人気ブログランキング |

<   2015年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧

現在に甦るエクリチュール〜『ロラン・バルト』

●石川美子著『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』/中央公論新社/2015年9月発行

b0072887_19444468.jpg ロラン・バルト生誕百年にちなんで刊行された評伝。著者の石川美子はフランス文学専攻の研究者で、日本版『ロラン・バルト著作集』全十巻を監修した人である。

 さすがに、華麗な批評活動をおこなったバルトの全体像がコンパクトにまとめられている。文学の道を志すに至ったおいたち。記号学の冒険を開始した若かりし頃。日本に魅せられてロマネスクの方へと向かう六〇年代後半。テクストの快楽をうたった七〇年代。新たな生を模索しつつ苦闘した晩年。それぞれのステージで異なった展開をみせるバルトの相貌がいきいきと素描される。

 それにしても日本での体験がバルトにとってとても重要な出来事であったことに、あらためて驚かされる。日本に関する著作としては『記号の国』が名高いが、それはバルト自身にとっても大きな転換点となった仕事であったらしい。

 たとえばバルトの大きな特徴である「断章」は、俳句との出会いによって生みだされたものである。もともとバルトは短い形式を好んでいたが、それが自分のエクリチュールであるとはっきり意識していたわけではなかった。だが俳句を知ることによって、短い形式を意識し「断章(フラグマン)」という言葉を使うようになる。「日本が新しいエクリチュールを実践する勇気をバルトにあたえた」。

 またバルトは母を深く愛していたことで知られるが、本書でも母の死と彼の仕事のモチーフとの関連には多くの紙幅が費やされている。バルトは喪のかなしみを作品に変えようと懸命に模索していた。写真について論じた『明るい部屋』はそのなかで書かれたテクストであった。さらにそこから一歩進んで小説『新たな生』を生み出そうとしたのである。

 新書にふさわしく平易な語り口で、時に難解ともいわれるこの批評家に向かう意欲を喚起してくれるという意味で格好のバルト入門書といえるかもしれない。
by syunpo | 2015-12-25 19:55 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

死者たちの無言の願い〜『原爆供養塔』

●堀川惠子著『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』/文藝春秋/2015年5月発行

b0072887_1821629.jpg ……今じゃ、みんな広島の中心は原爆慰霊碑じゃと思うとる。そりや無いよりはましじゃけど、本当は遺骨がある場所が広島の中心よね。みんなあそこを平和公園というけれど、本当は平和な場所なんかじゃないんよ。静かでのどかな場所に見えるけど、供養塔の地下室は、あの日のまんま。安らかに眠れというけれど、安らかになんか眠りようがないんよ。(p175〜176)

 広島平和公園の一角につくられた土饅頭。それが原爆供養塔である。その地下には原爆で亡くなった人の引き取り手のない遺骨が今もなお数多く眠っている。その供養塔に長年にわたって日参し、墓守りをしながら修学旅行生たちに話をする女性がいた。本書の主人公ともいえる佐伯敏子さん。冒頭に引用したのは彼女が著者に語った言葉である。

 供養塔が平和公園の一角に設置されることじたい円滑に進められたわけではなかった。広島市と国とのあいだに補助金にまつわる法令上の問題など障壁が立ちはだかった。紆余曲折の末、供養塔は現在地に設置されたが、その建設は「歴史の表舞台には決して現れることのない人々の想いに支えられ」たものだったのである。

 供養塔に納められた遺骨には、身元のわかるものにはわずかな記録が残された。それは江田島や周辺市町村から駆け付けた少年特攻兵・船舶兵たちによる生命と引き換え(入市被爆)の作業によるものだ。著者は当時の様子も関係者に取材して詳細な記述につとめている。

 さらに、納骨名簿を頼りに著者は東京へ沖縄へ遺族を訪ねていく。こうして佐伯さんの物語を中心に、入念なリサーチと取材によって供養塔にまつわる様々な人間模様が浮かびあがる。
 軍都、広島で現金収入を得るべく仕事をしていた多くの在日コリアンたち。原爆投下の日はたまたま建物疎開の作業を休んでいため一命をとりとめた女子学生……。

 そもそも人を供養するとはどういうことなのだろうか? 生き残った人たちはいかにして死者とともに生きていくことができるのだろうか? 歴史を知り学ぶとはどういうことなのか?……本書は多くの問いをあらためて読者に投げかけてくるようだ。

 言葉を持たぬ死者たちに寄り添い考えること。言うは易く行なうは難しかもしれない。それでも本書の著者・堀川惠子はそれを誠実に実践しようとした。私たちはその実践を真摯に受け止めなければならない。
by syunpo | 2015-12-18 18:26 | ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

大人の倫理こそが問われている〜『少年たちはなぜ人を殺すのか』

●宮台真司、香山リカ著『少年たちはなぜ人を殺すのか』/筑摩書房/2009年7月発行

b0072887_20273022.jpg 少年犯罪が社会問題として論じられることが増えた一九九〇年代に、宮台真司と香山リカが交わした対論の記録。後半は映画《ユリイカ》の青山真治監督を交えて行なったトークセッションを聴衆からの質問に応答する部分も含めて収録している。原書は二〇〇一年に創出版より刊行され、二〇〇九年にちくま文庫に入った。

 宮台によれば、昨今社会問題化している特異な少年犯罪は「脱社会的存在」による犯罪とみなしうる。これは従来の不良である「反社会的存在」とはまったくタイプが異なる。「反〜」の方は「学校など社会制度が改善されればガスが抜ける程度」のものだが、「脱〜」の方は精神病理学的には正常で、今までのような安易なやり方が通用しない。
「脱社会的存在」による殺人事件を考える場合、共通しているのは「人を殺すということの敷居」が下がっていることだ。その背景を考えたうえで対処することが必要だろう。

 そこで宮台は少年犯罪をめぐって生まれている二つの問題を明確に区別しながら指摘している。「ある種の少年犯罪を生じさせないためにどんな処方箋が必要なのかという問題」と「少年犯罪をめぐる科学的に誤った情緒的な世論の噴き上がりやそれを利用した政治的な動きにどう対処するべきかという問題」である。

 後者に関して問題になるのは、メディアの紋切型報道や政府によるメディア規制、少年法厳罰化の動きである。メディアや識者はすぐに「病名探索」と「動機探索」を試みるが、それは「端的に無意味」であるのみならず、全ての問題を隠蔽してしまう。処方箋にむすびつくのは「人を殺すことの敷居が何ゆえにかくも低くなったのかについての、学問的な考察だけだ」と宮台は断じる。

 当然ながら厳罰化も本書で話題になっているような犯罪事例の減少には役立たない。犯罪統計上は、重罰化によって性犯罪と軽犯罪は抑止できるが、殺人には抑止効果のないことが明らかになっているから。
 また重罰化によって被害者の感情的回復をはかるという考えも宮台は否定する。被害者と犯罪者との間にコミュニケーションのチャンスを設けることで被害者の感情的回復を図れるように制度設計するのが世界標準であって「重罰化でそれを図ろうとするのは野蛮そのもの」という。

 社会学者たる宮台の主張は、時に精神医学の知見を軽視する。香山はここでの自分の役割を自覚しているのか、発言は宮台の見解を引き出す問題提起的なものが多いが、精神医学の立場から宮台の主張を補強するような対応もみられる。また、メディア批判が強まっている割にはメディアに対する漠然としたリアル感が無批判的に醸成されているという香山のメディア論などけっこう的を射ているように思われる。

 議論の展開にあたっては、青山真治の《ユリイカ》が参照点としてしばしば言及されているのがおもしろい。後半、青山本人が参加して議論に厚みを加えている。対談(鼎談)集としては中身の濃い本ではないかと思う。
by syunpo | 2015-12-15 20:30 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

目に見えない世界を感じる〜『続妖怪画談』

●水木しげる著『カラー版 続妖怪画談』/岩波書店/1993年6月発行

b0072887_1015442.jpg『妖怪画談』の好評を得て、その翌年に刊行した続編。七つの章から成る。記紀神話や仏典をもとにした《あの世めぐり》。神さまみたいな妖怪を集めた《神さまに近い方がた》。各地に様々な伝承が残っている《河童たち》。多様性に満ちた妖怪たちを描く《妖怪紳士録》《中国の妖怪たち》。付喪神やそれに類する《憑きもの》。水木の代表作を解説した《鬼太郎血戦録》。

《あの世めぐり》では〈常世の国〉や〈黄泉の国〉〈高天原〉のようなスタンダードな世界だけでなく〈アイヌのあの世〉や〈朝鮮のあの世〉などにも目配りしているところが素晴らしい。
《神さまに近い方がた》としては〈ヤマドッサン〉〈風の三郎さま〉〈箒神〉などが登場するほか〈疫病神〉の五人組は色鮮やかに描かれていて愉しい。

《河童たち》の伝承も実にさまざま。二、三歳くらいの子どもの姿をした〈せこ〉、奄美大島のガジュマルの林に棲んでいる〈けんもん〉、川べりに二人並んで物語りなどを話しているだけの〈川男〉などなどバリエーションに富んでいる。

 妖怪たちのなかでとくに興味深く感じたのは、人間に悪さをしないものも少なからずいるということだ。水が川下の村にも流れるように水門を勝手にあける〈赤舌〉は農村における和平の調停者のような気もするし、可愛い姿で登場する〈倉ぼっこ〉は倉を守ってくれる存在。アイヌ語で「ふきの下に住む人」という意味の〈コロボックル〉も気立てが良く、人に対して何のいたずらもしない。

《憑きもの》の世界もおもしろい。鉦から手足が生えた〈鉦五郎〉の項目では大阪の淀屋辰五郎にまつわる伝説が紹介されている。〈化け草履〉には「履物を粗末にするな」という警句がこめられているのだろう。

「“あの世”のことでも明るい気持ちで語れる時代がくれば面白いと思っている」と水木はあとがき風の文章のなかで述べている。なるほど本シリーズではそのような思いがみごとに具現化されているように思う。
by syunpo | 2015-12-13 10:18 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

霊々(かみがみ)の世界を訪ねて〜『妖怪画談』

●水木しげる著『カラー版 妖怪画談』/岩波書店/1992年7月発行

b0072887_1934622.jpg 水木しげるは岩波新書から『画談』シリーズを何冊か刊行しており、本書はその第一弾にあたる。古今の妖怪や霊的な存在をヒューモアをまじえて精緻なタッチで描いてロングセラーに仕立てた仕事ぶりはまさに妖怪博士の名にふさわしい。
 フットワークも軽やかに風変わりな神社仏閣を訪ねた《奇妙なものみてある記》、各地に伝わる妖怪を集めた《出会った妖怪たち》《妖怪の有名人たち》、それに《幽霊・付喪神のたぐい》の四章から成る。

《奇妙なものみてある記》は本書の導入部として絶妙の空気感を醸し出している。会津若松のお寺にある〈だきつきばしら〉。男性の一物が祭られている〈田県神社〉。金運にご利益のある〈銭洗い弁天〉。なんでも半人前しかできないカミサマ〈はんぴどん〉はそのすがたかたちをあらわさず、石仏とその傍らで談笑するお年寄りたちをどこからか見守っている。とにもかくにも世の中にはいろいろなカミサマがいるらしい。

 妖怪たちの存在も当然ながら種々雑多。風呂場の垢を舐める〈あかなめ〉。蚊帳を切ったりする〈網切〉。生け垣をゆする〈クネユスリ〉。白い素麺のようなものが舟のまわりをぐるぐるまわる〈しらみゆうれん〉。

 有名な妖怪たちも水木の手にかかるとオドロオドロしさは薄められる。〈魍魎〉は当今のゆるキャラみたいに可愛らしいし、〈座敷坊主〉〈座敷童子〉も愛嬌たっぷり。柿の実をとらずにそのままにしておくと〈たんころりん〉のいう入道に化けるらしい。風もないのに紙がひとりでに舞い飛ぶのは〈紙舞〉という妖怪の仕業。煙の精霊は〈煙羅煙羅〉。沖縄の木の精霊〈キジムナー〉。雨戸をあけると巨大な顔が現れる〈大かむろ〉。昭和五十四年に流行った〈口裂け女〉もはれて妖怪の有名人の列に加えられている。

 付喪神とは長い年月を経てモノや道具に神や精霊が宿ったもののことをいう。百年を経ると付喪神になるといわれており、九十九年で捨てるのが良いとされる。しかし捨てられた方はたまらないので「九十九年で捨てると逆に悪く化けるといわれる」。蓑が化けた〈妖怪バンドリ〉や釜が鳴くという〈鳴釜〉、寝ているあいだに人を窒息させる〈ぼろ布団〉などの例が示されている。

 参考文献には『大語園』全十巻、『日本民俗文化資料集成』全十二巻、『綜合日本民俗語彙』全五巻、『今昔物語集』『日本霊異記』『和漢三才図会』などが挙げられている。本書の面白味は何よりも漫画家の画才に依っていることはいうまでもないが、文献の幅広い渉猟に支えられている点も見逃せない。
by syunpo | 2015-12-11 19:07 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

〈活私開公〉でいこう〜『社会とどうかかわるか』

●山脇直司著『社会とどうかかわるか──公共哲学からのヒント』/岩波書店/2008年11月発行

b0072887_2002765.jpg 岩波ジュニア新書のなかの一冊。同じ著者がちくま新書から出した『公共哲学とは何か』が一般向けの入門書とするなら、これは若年層に向けて書かれた入門書ということになるだろう。

 本書のキーワードは〈活私開公〉。韓国の哲学者・金泰昌の造語である。その概念の説明にあたって山脇は〈滅私奉公〉のスローガンが隆盛した時代を振り返り、さらに〈滅公奉私〉の風潮が広がった戦後の現象について批判的に吟味する。ただ導入部ともいえる前半の二章は常識的で平板な記述に終始していて、やや退屈だった。

〈活私開公〉型のコミュニケーションといってもあらためて斬新なスタイルを導入しようというわけではない。当然、古今東西の思想や哲学がヒントになる。アダム・スミスの『道徳感情論』、『論語』における「和して同ぜず」という箴言、民主主義を多数決でなく人びとのライフスタイルとして定義したジョン・デューイらの考え方が参照される。

〈活私開公〉を旨とする公共世界のなかの重要な価値とは何だろうか。本書では基本的人権、公共の福祉のほか、平和、健康、自然環境、文化財や伝統などを挙げている。それらは「社会のなかで実現される一人ひとりの『私』の幸福」を実現するために必要なことがらだ。その問題の考察には、アダム・スミスのほかアリストテレス、アマルティア・センの思想が呼び出される。

 ただ全体をとおして理念的・スローガン的な記述が中心となっていて、現実の生活のなかでそれらをいかに具体的に実現していくのか、という点ではいささか物足りない気がした。本書の記述からはたして公共哲学の魅力を充分に感じ取ることができるかどうか、いささか疑問である。
by syunpo | 2015-12-09 20:12 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

ピカドンの遺品たちが語る〜『さがしています』

●アーサー・ビナード、岡倉禎志著『さがしています』/童心社/2012年7月発行

b0072887_1839958.jpg 一九四五年八月六日午前八時十五分、広島に原子爆弾が投下された。理髪店に掛かっていた時計は、その時刻をさしたまま動かなくなった。そこで時は止まってしまったのだ。そしてそのピカドンのあとには、いろいろなものが見当たらなくなったり、すがたを消してしまったりした……。

 本書は広島平和記念資料館が所蔵している遺品たちを語り部とする写真絵本。アーサー・ビナードの文章、岡倉禎志の写真によって構成されている。〈さがしています〉のタイトルが簡潔ゆえに深長な意味合いを投げかけている。

 理髪店の壁に掛かっていた時計はお客さんたちに時を教える役目を果たしていたけれど、ピカドンの朝をさかいに「こんにちは」「こんばんは」と時を告げることはなくなった。〈「おはよう」の/あとの 「こんにちは」を/わたしは さがしています〉。

 お母さんが水を沸かしていたやかんには、あの日、いつもと違うネツがささってきた。〈あんなもので わかしても/お湯は のめっこない……〉。そして〈……ほんものの 火を おれは さがしている〉。

 ここで語り部となっているモノたちには、当然ながら多くの人の思いが深くしみこんでいる。裁縫が得意なセツコさんが自分で紫色に染め上げ自分で縫って仕立てたワンピース。ヒロシマに転校してきたサダコさんがひみつを書き綴っていたノート。トシヒコくんがともだちとともにコロコロころがして遊んでいたビー玉……。

 ピカドンの語り部となった遺品は、すべて広島の石工によって切り出され仕上げられた石の台にのせられて撮影されている。アメリカに生まれ育ったアーサー・ビナードは、語り部たちの息づかいに耳を澄ませながら、持ち主の暮らしに思いをはせる。

 情緒や哀感に訴えるだけでは核兵器の問題は解決できない、と言う人がいるかもしれない。しかし、原爆投下の必要性と正当性を学校で教えられた一人のアメリカ人がこのような絵本をつくりあげることは生半可な気持ちでは出来なかっただろう。原爆を落とした国の文学者が日本語でこのような書を江湖に問うことには大いなる意義があると私は思う。
by syunpo | 2015-12-07 18:43 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

教養の重圧からの解放〜『読んでいない本について堂々と語る方法』

●ピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳)/筑摩書房/2008年11月発行

b0072887_2004762.jpg 安直なハウツー本のような書名ではある。たしかにそのような要素も含まれてはいるけれど、基本的にはヒューモアや諷刺精神が随所にまぶされた読書理論、批評論の書といっていいだろう。

 まず驚かされるのは、脚注に記している参照文献についていちいち四つのカテゴリーを明示している点だ。
〈未〉ぜんぜん読んだことのない本
〈流〉ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
〈聞〉人から聞いたことがある本
〈忘〉読んだことはあるが忘れてしまった本

「ちゃんと読んだ本」という単純なカテゴリーが存在しないことは要注目。この表示によれば、著者はムージルの『顔のない男』は〈流〉で、ジョイス『ユリシーズ』は〈未〉、フロイト『夢解釈』は〈忘〉だそうな。ついでにいえば本書が言及している小説のなかにでてくる架空の書物もリストアップされていて、バイヤールの茶目っ気のほどがうかがえる。

 著者にとって「きちんと読む」「精読する」というような行為はハナからありえないことなのだろうか。いや問い方を変えよう。そもそも読むことと読まないことに明確な境界は存在するのだろうか。著者の答えは「否」である。

「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者のあいだに位置づけられるものなのである。(p8)

 読むという行為はその中身を突き詰めれば様々でありうるし、読んでいない本に関しても人の噂や情報などをとおして何らかのイメージを得ることができる。ゆえに私たちの書物に対する経験は〈読んだ/読まない〉という二分法によって仕切られるのではなく、その両極のあいだにグラデーションをもって分布するということになるだろう。もちろんそうした説明だけではわかりにくいかもしれない。が、とにもかくにも上に引用した認識こそは本書全体をとおして基調となる考え方なのである。

 書物は読まれ方あるいは語られ方によって、様々な相貌を私たちの前にあらわすことになる。本書の見立てでは書物には三種類ある。〈遮蔽幕としての書物〉〈内なる書物〉〈幻影としての書物〉だ。その三つはそれぞれ〈共有図書館〉〈内なる図書館〉〈ヴァーチャル図書館〉に対応する。

〈遮蔽幕としての書物〉とはフロイトから借用した概念で、われわれが日常的に話題にする書物のこと。「現実の」書物とはほとんど関連性をもたない。いわば「状況に応じて作りあげられる」代替物である。
〈内なる書物〉とは「神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体」をさす。「われわれが書物に変形を加え、それを〈遮蔽幕としての書物〉にするさいの影響源となるものである」。
〈幻影としての書物〉とは、われわれが話したり書いたりするときに立ち現れる、変わりやすく捉えがたい対象のことである。読者が自らの〈内なる書物〉を出発点として構築するさまざまな〈遮蔽幕としての書物〉どうしの出会いの場に出現する。

 書物がそのようにして多様なかたちをもって存在する以上、私たちは読んでいない本について語ることにネガティブな感情を抱くには及ばない。むしろ読んでしまうことで他人の言葉によって制約を受けることになるだろう。ゆえに読んでいない本についてのコメントが一種の創造的営みにもなりうるとさえバイヤールは主張するのである。

 本書では、そのような書物とのさまざまな関わり方について、夏目漱石やオスカー・ワイルドなどを参照しながら精神分析的な手法を用いて考察していく。ワイルドによれば、批評とは自分自身について語ることであり、「作品は、批評実践の存在理由そのものである主体からわれわれを遠ざける」。

 当然ながら本書の議論の進め方は多分に詭弁的、といって悪ければパラドキシカルであり、生真面目に反論しようとすればいくらでも可能に違いない。しかし一方で、ひとつの教養論ないしは教養共同体を相対化する試みとしては興味深い視座を提起しているのではないかと思う。

 ところで私はこのレビューを書くにあたって本書をどの程度まで読んだといえるだろうか。著者のカテゴリーにしたがえば、どうやら〈流〉〈聞〉に該当していそうであることを告白しておく。
by syunpo | 2015-12-04 20:06 | 文学(翻訳) | Trackback | Comments(0)