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ブックラバー宣言

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謎をもらえる人が重要なのである〜『謎床』

●松岡正剛、ドミニク・チェン著『謎床 思考が発酵する編集術』/晶文社/2017年7月発行

b0072887_20162378.jpg 起業家であり情報学の研究者でもあるドミニク・チェンが編集工学を提唱する松岡正剛と語りあう。オシャレな横文字コトバが乱舞し、現代の高度情報化社会を語るにあえて古典的なテクストが参照される。──縦横無尽、変幻自在な言葉の交歓。さながら知の万華鏡のような対話とでもいえばよいか。

 華厳思想が描く重々帝網とインターネットに相似を見出したり、空海とローレンス・レッシグが結びつけられたり。なるほど「編集術」の妙を随所に見出すことができる。二人の博覧強記には感心した。

 ただ正直な感想をいえば、紹介される概念や技術用語を駆使した議論はしばしば私の理解できる次元を超えていて、何やら茫漠とした読後感。そんなわけでこれは読む人を選ぶ本なのだろう。
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by syunpo | 2018-05-25 20:18 | クロスオーバー | Trackback | Comments(0)

近代日本を貫く基本精神〜『「五箇条の誓文」で解く日本史』

●片山杜秀著『「五箇条の誓文」で解く日本史』/NHK出版/2018年2月発行

b0072887_18541044.jpg 明治維新、ひいては近代日本の基本精神は「五箇条の誓文」に示されているのではないか。二〇一八年は明治維新一五〇年にあたるが、その全期間を貫くものとして、片山杜秀は「五箇条の誓文」に注目する。

 明治を代表する憲法学者の穂積八束は、五箇条の誓文こそ近代日本の最初の憲法であると述べた。また戦後、昭和天皇が「人間宣言」を発した時にも五箇条の誓文を引用し、この趣旨に則って「新日本を建設すべし」と語った。明治維新から一五〇年を経た現代日本の状況を、五箇条の誓文に照らして再考することに意義があると考える所以はそれらの事実にも求めることができるだろう。

 五箇条の誓文は、片山流に要約すれば以下のようになる。

 ・民主主義のすすめ
 
・金儲けと経済成長のすすめ

 ・自由主義のすすめ

 ・天皇中心宣言
 
・学問と和魂洋才のすすめ

 近代日本の歴史は、その五つの誓文のいずれかが強く押し出されたり弱められたりする政治力学の変動によって記述することができると片山は考える。

 第一条の民主主義や第三条の自由主義は明治で離陸して大正デモクラシーの時代にある程度実現される。第二条の経済発展も明治から大正までまずまず順当に運んだ。ただ大正期の一条や三条は、第四条の天皇と齟齬をきたす場面も出てくる。世界大恐慌でグローバリズムへの信任が下がると、第四条と第五条の中に眠っている「攘夷」が手を携えて、第一条や第三条を抑止するようになる──というのが大まかな推移といえるだろう。

 ところで、明治憲法下では徹底した権力分立が行われた。明治の元勲たちは「第二の江戸幕府」が生まれないように権力を分散したのだ。文言上は天皇に強大な権限が付与されているようにみえるが、実際には天皇が力をふるうことはなかった。天皇が有する「統帥権」についても人によって解釈はまちまちだったという。

 では、誰が政治を動かしていたのか。明治期には「元老」という超法規的存在が大きな役割を果たした。首相も内閣も元老が選ぶ時代がつづいたのである。


 しかし第一次世界大戦を経て、総力戦体制を築くためにデモクラシーの必要性が叫ばれると、元老中心の政治にも批判が向けられるようになった。当然ながら元老そのものもこの世から去っていく。元老に代わって役割を担ったのは、天皇機関説と政党政治を組み合わせた政治というのが片山の認識である。大正デモクラシーはそのようにして生まれた。

 大正デモクラシーに関する片山の解釈にはとくに教えられるところ大であった。大正デモクラシーは「諸個人から社会へ、社会から国家へ向けた運動と捉えるだけでは本質を把握できない」。もうひとつの重大な面があるという。「国家総動員体制のためのデモクラシー」という側面である。「デモクラシーは民衆の要求だけではない。国家がデモクラシーを願望した。そういう部分が強くあるのです」。

 どういうことか。第一次世界大戦では、専制政治の国が敗れ、民主政治の国が勝利した。軍事的勝負としてはほぼ互角に推移したが、消耗戦になって、より忍耐強い国が勝利したといえる。民主制の国家では、国民が選んだ政治家が参戦を決意する。つまりトップの決断は国民の決断という形をとる。「自分たちで決めたことだから、やり続けなければならないと納得せざるをえない」のである。「デモクラシーのほうが総力戦体制には適している」との指摘には一理あるだろう。

 そういう意味では大正デモクラシーは昭和の総力戦体制を準備した側面のあることを否めない。ただし普通選挙法と同時に治安維持法が同時に導入されたことは注意を要する。

 大正デモクラシーを見るとき、この普通選挙法と治安維持法はセットで捉えておくべきでしょう。国力増進のために民衆の政治参加は肯定された。しかし、その参加の仕方が、天皇中心の国体を壊す方向に働くことは許されません。(p120)

 五箇条の誓文に照らせば、大正期にあっては第四条のもとで第一条が追求されたということになるだろう。もっとも昭和維新期に入ると第一条の民主主義ははっきりと後景に退いていくのだが。

 五箇条の誓文とはダイレクトには結びつかないが、昭和維新へと続く大正維新では、大きく「アジア主義」「国家社会主義」「農本主義」の三つの思想が入り組んでいたことも述べられている。そのなかからアジア主義が残って、第二次大戦のスローガンとして浮上していく。

 昭和の戦争準備期に入ると、機能不全に陥った政党政治に代わる強力政治を実現する必要性が増大する。泥沼の日中戦争の只中で「強力政治」のかたちとして台頭したのが大政翼賛会運動である。しかしこれは右翼勢力の前に頓挫する。昭和維新の三大イデオロギーの中でダメージ少なく残っているのは、アジア主義のみだった。

 その後の議論は片山の『未完のファシズム』で展開された考察とも重なるが、幕末のスローガンであった「尊王攘夷」は「大東亜共栄圏」の建設理念となって蘇ったものの、結局は壮絶に散った。総力戦の時代には明治型の権力分立思想は、国家の意思統一をはかるには適切ではなかったといえよう。

 戦後日本が五箇条の誓文から再出発したことは冒頭でも紹介したとおりである。ただそれにしても、五箇条の誓文に照らしてみても、現代日本のありさまはとても及第点とはいえない。
 では、これからの日本に関してどのような構想を描けばよいのだろうか。片山は「昭和維新の応用」を提案している。

……国家社会主義の平準化思想を福祉と結び付け、同時に国家社会主義があわせ持つ成長志向や拡大志向の代わりに、縮み志向の農本主義の考え方を取り入れる。アジア主義からは帝国主義の成分を抜き取って連帯を模索し、アメリカ一辺倒の安全保障から日中、日露も込みにした安全保障環境へとシフトする。
 いわば「縮み志向の昭和維新」です。(p242)


 もちろん、このような総論的な処方にはさほど拘泥する必要もないだろう。片山が本書で展開してきた歴史的検証のなかにこそ、少なからぬ示唆が含まれているのではないかと思う。
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by syunpo | 2018-05-23 19:08 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

単独者ぶるオッサンたちの欺瞞〜『おひとりさまvs.ひとりの哲学』

●山折哲雄、上野千鶴子著『おひとりさまvs.ひとりの哲学』/朝日新聞出版/2018年1月発行

b0072887_19145814.jpg『おひとりさま』シリーズで知られる社会学者の上野千鶴子と『「ひとり」の哲学』がベストセラーになった宗教学者・山折哲雄の対談集。「ひとり」をめぐって熱い対論が交わされるのだが、上野が一方的に山折につっこむ展開で、山折の対応がまったく冴えないのが残念。

 上野は、日本の思想史に連綿とつづいている「単独者の系譜」に終始厳しい見方を示す。世間から背を向ける世捨て人、流れ者、放浪者たちのことだ。西行、鴨長明、松尾芭蕉、尾崎放哉、種田山頭火といった固有名が挙げられている。彼らの営みと山折の『「ひとり」の哲学』(の読者)とは、上野のなかでは重なりあう。

「家族はあてにしていませんよ」「最期は野垂れ死にですよ」というのは、決まって男たち。彼らは鴨長明や漂泊の俳人たちに憧れるふりをしているが、絶対に実行はしないし、実行しようにも自分ひとりの身の回りの始末さえできない。上野は男たちのそのような欺瞞を徹底的に批判するのである。

 山折から説得力のある反論は最後まで聞かれない。山折が傾倒している一遍の話が出てくるが、一遍の魅力を再認識するまでにはいたらない。また江戸時代の歌舞伎芸能で使われるようになったという「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というフレーズを持ち出すのもかえって議論を混乱させている。どう考えても「ひとりの哲学」とは相容れないものだと思われるから。

 そんなこんなで上野の独演会状態が続く。男の身勝手さが炙り出されるという点では興味深い内容かもしれないが、言葉の交歓によって「界面作用」が生まれるという対談の醍醐味が感じられる場面はほとんどなかった。
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by syunpo | 2018-05-19 19:15 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

存在の複数性を認める新実在論〜『なぜ世界は存在しないのか』

●マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)/講談社/2018年1月発行

b0072887_18422987.jpg 新しい実在論を唱える哲学者として世界的に注目を集めているらしいマルクス・ガブリエルが一般向けに平易に書いた哲学書の完全翻訳版。まず正直に告白しておけば、本書の内容を十全に理解できたと確言する自信はない。以下に掲げるものは素人の素朴な感想文レベルにとどまるものかと思う。

 二〇一一年、イタリアの哲学者マウリツィオ・フェラーリスとともにマルクスは新たな哲学を提唱する。「新しい実在論」とみずから呼ぶものである。それはポストモダン以後の新たな哲学的態度として企図された。

 新しい実在論とは何か。本書では「形而上学」と「構築主義」の二つを批判する形でそのすがたをあらわす。

 形而上学は、いかなる事象でも人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在することを主張する。ひとつの事象がもつ複数の様相は、どれも認識主体の主観的な偏向による幻想であって、当の事象の本質に還元されうるとする考え方である。本質主義といってもいい。

 一方、構築主義は、いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定する。ひとつの事象にはさまざまな認識主体によって見られた複数の様相しか存在せず、それらの諸様相の交渉から当の事象イメージが社会的に構築される、と考える。本質主義と対立する相対主義といえるだろう。

 ガブリエルの新しい実在論は、その両者を否定しつつ包み込む。さまざまな認識主体による対象の構築を認める。と同時に認識主体による構築作用とは別に対象それ自体の存在をも認めるのだ。「わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している」。

 その考え方からすれば、宗教や芸術上の虚構的なものも自然科学が対象としている物質と同じ権利で「存在」するということになる。

 物事の実在は、特定の「意味の場」と切り離すことはできない。言い換えれば、世界全体を統べるような「意味の場」や原理などはありえない。自然主義によれば「自然科学の領域へと存在論的に還元されうるものだけが存在しうるのであり、それ以外のものはすべて幻想」にすぎないと考えるが、そのような態度をガブリエルは断固として斥けるのである。

 すべての出来事は宇宙のなかで起こるといった考えは、数ある対象領域のひとつを世界全体と見なすという間違いを犯しています。それはちょうど、植物学を研究しているからといって、およそ存在するものはすべて植物であると考えるようなものでしょう。(p44〜45)

「すべてを包摂する唯一の世界が存在する」というのは幻想である。かくして「世界は存在しない」というテーゼが新しい実在論の名のもとに提起されることとなった。もちろんそれはニヒリズムとは異なる。むしろ私たちの一元的で単調な思考から解放するものであるという。

 世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。そのおかげで、わたしたちが行なう考察を、解放的な笑いによって終えられるからです。わたしたちが生きているかぎり安んじて身を委ねることのできる超対象など存在しません。むしろわたしたちは、無限なものに接する可能性、それも無限に数多くの可能性に、すでに巻き込まれているのです。(p292)

 一元的な原理を否定するという点では、民主的な哲学といえるかもしれない。そのことをいささか通俗的な形で述べているくだりも引用しておこう。

 ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。じっさい、だからこそ民主制は全体主義に対立するのです。すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない──この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。(p269)

 本書のオビにも推薦文を寄せている千葉雅也は、このようなガブリエルの哲学に対して、ドイツの歴史的位置を考慮に入れ、政治的文脈に置き直したうえで興味深い論評を加えている。

 ……ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。

 とはいうものの本書に対する評価は人によってはっきり賛否がわかれそうだ。日本ではどちらかといえば批判的な論考をみかけることが多いように思われる。私自身、「これも存在する、あれも存在する」という存在の多元性の認め方はかなり強引に感じられ、今ひとつ納得できなかった。新しい実在論を提起するにあたって自然主義や自然科学を戯画化したうえで批判しているように感じられるのも私の違和感を増幅するものである。

 そもそも自然科学者たちは本当にガブリエルが言うように自然科学的な方法のみをもって対象を理解しうると単純に考えているのだろうか。彼らが、小説における架空の登場人物が「現実に存在する」ことを認めるに消極的であったとしても、文学の価値や意義を貶めているわけではないだろうし、想像的なものの「存在」を否定する態度をもってただちに自然科学(的方法)のみを特権視していると断じるのは早計だろう。
 ホーキングが「哲学はすでに死んでしまいました」と言明しているのを引用して少しムキになって反論しているけれど、哲学に対するホーキングの偏見が自然科学を代表しているわけでもない。

「一角獣も、人が見る夢も、すべて存在しているのだ」という認識は「民主的」といえばいえるかもしれない。ガブリエル自身が「民主制」という言葉を持ちだして説明しているのは俗耳にも入り易いだろう。が、哲学的思考の精度という点からすれば、ずいぶん粗雑な提題との印象もまた拭い難い。
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by syunpo | 2018-05-17 18:50 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

キリコの震える線のように〜『創造&老年』

●横尾忠則著『創造&老年 横尾忠則と9人の生涯現役クリエーターによる対談集』/SBクリエイティブ/2018年1月発行

b0072887_1012348.jpg「長生きするのも芸のうち」とは演芸界でしばしば口にされる格言(?)である。早逝の天才の系譜にも惹かれるものはあるけれど、なるほど長生きしている創作家にも別様の魔力が宿っているに違いない。

 横尾忠則が八十歳を越えた年長のクリエーターたちに会って対話を交わす。本書はその記録である。登場するのは、瀬戸内寂聴、磯崎新、野見山暁治、細江英公、金子兜太、李禹煥、佐藤愛子、山田洋次、一柳慧。

 前世とか死後の世界だとかに関して熱弁をふるう横尾の死生観にはまったく共感できないが、彼の場合、一種オカルト的な想念が創作活動にうまく昇華した稀有なケースであることは確かだろう。

 老年期におけるクリエーターのおもしろい実例として、横尾はジョルジョ・デ・キリコの晩年に着目している。手が震えて、線も震えていて弱々しいけれど、それが味になっている、という話を何度も繰り返しているのが印象的。

 全体的には対談相手の話が総じて凡庸で私的にはいささか退屈なトークがつづくが、メインテーマからは少しずれる挿話ながら、故人となった金子兜太の戦争中のトラック島での深刻な体験談を「アニミズム」なるキーワードで引き出しているくだりは興味深く読んだ。
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by syunpo | 2018-05-13 10:17 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

翻訳と土着化の重要性を説く〜『英語化は愚民化』

●施光恒著『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』/集英社/2015年7月発行

b0072887_18294485.jpg 昨今、日本では国策レベルで英語を重視する動きが目立つようになってきた。公用語を英語とする英語特区をつくるという提言、小学校における英語教育の早期化などの動きはその極端な実例といえる。本書ではそのような動向全般を「英語化」と大括りにして批判的に検討する。著者の施光恒は政治理論、政治哲学を専攻する研究者である。

 英語化の根底にあるのは「グローバル化史観」である。その史観に基づけば、英語化はビジネス上の要請のみならず「平和で安定した世界を築くため、政治的・文化的統合を進める」うえでの必須だという。そのためには今や世界標準となっている英語を積極的に導入すべきだというわけである。

 しかし実態はどうであろうか。
「効果が疑わしく公正さにも欠ける新自由主義的な経済政策を無批判に信奉し、子供たちを外需奪取競争の一兵卒とするために英語偏重の教育改革に躍起になっている」のが実情ではないか。

 また国家戦略特区構想のなかには、海外投資家を意識したサービスが多い。政策的に「資本を持ち込んでくれる海外投資家がビジネスを展開しやすい環境を作る」ことも同時に目指されている。
「単一言語使用の誤謬」「母語話者の誤謬」が広まった原因についても、著者は、英米の各種業者のビジネスのうえでのうまみを受け入れたもの、つまり「商業上の理由」にすぎないと断じる。

 そのような実態を覆い隠す役割を果たしているのが「グローバル史観」であり、およびその言語版としての「英語化史観」だというわけである。

「グルローバル史観」に基づく英語偏重政策に対する批判は、さらに歴史的な観点や国際政治的な見地からもおこなわれている。そのような検討を加えることによって本書の記述はより立体的・説得的になっているように思われる。

 歴史的な考察では宗教改革に始まるラテン語と各国の国語との関連を考える。かつては宗教・学術的にはラテン語がヨーロッパの共通語だった。そこでは知識人と一般庶民の断絶があった。しかし宗教改革によってラテン語で書かれていた聖書がドイツ語やフランス語などの土着語に翻訳されるようになり、そのことを通して土着語は国語へと発展した。自分たちが子供の頃から慣れ親しんできた言語で、知識を得ることが容易にできるようになったことは歴史上、画期的なことである。ヨーロッパ近代の民主化への道はそうして開かれたのである。

 ひるがえって日本ではどうだったのか。近代化の初期においては、森有礼らによる英語公用語化論が提起された一方、翻訳の努力によって日本語を豊かにし、近代国家の基盤たる国語を整備していく道も示された。明治日本が選択したのは後者である。明治の近代化成功のカギは日本語の発展にあったといっていい。

 ちなみに、科学技術立国を支えてきたのは日本語で高等教育を受けることが可能だったからという見解は、本書とほぼ同時期に刊行された松尾義之の『日本語の科学が世界を変える』の基本認識と重なりあうものだろう。

 国際政治的な考察では、グローバル化史観に基づく政治的統合の象徴とみられるEUの問題が検討に付される。EUに対する疑義の代表的なものは、加盟各国の民主主義を危うくするというものである。エリート層と一般庶民との分断が強化されるのだ。

 EUのように国際的な共同体を動かす人々は英語に習熟したエリート層だけに限定されていく傾向にある。ウィル・キムリッカは、欧州の言語上の小国デンマークを例に挙げ、使用者の少ない言語を母語とする人々がEUのなかで不利な立場に置かれていることを指摘している。もしEUの「民主化」が徹底されるとデンマーク国民は他のあらゆる国の国民と議論する必要が生まれるが、それは困難なことである。つまり「選挙制の欧州議会を通じてEUの直接的な民主的責任を拡大することはかえって、最終的に民主主義的シティズンシップを掘り崩してしまう結果となってしまう」。

 そこでEUの失敗は「リベラル・ナショナリズム」理論の台頭を促すことになった。すなわち「国民意識やその共有がもたらす国民相互の連帯意識、ナショナルな言語や文化、それらへの愛着(愛国心)などが、実は自由民主主義の政治枠組みを成り立たせるために大いに必要なのではないか」とする考え方である。そのようなリベラル・ナショナリズムは本書が批判するグローバル化史観と相容れないことはいうまでもない。

 また英語の世界標準語化は「自然な流れ」ではなく、人為的なものである、とする指摘も重要。英米が植民地を手放す際、国家戦略の一端として英語の覇権的地位を保ち推進するよう努めてきたことは周知の事実だろう。

 実際、イギリスの文化戦略を事実上担っている機関「ブリティッシュ・カウンシル」が発行した『英語の未来』という書籍には英語の国際戦略が堂々と示されている。「世界の人々が、母語で教育を受け、生活する権利、つまり『言語権』の考え方に目覚めたり、言語的多様性の保護に意識的になったりすることに、イギリスとしては警戒しなければならない」とディヴィッド・グラッドルは書き、イギリス英語のブランドイメージを慎重に守っていく必要性を主張しているのだ。

 以上のような議論を総合すれば、日本で現在進行中の英語化に対してはおのずと「否」という結論に至る。本来なら国家百年の計として重視されるべき教育までビジネスの道具と見てしまう新自由主義的な「英語化」路線は、子供たちから質の高い教育を受ける機会を奪い、日本人の愚民化を進めることだろう。英語化の行き着く先には「誰も望まない未来」が待っている。それが本書の結論である。

 ただし、筆が走り過ぎている箇所も散見されるのが少し気になった。たとえば「言語が異なれば、連帯意識の醸成が難しく、民主国家の運営は困難を極めると言ってよい」というのはやや粗雑な議論ではないか。多言語国家は今も世界中にいくらでもあるし、カナダのように日本以上に民主制を機能させている国もある。肯定的に引用されている鈴木孝夫のいう「タタミゼ効果」(日本語を学ぶと性格が温和になるとする仮説)にしてもかなり主観的なもので、それを英語化愚民論につなげるのは強引な気がする。

 とはいえ、新自由主義的な英語化に代わる世界のあり方として「積極的に学び合う、棲み分け型の多文化共生世界」を目指すべきとする主張に反対する理由はない。たとえ月並みな理念であったとしても実現されていない理念はいつだって新しい、との至言をここで想起するのも意義深いことだろう。
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by syunpo | 2018-05-12 18:50 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

大作家が自費出版で出した俳句の本〜『句集ひとり』

●瀬戸内寂聴著『句集ひとり』/深夜叢書社/2017年5月発行

b0072887_18364579.jpg 作家の瀬戸内寂聴が九十五歳にして初めて出した句集。「死んだ時、ごく親しい人だけに見てもらえればいい」ということで自費出版されたものらしいが、めでたく第六回星野立子賞を受賞した。

 巻末には俳句と関係の深い人々との交遊録的なエッセイが併録されていて、瀬戸内と俳句との関わりに関する舞台裏をも知ることができるという構成である。

 ちなみに句集の題は一遍上人の言葉を意識したものという。
「生ぜしもひとりなり/死するもひとりなり/されば人とともに住すれども/ひとりなり/添いはつべき人/なきゆえなり」

 生ぜしも死するもひとり柚子湯かな
 はるさめかなみだかあてなにじみをり
 子を捨てしわれに母の日喪のごとく
 寂庵に誰のひとすぢ木の葉髪
 湯豆腐や天変地異は鍋の外


 自由に生きてきたひとりの文学者の矜持や孤独が、小さな文字の宇宙のなかに畳み込まれている。そこから聞こえてくるのは、ことばとともに生きてきた人の歌い語る声であり、また生命ある者の幽かな鼓動でもあるのかもしれない。
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by syunpo | 2018-05-09 18:40 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

言語を一元的管理することの不可能性〜『国語審議会』

●安田敏朗著『国語審議会 迷走の60年』/講談社/2007年11月発行

b0072887_1961077.jpg 近代の国民国家は「国語」によって国民統合を実現しようとする。そのときから人間にとって自然な存在であるはずのことばが、政策という人為の対象となってきた。日本でその役割を担ってきたのが国語審議会である。一九三四年、官制にもとづいて文部大臣の諮問機関として発足。一九四九年からは文部省設置法で設置が定められ、国語審議会令で規定された組織として二〇〇一年に廃止されるまで存続した。それ以降は、新たに設置された文化審議会の国語分科会に引き継がれている。

 本書は国語審議会・国語分科会で展開されてきた議論を振り返り、日本の国語政策の歴史を検証するものである。

 近代国家が「国語」をつくりあげていくときには、一般に二つの方向が提示される。ひとつは、国家の領域内で遍く(地域的にも階層的にも)通用するものを目指すやり方。この場合、国語はより簡略化の方向に向かう。もうひとつは、言語がその国家の歴史・文化などをあらわすことを重視する方向であり、いたずらな簡略化には否定的である。

 この二つの方向は相互補完的であるが、時と場合によっては対立する。国語政策は一般的にその重点をこの二つの方向のどちらかに重きを置きつつ推移しているともいえる。本書では便宜的に前者の方向を「現在派」、後者の方向を「歴史派」と名づけ、その両者間の議論を軸に国語政策の変遷を見ていく。

 戦前の日本では、対外的な拡張政策を背景に植民地下の住民でも簡単に学べるよう国語の簡略化を訴える現在派勢力が存在した。それは漢字廃止やローマ字化までを視野に入れた表記簡易化をめざすものであった。文部省や言語運動団体などではこうした現在派が中心的な役割を担っていた。しかし歴史をみれば明らかなとおり、その方針を貫徹させることはできなかった。結果的には、漢字かなまじりの形態、歴史的かなづかいで均衡を保持することに落ち着いていったのである。

 戦後も、戦前の現在派と歴史派によるせめぎあいをひきずりつづけた。ただし主張を支える論拠はかなり違ったものになった。
 戦前の現在派が目論んだ標準漢字表制定という事業を継続するところから、戦後の国語審議会は始まる。敗戦直後から十数年は「民主化」を理想とする国家にあわせて「国語もわかりやすく、いま現在を重視した『改革』がめざされてきた」のである。

 文部省国語問題研究会による『国語の新しい書き方』では、戦後経営として国語問題が浮上するという構図を示し、一九四五年の敗戦をこれまでにない大きな社会変動としてとらえ、従来解決できなかった問題を一気に「伝統や感情にとらわれ」ずに解決すべきだ、と主張している。現在派が上からの一元的な改革を志向していたという点では、戦後になっても変わりはなかったといえる。

 そのような現在派に対する疑義を表明した歴史派の代表格として時枝誠記をあげることができる。時枝はあくまでも「下からの施策」を求めたのである。この対立は建設的なかたちで交わることはなかった。

 国語審議会が建議を頻繁におこなったことにより、あまりにも世論を顧慮せずに特定の方向を示しすぎたのではないか、という危惧は表面化し、一九六一年には五人の委員が審議会を脱退するにいたった。当時の土岐善麿会長が主導した国語簡易化方針に反対する委員たちである。

 一九六六年以降は「正しい国語」を示すのではなく、「正しい国語のありかた」を示すことになった。基準から目安を提示するにとどめるという方針の転換である。その具現化として当用漢字にかわる常用漢字の制定があげられる。「分かりやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用」の「目安」となることを目指したものである。

 それに伴い審議会の答申内容は「説教くさく」なったと安田は指摘する。たとえば日本語は今や日本人のものではないとの認識を示しながら、「国語を愛護する精神を養うこと」が相変わらず望まれたりしているのである。そのことに関する安田の評価はかなり辛辣である。

 表記について歴史派と現在派の対立の軸が設定できなくなり、両者の調和がはかられた。そこで生じたのは、表記のありかたに国語の歴史をみるのではなく、国語そのものに歴史と文化をみる、歴史の思想化だった。つまりは、精神主義である。(p179)

 国語の伝統・国語への愛をどれだけ強調してみせたところで、この社会の構造的格差は解消されない。むしろ、国語への愛にまどろませることで、現実を直視することから逃避させたいのかもしれない。(p196)


 また敬語をめぐる議論についても批判的に検証している。とりわけ二〇〇七年に文化審議会が答申した「敬語の指針」は相当珍妙なシロモノであるようだ。指針の末尾には以下のような認識が提示されている。

 敬語や敬意表現が、コミュニケーションに参加する人同士の人間関係、また互いの人格や立場を尊重し反映させる言語表現である以上、多様化した人間関係の下に行われる現代社会のコミュニケーションにおいて、その重要性はこれまで以上に高まっているものと考えなければならない。さらに、社会や生活様式のこうした変化が、この先も持続するものと考えれば、敬語や敬意表現の重要性は将来においても変わらない。(p249〜250)

 格差が拡大する社会を多様化・複雑化としてとらえ、そのなかで「相互尊重」のための円滑なコミュニケーションには敬語が不可欠だという立場である。それに対して安田は次のように疑問を投げかける。

 敬語を使いこなすことが人間関係の平等性をしめすのだ、と主張するのであれば、社会的な不平等はそこでは隠蔽されるしかない。これはまさに統治技法としての敬語である。
 敬語は社会規範だ、と宣言したほうがよっぽどすっきりする。(p250)


 国語審議会・国語分科会の指針がいっそう倫理化していく一方で、他の省庁による日本語の具体的な整備も進められたのは皮肉というべきか。
 国語審議会が「国語は伝統だ」などといって倫理化しているときに、通産省はワープロで使用する日本工業規格(JIS)漢字第一水準、第二水準などを制定していった。同様に、人名用漢字の選定に関しては戸籍行政を担当する法務省が主導権を握るようにもなった。つまり、国語審議会は、日々の生活で直面する言語問題について中心的に議論をする場ではなくなっていったのである。

 そして倫理化した審議会の問題提起はいっそう観念的なものになっていく。「文化審議会のいう『多様性』のある社会とは所詮、混乱をきたさない予定調和的な社会である」と安田はアイロニカルに述べている。

 本書を通読し終えたのちに前半に掲げられた著者の結論的言辞を読み返すと、いっそう説得力をもって迫ってくるように感じられた次第である。

 ことばは伝統である、と唱えてもよい。「母語としての国語」とはその意味である。しかし、ことばは趣味の問題でもある。ことばが多様であることは、けっして「乱れ」ではない。ことばが通じないことは、けっして恐怖ではない。ことばを一元的に管理することはできない。それは国語審議会の漂流の歴史からもあきらかである。とりわけ技術的な側面から一元的な管理がめざされたのであるが、それがほとんど意味をなさなくなってきている現在、簡単な日本語から複雑でめんどくさそうな日本語、そして日本語以外のことばが入り込んだ日本語までをふくめたさまざまな日本語を同時に流通させることだって可能なはずである。ことばは、政策的に管理されてはならない、とはいえるだろう。さまざまな日本語が存在することを、混沌や混乱などとみなさないこと、これが本書の主張である。(p22)
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by syunpo | 2018-05-08 19:00 | 日本語学・辞書学 | Trackback | Comments(0)

国家権力に宛てた最高法規〜『憲法主義』

●内山奈月、南野森著『憲法主義 条文には書かれていない本質』/PHP研究所/2014年7月発行

b0072887_1134146.jpg AKB48の内山奈月に九州大学准教授(刊行当時)の南野森が講義をするというスタイルでまとめた憲法学の入門書。〈憲法とは何か?〉から始まって、〈人権と憲法〉〈国民主権と憲法〉〈内閣と違憲審査制〉とつづき、〈憲法の変化と未来〉を考えて締めくくる。

 憲法とは “constitution” の訳語である。 “constitution” は “constitute” の名詞形。それにismを付けると “constitutionalism” 。つまり西洋語の体系では「国家設立→憲法→立憲主義」が一直線につながっている。

 立憲主義というと何だか難しく聞こえますが、constitution に ism(主義)をつけただけなので、これは西洋人にとっては「憲法主義」くらいの感じではないでしょうか。
 立憲主義という言葉から、ただちに憲法が頭に思い浮かぶかどうかは、日本だと中学生くらいなら無理かもしれませんが、西洋人なら constitutionalism と聞けば自然に憲法が思い浮かぶはずです。(p79)

 本書のタイトルを「憲法主義」としているのも以上のような認識に基づく。

 講義内容は憲法を学ぶうえで基礎的な問題がひととおり押さえられている。憲法と法律との違いとして、最高法規、硬性、違憲審査権といった特徴に加えて、対象の違い・名宛人の違いということにも論及しているのは立憲主義の基本であり当然のことだろう。法律は一般の人々を相手にするものだが、憲法は国家権力を相手にしている。未だにこの点を理解せず憲法に国民の義務を書き込めと主張する人物がメディアにしばしば登場するのは残念というほかない。

 国民主権を「権力的な要素」と「正当性の要素」の両面から考えているのは勉強になった。前者では、君主が権力を握っている君主制に対比できるものとして、国民が権力を握る国民主権を理解することができる。後者では「ある決定が誰の名前で正当化できるのか」が問題となる。
 現代の政治制度のもとでは、もっぱら後者の要素が全面に出てくる。つまり、国民は「権力を持って実際に決定を行う存在として登場するのではなく、決定に正当性を与える存在として出てくる」というわけだ。ここから代表民主制への話と展開していくことはいうまでもない。

 憲法学上の難問とされている違憲審査制をめぐるやりとりも興味深い。「国権の最高機関」たる国会で制定された法律をなぜ裁判所は審査できるのか。民主主義に悖るのではないか。この疑問に対して、南野は最初に「違憲審査制を完全に正当化することはできない」と断ったうえで議論を進める。訳知り顔で難解な法理論をあれこれ論じられるよりも、いっそすがすがしい。
 多数決原理を採用することの多い民主政では「普通の人間はなかなか少数者のことまで考えが及ばない。ということは、民主主義だけで突っ走るとどうなるでしょう」と問いかけ、それに歯止めをかけるものとして違憲審査制を置く──という説明は常識的なものかと思われる。

 少し引っかかったのは選挙制度に関する解説。どの選挙制度にも一長一短があるけれど、本書では、比例代表制によって生まれやすい多党制や連立制への評価がやや一面的と感じた。比例代表制では少数政党が乱立して政権が安定しない傾向があると言うのであれば、それには同時に一党による独裁を抑制する働きがあると付け加えるべきだろう。また一票の格差について多くの紙幅を費やしてきた本書の問題意識からすれば、比例代表制では一票の格差が生じないという事実は大きなメリットのはずである。
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by syunpo | 2018-05-01 11:35 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)