデガーとカール・ヤスパースに師事した。ナチ政権下で、一時パリの収容所に送られるも脱出して米国へ亡命、哲学者としての地位をかためていく。その後、アイヒマン裁判を傍聴して書いた『イェルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』が激しい非難にさらされ、多くのユダヤ人の友人たちが彼女をもとを去っていったことは映画でも描かれるところとなった。ナチとユダヤ人組織の協力関係に言及し、アイヒマンを怪物的な悪の権化としてでなく思考を欠如させただけの凡庸な人間と考えた彼女は、その後も自説を曲げることはなかった。
 論争以後の生活を含めて、本書はアーレントの生涯や思索の足跡を抜かりなく簡潔にまとめた評伝といえよう。アーレントの著作内容を要約する文章にこなれない箇所が散見されるものの、アーレント入門としても最適の一冊。
[PR]
by syunpo | 2014-08-04 23:25 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

驚異と謎の地をめぐって〜『モロッコ流謫』

●四方田犬彦著『モロッコ流謫』/新潮社/2000年3月発行

b0072887_18383029.jpg イタリアは生きる悦びであったが、モロッコは驚異と謎そのものだ。世界各地を旅してきた四方田犬彦はそう書きつける。アンリ・マチス、フランシス・ベーコン、トルーマン・カポーティ、サミュエル・ベケット、ロラン・バルト……あまたのアーティストや文学者たちを魅了してきたトポス=モロッコをめぐって書かれた、これはブリリアントな紀行エッセイであり、優れた文芸批評である。

 地中海と大西洋が交わる要所にかつてコスモピリタンの港町として栄えたタンジェ。内陸の旧都フェズ。上アトラス山脈の麓、砂漠のただなかにつくられた都市・マラケッシュ。アトラス山脈を越えてオアシス地帯に建設されたワルザザート。再びタンジェ。そしてララーシュ……。四方田はこの土地と関わりをもった文学者たちの声に導かれるようにしてモロッコを旅し、モロッコ体験に示唆を得ながらそれらの文学テクストを読もうとする。

 とりわけ本書でもっとも中心となる人物は、ポウル・ボウルズである。
 ボウルズは《シェリタリング・スカイ》《蜘蛛の家》などの作品で知られる小説家で、コープランドに師事した音楽家でもあった。ニューヨークに生まれながら、タンジェの「魔法の魅力」に取りつかれ、妻ジェインとともにそこに長く暮らした異能の人物だ。四方田は《蜘蛛の家》などを訳出し、日本における彼の認知度を高めるのに大いに貢献した。

 四方田はタンジェに住むボウルズの家を何度も訪ねては会話を重ねたらしい。ちなみに四方田にボウルズの翻訳を強く勧め、ボウルズの連絡先を教えたのはジム・ジャームッシュ。
 四方田はいう。

 ボウルズの作品は徹底した達観という姿勢を貫くことで、凡百の『第三世界』旅行記とは比較にならない地点に到達している。マグレブ世界を描こうとする作家たちは、ともすれば安手のオリエンタリズムの罠に陥ってしまい、自分の語りが拠って立つ場所に無自覚のままに終わる。ボウルズはいかなる場合にも自分に超越的な全能の視座を許そうとはしない。だが彼は例外なく、自分を世界の外側に置いて語ろうとしている。(p37)

 ボウルズ自身が四方田に語りかけた言葉もまた実に興味深い。「モロッコはいうなればイスラムの植民地だよ。アラブ人がベルベル人を征服して、彼らをまるでアメリカ・インディアンのように扱っているわけだ」。

 ボウルズと親交をもち、やがて辛辣にボウルズを批判するようになったベルベル人作家のモハメッド・ショックリーとの対話もおもしろい。彼はヨーロッパから到来する作家たちがモロッコにさほどの関心を持たず、自分たちのユートピア的妄想を投影しているにすぎないことを批判する。
 さらには後半部、ジャン・ジュネの足跡をたどるようにして綴られる文章も興趣に富んでいる。人生の終盤をパレスチナの解放闘争の支援に捧げたこの作家は、ララーシュのスペイン墓地に眠っているのだという。最晩年のジュネは実存主義の英雄でもなければ天才文学者という形容からもほど遠い存在となっていた。「わたしが心に抱く最後の彼のあり方とは、モロッコの民衆の間で代々伝えられてきたマリブー、つまり聖人のそれである」──四方田はジュネの仕事を振り返った後にそう述べる。

 ボウルズ的なるものによって開始されたわたしのモロッコへの関心は、十数年を経るうちに、しだいにゆっくりとではあるが、ジュネ的なるものへと移行しつつある。(p205)

 そうした旅の途上で、時にアナーキスト石川三四郎に思いを馳せ、三島由紀夫の実弟でモロッコ大使も務めた外交官・平岡千之を回想したりもする。もちろん映画研究者として、《カサブランカ》《ヘカテ》はもちろん、愛川欽也が自作自演した《さよならモロッコ》といったフィルムへの目配りも忘れない。

 ボウルズもジュネも石川三四郎も、それぞれの帰属する都市や国家のなかで、人生をめぐるある諦念に達したり、逃れ難疲弊を味わったのちにモロッコに辿りつき、そこでわが身の解放の瞬間が来ることを待ち続けた。そしてまた一方で彼ら流謫者たちを待ち構え、歓待と敵意のもとに迎えたモロッコの人々が存在している。

 流謫者の足跡を辿るだけでなく、またモロッコの人々に安易に寄り添おうとするわけでもない。四方田犬彦の視座はある意味で微妙なバランスのもとにある。モロッコをめぐる「驚異と謎」が明快に解析されたわけでも、もちろんない。「謎に立ち向かうもっとも礼節に満ちた態度とは、それを永遠に謎に留めておくことかもしれない」というハイデガーの言辞を引用してさえいるのだから。いずれにせよ、これは稀代の旅人によるモロッコの壮大なタペストリーのような本とでもいえばよいか。
 なお本書は二〇一四年七月に筑摩書房によって文庫化された。
[PR]
by syunpo | 2014-08-02 18:44 | 文学(小説・随筆) | Trackback | Comments(0)