人気ブログランキング |

<   2015年 06月 ( 8 )   > この月の画像一覧

人間からの離脱と帰還〜『理不尽な進化』

●吉川浩満著『理不尽な進化 遺伝子の運のあいだ』/朝日出版社/2014年10月発行

b0072887_2032727.jpg ダーウィンが提唱した進化論(ダーウィニズム)は、適者生存の教えとして知られている。しかし「これまでに地球上に出現した生物種のうち、じつに九九・九パーセント以上はすでに絶滅してしまっている」という。ならば現在残っている種は、厳しい生存競争を勝ち抜いてきたスーパーエリートたちなのだろうか。そうではない。「千にひとつの僥倖に恵まれた」だけである。つまり進化の根底には理不尽な偶発性が横たわっているのだ。著者はいう。

 栄光の軌跡はたしかにいいものだけれども、生存に失敗することが生物としてむしろ標準的なありかたなのだとしたら、そうした失敗からこそ多くを学ぶことができるはずなのだ。(p27)

 かくして本書では「理不尽な進化」という概念を理解するために、進化論の俗流解釈や誤解のあり方を概観したのち、それらとも連関する専門家による激しい論争のプロセスをあとづけていく。

 進化論が社会に広く行き渡ったとき、それは社会ダーウィニズムとして強い影響力をもつことになった。優勝劣敗、弱肉強食などダーウィン以前の発展的進化論にまつわる言葉がダーウィニズムの名のもとに様々な局面で転用されていったのである。いわく「ダメなものは淘汰される」「電子出版の時代における出版社の生存戦略はなにか」などなど。そうした物言いはもっぱら資本主義における効率主義や競争原理の正当化に一役買ってきた。そのような進化論理解は素人の勝手な解釈とも言い切れず、自然淘汰説のトートロジカルな性質によって導かれるものである。

 一般には、「ダーウィン革命」によって近代人の思想にダーウィン進化論がインストールされたと考えられているが、実相は異なる。革命の名において人びとの思想に住みついたのは、ダーウィン進化論ではなく、それ以前から醸成されていた近代的進歩史観の進化論版である「発展的進化論」であった。つまりそれは実際には「非ダーウィン革命」であった。(p164〜165)

 専門家の間で戦わされた論争においても、自然淘汰説は問題の焦点となった。本書ではスティーヴン・ジェイ・グールドとリチャード・ドーキンスの論戦にスポットがあてられ、その顛末が詳細に吟味されている。そこに本書のエッセンスが詰まっているといえよう。

「自然の説明」と「歴史の理解」の中間に位置する進化論は、科学的方法としては卓越している一方で、生命史の理不尽さに対するアプローチとしては優れているとはいえない。著者の見立てによれば進化論の適応主義を批判したグールドはその中間で苦しんだ進化論者である。科学的論争においては論破されることは必然だったが、彼の残した敗走の軌跡は今なお無視することができないのではないか。グールドは、まさしく進化の理不尽さに執着しながら「進化論が進化論であるための条件を原理的に確保しようとする姿勢」を維持し続けた科学者だったのだ。

 どうしてグールドが困った立場に陥ったのか。私は次のように考える。それは彼が、進化論(ダーウィニズム)が私たちに呼び覚ます魅惑と混乱の源泉を正しく見定めたからだと。(p273)

 本書がよく出来た進化論入門というレベルを超えて読者に強く訴えかけてくるのは、グールドをとおして進化の理不尽さに思いを致し、そこに進化論の両義的な性質を再確認したことによる。その作業から「自然の説明」と「歴史の理解」という人間の二つの営みの葛藤を浮かび上がらせ、科学では捉えきれない人間存在の理不尽さへの想像力を喚起させるところが本書を滋味豊かなものにしているといえるだろう。ただし著者の幅広い知見をちりばめた饒舌な筆致は好悪を分かつかもしれない。
by syunpo | 2015-06-25 20:41 | 生物学 | Trackback | Comments(0)

個人の道徳には還元できないこと〜『悪の哲学』

●中島隆博著『悪の哲学 中国哲学の想像力』/筑摩書房/2012年5月発行

b0072887_184654.jpg 古代中国は天災と人災にたえず苦しめられた時代である。そのため中国では古代より悪をめぐって様々な知的格闘が演じられてきた。著者によれば「中国哲学が、独自の仕方で悪を思惟してきたこと」は疑えない。社会的な悪を把握しそれを克服するための方途を可能性としてであれ、中国哲学に垣間見る。これが本書のコンセプトである。

 具体的には、孔子、孟子、莊子、荀子などの思想が手際良くまとめられており「悪」をキーワードにした中国思想の入門書的な本といってもいいかもしれない。

 とりわけ性悪説を説いた荀子に関する記述は示唆的だと思う。一般的には性善説を唱えた孟子に対立する思想家として捉えられがちだが、本書によればそうではない。荀子の性悪説は、孟子の問題構成を継承しつつ道家の荘子の批判を乗り越えるという複雑な設定のもとで主張された。すなわち「人間はその自然的なあり方のままでは壊れていく存在であるから、自然を超えた次元を導入して、自然的なあり方を変化させ、それによって悪を抑え」ようとしたのである。

 ただ全体をとおして教科書的な書きぶりで読み味はいささか無味乾燥。中国思想の本を集中的に読んでみたいと感じるまでには至らなかった、というのが正直なところである。
by syunpo | 2015-06-21 18:51 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

固有の召命として〜『日本辺境論』

●内田樹著『日本辺境論』/新潮社/2009年11月発行

b0072887_20294520.jpg 日本の言論界にあっては古くて新しいテーマ、日本論。本書では新奇な態度をハナから棄てて、冒頭で釈明しているように、日本論のステレオタイプをそのまま踏襲している。〈中心/周縁〉というおなじみの図式を導入し、日本に特有の思考スタイルや民族誌的奇習は後者に属することに起因するという見立てである。

 類書と違うのはそうした紋切型を反復するにあたって、材料の切り出し方に芸を感じさせるところか。とくに養老孟司を引きながら、日本語の特性と漫画文化の隆盛を結びつけるくだりには納得させられた。

 内田は日本が辺境であることの功罪を指摘しながら、それを一つの宿命として受け入れ「とことん辺境で行こうではないか」と呼びかける。最終章の日本語論を読むと、そうした提言にも一理あるのではないかと思う。
 さらに次のような「学び」一般に対する内田の認識も奥深い。

「学び」という営みは、それを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まります。(p196)

 昨今の政治家からの人文科学に対する排撃への一つの回答がすでにここに記されているというべきか。六年前の刊行だが、政治家の反知性的な言動が蔓延る時世に、アクチュアリティが一層増している本といえるかもしれない。

 それにしても前口上で「どのような批判にも耳を貸す気がない」などと妙な言明をしているのはいただけない。主張をすれば瑣末的な揚げ足取りを含めて異論反論がくるのはあたりまえ。それにいちいち対応する著者など一人もいないのだから、つまらない予防線を張るのはかえって余計な謗りを招くだけだろう。
by syunpo | 2015-06-17 20:40 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

明快な難解さを求めて〜『文学の淵を渡る』

●大江健三郎、古井由吉著『文学の淵を渡る』/新潮社/2015年4月発行

b0072887_1119520.jpg 一九九〇年代初頭から二〇一五年まで二人が行なった対談が五篇収められている。

「群像」一九九三年一月号初出の〈明快にして難解な言葉〉では、表題どおり文学のもつ「明快な難解さ」が論じられている。おのずと二人の議論もまた「明快な難解さ」の両義性を帯びずにはいない。

〈百年の短篇小説を読む〉は創刊以来「新潮」に掲載された短篇の中から三十五篇を寸評していくという趣向。森鴎外《身上話》から始まって中上健次《重力の都》までを論じる。「百年間の近代文学の歴史は、これらの三十五篇の短篇を読んでみても把握できます」と大江が言うだけあって、私にはこれが一番楽しめた。

〈詩を読む、時を眺める〉は、古井の著作『詩への小路』をもとに、詩の翻訳と小説との関連を語りあうもの。〈言葉の宙に迷い、カオスを渡る〉では、大江の『晩年様式集』をもとに、作家の晩年性(レイトネス)についての議論が深められる。

〈文学の伝承〉では、ギリシャ語・ラテン語の学習や日本の古典などについて対話が交わされていて、今さらながら両者の勉強家ぶりが伝わってきた。古井が最近の日本の文化政策について「効率主義」をになっていることを指摘し「古い文献学的なことを調べる学者が、果たして大学で存在を保てるのか」危惧しているくだりは、現政権の反知性主義的な政策が力を増しているだけに切実にひびく。

 全体をとおしてふたりの文学的知性のみならずヒューモアが良い按配に感じられ、味わい深い対談集になっている。
by syunpo | 2015-06-14 11:25 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

観光テクノロジーを磨こう〜『ニッポン景観論』

●アレックス・カー著『ニッポン景観論』/集英社/2014年9月発行

b0072887_20502574.jpg 小津安二郎を観るにもワビだのサビだのを持ちだして、自分が知っている古典的図式の枠組でのみ日本文化を語り、そこからはみ出すものには無関心を決め込むいう類の親日外国人の文章が私は嫌いだ。本書も古美術品収集が趣味という著者によるニッポン景観論というから、おのがイメージしている古き佳きニッポンの自然環境や文化を護持せよと主張する一本調子の本だったらいやだなぁと読み始めたのだが、予想は良い意味で裏切られた。

 私はむしろ、国家予算をもっと土木に使おう、建築に使おうと言いたいくらいです。ただし、使うなら過去のミステークの撤去に使いましょうよ。アレックス・カーの言い分はそんな風にまとめられる。その主張はオリエンタリズムに染まった日本理解とも排他的なエコロジー思想とも一線を画するものだろう。

 むろん「ミステーク」の指摘に関しては、辛辣な批判の色を帯びている。どこに行っても景観の邪魔をする電線・電柱の醜悪さ。無粋な広告や案内表示の氾濫。ゾーニングを考えない都市計画。そのような具体的な現象を見つけては逐一酷評していく。批判の矛先は行政のみならずそこに群がる専門家やそれを許容してきた市民にも向けられる。

 たとえば、北九州市の門司港レトロ地区。周囲の環境にマッチしたアルド・ロッシ設計の門司港ホテルを賞賛しつつ、周辺からは完全に浮き上がっている門司港レトロハイマートを設計した黒川紀章の仕事を批判する。「日本の景観をダメにした責任の一端は、『先生』と言われている建築家にもあると思います」。
 
 また「大勢の観光客がお金を落としていくように、できるだけ大きな駐車場を作ろう」という安易な発想にも疑義を呈する。大型駐車場を整備した白川郷の例が一つの教訓だ。大型観光バスで訪れる客の平均滞在時間は四〇分。大きな経済価値や文化交流は望めない。洗練された観光テクノロジーこそが必要と著者はいう。
 大型観光バスで訪れる観光客を地元の経済効果に結び付けたいのであれば「どのくらいの規模の駐車場をどこに作ればよいのか。景観を損なわず、観光客の動線を確保するには、どうすべきか。そのような検討をおろそかにしてはいけません」。

 著者のニッポンの景観への失望はともすれば強烈なアイロニーとして表現される。コンクリートが打たれた山間部の写真に「せせらぎや、コンクリートに染み入る蝉の声(『奥の舗装道』より)」とキャプションをつけるパロディ精神。「奇抜なデザインで歴史や自然を圧倒している」ような建築物に「アレックス景観賞」を進呈する洒落っ気。そうした筆致に嫌悪感をおぼえる読者もいるかもしれないが、それもこれもニッポンへの愛情の裏返しとみるべきではないか。

 さらに本書の説得力を高めているのは批判的言説にとどまらず、みずから公共事業に関与して実績をあげてきたことを示している点である。徳島県祖谷、長崎県小値賀町、奈良県十津川村などで古民家再生をベースにした滞在型観光事業を手がけ稼働率をアップさせたらしい。

 本書を読んでいる最中にも、世界遺産に指定されている京都の某有名神社が平安京造営以前からあるという自生林の一部を伐採してマンションを建てるという計画が新聞で報じられた。「アレックス景観賞」の候補作品がまた一つ増えるのか。ニッポンの景観をめぐる葛藤はなおもつづく。
by syunpo | 2015-06-10 20:55 | 環境問題 | Trackback | Comments(0)

われわれは生き延びる〜『民族でも国家でもなく』

●李鳳宇、四方田犬彦著『民族でもなく国家でもなく 北朝鮮・ヘイトスピーチ・映画』/平凡社/2015年4月発行

b0072887_20245646.jpg この二人の対談集としては『先に抜け、撃つのは俺だ』『パッチギ! 対談篇』に続く第三弾ということになる。前回の対談時に比べ、日韓関係は悪化した。しかも四方田は大病を患い、李は自身が築いた会社シネカノンを去るという経験をした後ということもあって楽観的な雰囲気は薄れ「社会の現状に対する不安や怒りが正直な形で現れ」る対話となった。

 話題は多岐にわたる。在日コリアンの文学をめぐる状況。ヘイトスピーチ。台湾、韓国の学生運動。神事としての相撲。外国人によるヤクザ研究……。
 四方田が酒井法子を弁護するかと思えば、李はセルジオ越後の活動を賞賛する。四方田と高円宮との興味深い交友関係が語られたあとには、李は修学旅行で平壌の外国人病院に入院してブルキナファソの陸軍大尉と同室した体験談を披瀝する。

 あれやこれやのトークが展開されたのち、本業の映画談義は最終盤にあらわれる。李が〈エンターテインメント映画/芸術映画〉〈フィルム/ビデオ〉という毎度おなじみの二分法を維持しながら語るくだりに対しては、四方田がもう少し複層的な認識を示して議論が凡庸に流れるのを修正しているのはさすがというべきか。また李が手塚治虫全作品の映画化の企てを明らかにすると、四方田も強い関心を寄せてエールをおくっているのが印象深い。

 死んでしまえばすべては灰と燃殻となり、傷は残らない。傷跡が残っているということは、生き延びたという意味だ。それは傷を克服し、傷に打ち勝ったという意味だ。
 ……竹内好の言葉を引きながら、四方田は李と長い対話をしようと思ったと冒頭で述べている。そう、二人にはいつまでも生き延びて、私達に熱い映像と言葉をおくり続けて欲しいと願わずにはいられない。
by syunpo | 2015-06-08 20:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

物性、中間子、分光学〜『日本語の科学が世界を変える』

●松尾義之著『日本語の科学が世界を変える』/筑摩書房/2015年1月発行

b0072887_8442486.jpg 日本人は日本語で科学をしている。私たちはそれを当然のように思っているけれど、欧米の言語とまったく異質な母国語を使って科学をしている国は世界的にみれば希有なことらしい。フィリピンやインドネシアなど東南アジアの国々では、最初から英語で科学教育を進めているところが多い。

 日本語で科学ができるという当たり前でない現実に深く感謝すること。著者は冒頭でそのように記している。なるほど西洋から入ってきた学術用語を日本語に翻訳していく明治期エリートたちの苦心談は興味深いし、現代日本人が先達の敷いてくれたレールのうえを歩んでいることを知るのは有意義なことだろう。そこまでは私を含めて多くの読者が納得するに違いない。

 本書ではそこからさらに「日本語主導で独自の科学をやってきたからこそ、日本の科学や技術はここまで進んだのではないか」という仮説の提起に向かう。現実に日本人は西洋科学の概念を日本語に移しかえながら科学を営み、そこそこの業績を重ねてきたわけだから、そのような主張が出てきても不思議はないかもしれない。

 しかし結論的にいえば、本書が主張する「仮説」には首肯しがたい点が多々ある。著者のもちだす状況証拠はあまりにも主観的かつ粗雑といわざるをえない。「日本語で研究することのメリット」が曖昧模糊とした記述であるうえに、「日本で研究することのメリット」と話が混淆してしまっていることも本書の主張をいっそう漠然とした印象にしている。

 後者の指摘にしたところで、メインテーマからはズレている点を脇に置いたとしても、さほどの切れ味は感じられなかった。世界で認められた日本の科学者をピックアップして、その研究内容と日本の文化的背景とを強引に結びつけるような怪しげな記述が多い。たとえば湯川秀樹博士のパイ中間子理論を東洋の中道・中庸思想と関連づけるのはいかにもこじつけという感じがする。また山中伸弥博士のiPS細胞の研究などの例を引いて、日本には「聖書の縛りがなく、生命体に素直に向かい合える」という見解も、進化論がヨーロッパに発祥したことを想起するだけで説得力のないことがわかるだろう。
 要するにその多くが、東洋思想や日本文化論のステレオタイプを安直に科学研究の成果に結びつけようとするものなのだ。そのような著者がしきりに科学者の「パラダイム転換」を主張しているのは悪い冗談というほかない。

 ついでにいえば、ノーベル賞に対する態度が一貫性を欠いているのにも引っかかった。「人間のやることなので政治的だったり間違いもあるということだ」と腐しておきながら、日本人科学者を賞賛する場合には「……二一世紀に入ってからの受賞数を国別比較したら、日本はトップクラスにあるのではないか」などとノーベル賞を引き合いに出してくるのは噴飯物。

「日本語主導で独自の科学をやってきたからこそ、日本の科学や技術はここまで進んだ」という仮説は、そもそもその命題の内実が曖昧であるという点も含めて、仮説というほどの内容を伴ったものではない。著者自身の雑感というレベルの話ではないかと思う。本書に対しては、科学ジャーナリストによる素朴なお国自慢のエッセイ集と割り切って気軽に付き合った方が良いだろう。

 念のため付記しておけば、私は日本人科学者の世界的な活躍に関しては誇るべきことだと思っているし、彼らの実績にケチをつけるつもりはもちろんない。私が違和感を表明しているのは、あくまで本書の内容に対してである。
by syunpo | 2015-06-06 08:46 | 科学全般 | Trackback | Comments(0)

チンパンジーの研究から考える人間らしさ〜『想像するちから』

●松沢哲郎著『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』/岩波書店/2011年2月発行

b0072887_2162523.jpg 本書の著者である松沢哲郎は〈アイ・プロジェクト〉とよばれるチンパンジーの心の研究で知られる学者。アフリカの野生チンパンジーの生態調査も行なっていて、チンパンジーの研究をとおして人間の心や行動の進化的起源を探究している。

 人間の体が進化の産物であるのと同様に、その心も進化の産物である。いったんそう理解してしまえば、教育も、親子関係も、社会も、みな進化の産物であることがわかる。チンパンジーという、人間にもっとも近い進化の隣人のことを深く知ることで、人間の心のどういう部分が特別なのかが照らしだされ、教育や親子関係や社会の進化的な起源が見えてくる。それはとりもなおさず、「人間とは何か」という問いへの一つの解答だろう。(p2〜3)

 そのようにして著者たちが切り開いたのは比較認知科学とよばれる新しい研究領域である。「毎日、新しい何かをチンパンジーが教えてくれる」という研究によって明らかになってきたチンパンジーの特徴はじつに興味深いものだ。互恵的な役割分担はしない。親が子どもに何かを教えることはせず、子どもは大人の真似をすることで学習する……。
 人間にもっとも近いチンパンジーとの相違点から著者は人間の特徴を以下のように導き出す。

 人間とは何か。その答えは「共育」、共に育てるということだ。共育こそが人間の子育てだし、共育こそが人間の親子関係である。(p42)

 人間は、進んで他者に物を与える。お互いに物を与え合う。さらに、自らの命を差し出してまで、他者に尽くす。利他性の先にある、互恵性、さらには、自己犠牲。これは、人間の人間らしい知性のあり方だといえる。(p78〜79)

 今ここの世界を生きているから、チンパンジーは絶望しない。「自分はどうなってしまうんだろう」とは考えない。たぶん、明日のことさえ思い煩ってはいないようだ。
 それに対して人間が容易に絶望してしまう。でも、絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。どんな過酷な状況のなかでも、希望をもてる。
 人間とは何か。それは想像するちから。想像するちからを駆使して、希望をもてるのが人間だと思う。(p182)


 科学者としての合理的思考を突きつめつつ、チンパンジーに対する愛情がそこここに感じられもする文章で、楽しみながら読み進むことができた。
 人間を特徴づけるものとしての〈想像するちから〉。文学者なども〈想像力〉という言葉をよく使うけれど、〈想像するちから〉とあらたまって科学者から発せられると、また違った意味合い・重みが感じられる。
by syunpo | 2015-06-04 21:16 | 生物学 | Trackback | Comments(0)