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ブックラバー宣言

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政治的言説としての「宗派主義」〜『シーア派とスンニ派』

●池内恵著『【中東大混迷を解く】シーア派とスンニ派』/新潮社/2018年5月発行

b0072887_18531688.jpg 昨今、中東の情勢に関して語られる場合、「宗派対立」の観点に注目されることが多い。しかし池内恵の認識は異なる。「現代の中東に生じているのは『教義』をめぐる対立ではなく、宗派の『コミュニティ』の間の対立である」とみるのだ。本書はそのような認識のもとに政治的言説としての「宗派主義」の概要をコンパクトにまとめたものである。同じ著者による『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』につづく中東ブックレットシリーズの第二弾という位置づけになる。

 近年のシーア派の台頭とそれに伴う宗派対立は、淵源をたどれば一九七九年のイラン革命に行き着く。近代化を推し進めたバフラヴィー王朝を打倒し、シーア派独自の理念による政治体制を樹立した革命である。

 イラン革命はアラブ諸国にとっては脅威を与えるものでもあった。オスマン帝国の時代に確立されていたスンニ派優位の権力構造はアラブ諸国の社会の深い層にまで根を張っていた。イラン革命でシーア派の政治的結集の理念と運動が顕在化し、それに感化された動きがアラブ諸国のシーア派のなかに現われた時、スンニ派のイラン革命への共感は恐れと敵意に変わった、という。

 中東に宗派対立を解き放ったのはイラク戦争である。スンニ派のフセイン政権が倒れ、イラクで多数を占めるシーア派が初めて国家の権力を握った。その結果、イランの影響力が強まり、「シーア派とスンニ派の宗派対立」という図式がイラク新体制発足の過程で定着していったのである。

 中東の社会に潜在していた宗派主義は、「アラブの春」を契機にさらに表面化する。それは中東での細分化した帰属意識の拠りどころの「多くの中の一つ」である。その意味では「アラブの春」の後に現われたのは、自由・民主主義への収斂でもなく、文明間の衝突でもない。それは「まだら状の秩序」と呼ぶべきものであった。

……宗派対立は一方で社会の低層から、他方で権力の上部から煽られていく。宗派主義は、「味方」の範囲を規定して動員するためにも、「敵」を名指すためにも、同様に都合の良い、有効な言説であることが、証明されていった。(p133)

 本書は、宗派対立を宗教的観点でのみ見ようとする一般的な傾向を是正し、意味のある議論へと変えていくうえでの良き入門書といえるだろう。
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by syunpo | 2018-06-28 18:57 | 国際関係論 | Comments(0)

近代日本を生きた〈意志の芸術家〉!?〜『横山大観』

●古田亮著『横山大観 近代と対峙した日本画の巨人』/中央公論新社/2018年3月発行

b0072887_1843415.jpg 二〇一八年は横山大観の生誕百五十年、没後六十年のメモリアルイヤーにあたる。それに合わせた刊行であろう。

 波乱万丈の人生をおくり、近代日本の進展とともに歩んだ国民的画家。性急な西洋化と日本文化の伝統のはざまを生きねばならなかった葛藤は並大抵のものではなかったと思われる。この日本画家を正当に評価するためには、それ相応の感性と歴史観と語彙が必要になるに違いない。著者の古田亮は近代日本美術史を専攻する東京芸術大学の准教授。

 結論的にいえば、私にはいささか退屈な読み味の本であった。最も引っかかったのは著者の大観評価に関する記述がきちんと整理されていないと感じられる点だ。たとえば批判の多い戦時中の大観の仕事に関して著者は以下のように記している。

……大観もまた時代に〈屈した〉かの見方も成り立とう。しかし、大観には〈屈する〉理由などなかった。水戸気質の皇国思想を生まれながらにして身にまとう大観にとってみれば、そもそも自由は報国のなかにしかなかった、といった方がよいだろう。(p171)

 しかし末尾のまとめの部分では、大観の芸術を「意志の芸術」をキーワードにして次のように総括しているのである。

……日本画を改革しなければならないと岡倉天心にしたがった明治期、彩管報国をまっとうしなければならないと先頭に立った戦中期、そして無窮を追う理想的絵画を描かなければならないとうったえた戦後期、その時代ごとに違った色合いをみせている。大観を意志の芸術家と呼ぶにふさわしいのは、画家としてのそうした意志が各時代の作品中に色濃く反映されているからである。(p207〜208)

 戦時中の振る舞いを後世の高みから一方的に批判するつもりはまったくない。しかし「皇国思想を生まれながらにして身にまとう」ゆえに無批判に戦争に協力したと著者が考える画家を「意志の芸術家」と呼ぶのはいくらなんでも無理だろう。そもそも人が特定の思想を「生まれながらにして身にまとう」ことなどありえない。比喩的表現としても軽薄である。

 カラー写真をふんだんに使った読みやすい編集でいかにも新書らしい作りではあるが、評伝としては破綻気味。残念ながら人に薦めたくなる本ではない。
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by syunpo | 2018-06-25 18:46 | 美術 | Comments(0)

テイストの違いを味わう〜『短歌と俳句の五十番勝負』

●穂村弘、堀本裕樹著『短歌と俳句の五十番勝負』/新潮社/2018年4月発行

b0072887_21585923.jpg 五十人にお題を出してもらい、歌人・穂村弘と俳人・堀本裕樹が作品をつくる、文字どおり短歌と俳句の真剣勝負。「短歌的感情」と「俳句的思索」を読み比べる面白味に加えて、作品ごとに短いエッセイが付けられていてなかなか愉しい趣向だ。新潮社の読書情報誌〈波〉に連載された企画を書籍化したものである。

 荒木経惟の出したお題は「挿入」。ビートたけしは「夢精」、柳家喬太郎が「舞台」と、いかにもその人らしいもの。かと思えば、壇蜜が「安普請」という意表をついたお題で二人を驚かせているのも一興。

 安普請の床を鳴らして恋人が銀河革命体操をする(穂村弘)

 鎌風の抜け道のある安普請(堀本裕樹)


 穂村の歌に登場する「恋人」は大学時代に付き合っていた年上の女性をイメージしたものらしく、部屋のなかでストレッチングを教えてもらったりしたのだとか。銀河革命体操という跳んだ表現がおもしろい。堀本の句にでてくる「鎌風」は鎌鼬(かまいたち)のことで、冬の季語。

 迫田朋子が出したお題はジャーナリストらしく今風に「忖度」。

「忖度」とひとこと云ってねむりこむ悟空を抱いて浮かぶ筋斗雲(穂村弘)

 忖度をし合ひ差しあふ冷酒かな(堀本裕樹)


 堀本の句は、私のような素人にはさっと一読しただけでは意味がわからないものが多い。解説のエッセイを読んでなるほどと合点がいくという次第。でも素人的にはそうした過程もまた定型詩を読む愉しさといえようか。

 作品を並べることで、二つのジャンルの表現力の違いだけでなく両者の対照的な持ち味がいっそう際立つようにも感じられた。造語などでちょっとズレた独特の世界観を表現する穂村の作風に対して、堀本には「古風」なテイストを感じさせるところがある。なお巻末には二人の対談が収録されている。
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by syunpo | 2018-06-20 22:01 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

公平な議論の土俵づくりを〜『広告が憲法を殺す日』

●本間龍、南部義典著『広告が憲法を殺す日 国民投票とプロパガンダCM』/集英社/2018年4月発行

b0072887_18352755.jpg 憲法改正の国民投票が現実味を帯びてきた。国会で改憲発議がなされると、次のステップは国民投票。それは二〇〇七年に施行された国民投票法に則って行なわれる。しかし同法の不備を指摘する声は少なくない。本書では、広告規制に絞ってその問題に迫る。

 民主党政策秘書として国民投票法の起草に関わりその後も国民投票制度の研究をつづけている南部義典と、博報堂の元社員で広告業界に詳しい本間龍の二人による対談形式で問題点を炙り出していく。

 ちなみに本間は、岩波ブックレット『メディアに操作される憲法改正国民投票』でも同趣旨の指摘・提言を行なっているが、本書では南部という国民投票制度の研究者と対論することで、より重層的な議論が展開されることとなった。

 最大の問題点は、国民投票運動期間(通常の選挙での選挙期間に相当する)中のキャンペーン資金や広告に関する規制がほぼ無いことである。定められているのは投票日前十四日以後のテレビ・ラジオでのCM禁止という制約のみ。南部によれば、それは「言論・表現の自由」という「美しい理想」を表現した結果という。細かい規制でがんじがらめに縛られた公職選挙法に対するアンチテーゼなのだ、と。

 しかし、逆にいえば「カネさえあれば圧倒的な量のテレビCMを放映できる」「あらゆる広告手段を使って宣伝活動ができる」ということでもある。人間の行動を自由に委ねると、しばしば強い者が勝つという身も蓋もない事態を招く。本書ではとくにその自由がもたらす弊害について警鐘を鳴らすのである。

 現行法では与党・改憲賛成派が圧倒的に有利だという。その理由として本間は以下の四つを挙げている。

(A)「賛成派は国会発議のスケジュールをコントロールできるので、CM枠をあらかじめ押さえておく(予約擦る)ことができる」
(B)「スケジュールが読めるので、賛成派はCMコンテンツ制作が戦略的にできる」
(C)「賛成派は広告業界のガリバー、電通とタッグを組む」
(D)「与党は圧倒的に金集めがしやすい立場であり、賛成派は広告に多額の資金を投入できる」

 そのような法の下で国民投票が実施されるとどうなるか。当然ながら、改憲賛成派のCMが主要な時間帯を占拠して、様々なイメージ広告が電波にのることになるだろう。本間が想定するのは次のような状況である。

 すぐ思いつくのは、明るい家庭や友人たちがにこやかに生活しているシーンを見せて、「この平和な日本をこれからも守るためには(発展させるためには)改憲が必要です」と語るものとか、「北朝鮮のミサイル発射映像」を流して「憲法を変えなければこの国は守れません」みたいなものでしょうか。賛成派は安倍首相を筆頭にどうしてもコワモテイメージがあるから、まずはそれを打ち消して浮動票を獲得するために、できるだけソフトで先進的なイメージを作ろうとするはずです。(p116)

 映像や音楽がいかに大衆に対して影響力があるかは、ナチス・ドイツの時代に実証済みである。そこでは理性的な熟議の過程は軽んじられ、情感に訴えるようなポピュリズムが幅をきかせることだろう。

 そこで気になるのは、昨今、広告代理店やテレビ局の広告審査が「杜撰」になってきていることである。たとえば、通常の選挙では公約は選挙期間中のCMで訴えることはできない。しかし公約まがいのCMが「日常の政治活動」という名目で放送されることが目立つようになってきた。審査部が難色を示しても、立場の強い営業部の言い分が通るわけである。そのような状況は当然ながら国民投票においても想定されよう。

 ちなみに付け加えれば、現行法では海外の有力人物、組織が日本の憲法改正国民投票運動のために出資することも可能である。また南部は内閣官房の機密費が賛成を訴える著名人、文化人、御用学者などに流れていく可能性も指摘している。

 そこでCM規制のあり方として、本書では海外の例を参照しつついくつかの選択肢を提示している。南部が提案している改正案が興味深いので紹介しよう。

 まず国民投票運動の支出として一定程度の金額を見込む者に事前の登録を必要とする「登録運動者制」と運動費用の上限を設定する「バジェットキャップ制」の導入を提起する。
 そのうえで「条件付きでCMを認める」A案と「CMを全面禁止にする」B案を示している。前者は、登録運動者の中から両陣営それぞれの立場を代表する「指名団体」を一つずつ国民投票広報協議会が指名し、その団体に限って例外的にテレビ・ラジオのCMを認めるというものである。

 CMや放送内容などについて内容を検証・審査するために国会の広報協議会に権限をもたせる考えに対しては、南部が「言論活動の規制に関与する機関を国会に置くのはよろしくない」と否定的。そこで民間による「国民投票オンブズマン」の組織化を提案しているのは一つの見識かもしれない。

 本書で重要なのは、法改正に関して改憲に賛成・反対に関わらず、戦略的な発想から議論すべきではないことを強調している点にある。憲法改正は、あくまで公平公正な議論をとおして決着をつけるべきだという姿勢が貫かれているのだ。国民投票法におけるCM規制をどうするかという問題は、まさしく立憲民主政治の核心に触れるテーマなのである。
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by syunpo | 2018-06-19 18:40 | 憲法・司法 | Comments(0)

欲望し続けるための「制作」を〜『メイキング・オブ・勉強の哲学』

●千葉雅也著『メイキング・オブ・勉強の哲学』/文藝春秋/2018年1月発行

b0072887_8484470.jpg 自己啓発書の体裁をとりながら勉強することの意義を考察し話題を集めた『勉強の哲学』のメイキング物である。『勉強の哲学』はいかに構想され、書かれ、修正を加え、書き継がれていったのか。その舞台裏を見せることもまた一つの勉強論、創作論となる。『勉強の哲学』で論じられていた勉強のアート(技術)がまさにその書籍において同時並行的に実践されていたことが種明かしされるのだ。書籍でのこういう企画はもっとあっていいのかもしれない。

 構成としては、大学で行なった講演や書店でのトークイベントの記録、ネットのインタビュー記事を再編集したもの、それに新たな語り下ろしを加えて一冊にまとめている。このほか〈資料編〉として手書きのノートやアウトライナーの一部もたくさん収録していて、いかにもメイキング物らしい作りである。

「有限化」は『勉強の哲学』におけるキーワードの一つだが、ここではさらに噛み砕いて解説されている。たとえば睡眠の必要性などかなり具体的な助言がなされているほか、他者=友人も有限化の装置として考えられている。

 また各種のツールや媒体の比較論において、有限性の観点から紙の本を再評価しているのも印象に残った。デジタルデバイスの場合、さまざまなことが出来る。たとえば電子書籍デバイスでは、他の本のデータも読めるという潜在性がやはり集中を妨げてしまう。しかし紙の本を読むときには、本当にそれしかできない。「紙の本の有限性は、圧倒的です」。

 クリエイターは、作品という有限なものを、他者として生み出そうとする。「自分が考えたと思えないものが目の前にゴロッと出てくる」ところに創造のおもしろみがある。クリエイターは作品における他者性を「欲望」していると千葉は考えるのだ。

 ところで、ジャック・ラカンは、何かが失われるから人は不安になるのではなく、何かに近づきすぎて「欠如がなくなる」から不安になる、と考えたらしい。ゆえに、人間にとって欠如とは悪いものではなく、むしろ欠如が維持されている状態が必要だと千葉はいう。

 そこで「占い」の効用が論じられる。占いは、他人がじかに意見を言うものではないけれど、現実の因果性からは完全に切断されている。占いとは現実から切断された余白、欠如を提示するものといえる。

 その観点からすると、占いもまた「制作」の一つと考えられるのである。欲望し続けるために、欠如のページをめくる。その一点で、ノート術も芸術も占いも、同じ「制作」という本質をもっている。『勉強の哲学』が文学論・アート論としても読まれたという反響に対して、本書のコンテンツで著者自身が意識的に応答しているようにも見受けられる。

『勉強の哲学』は、勉強の哲学の実践としても読むことが可能だった。その実践が読者(=他者)という有限性によってフィードバックされ、勉強の哲学がさらに補強されていく。それもまた現代における愉しい知の体験なのだろう。
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by syunpo | 2018-06-16 09:01 | 思想・哲学 | Comments(0)

二つの現場から政府の虚偽を暴いた記録〜『日報隠蔽』

●布施祐仁、三浦英之著『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』/集英社/2018年2月発行

b0072887_18175436.jpg 二〇一一年、南スーダンにPKO(国連平和維持活動)の一環として自衛隊の派遣が始まった。二〇一六年七月、現地で激しい戦闘が起こっている様子がインターネット上で伝えられる。自衛隊の国外派遣には様々な前提条件が課せられているが、その条件が崩れているのではないか。そのような声が沸き起こったのは当然だろう。

 フリージャーナリストの布施祐仁は防衛省に対して情報開示請求を開始する。開示された文書には、はっきりと「戦争」を感じさせる記述があった。異常を感じた布施は、さらに戦闘発生以降、現地の派遣部隊とそれを指揮する日本の中央即応集団司令部との間でやり取りしたすべての文書について開示請求した。二〇一六年七月のことである。
 しかし二カ月後に開示された文書はごくわずかなもので、およそ現地の状況を詳しく把握できるようなものではなかった。この時点で、防衛省・自衛隊内部で文書の隠蔽が始まっていたのだ──。

 本書は、南スーダンにおける自衛隊の活動に関して国内で粘り強く取材を続けてきた布施と朝日新聞アフリカ特派員として現地を何度も見てきた三浦英之のコラボレーションによる記録である。

 三浦の現地取材に基づく報告を読むと、かなり生々しい戦闘が自衛隊駐屯地の周囲でも発生していたことがわかる。政府軍と反政府軍の対立は激しく、一時は自衛隊宿営地に隣接するビルが反政府軍に占拠されることもあったらしい。反政府軍のリーダーであるマシャール副大統領へのインタビューも複数回行なっていて、その具体的な描写もなかなかスリリングである。
 混乱の只中にあった南スーダンでは、政府軍が「正義の味方」というわけでもなく、彼らによる暴行や略奪の証言がいくつも出てくる。政府軍と国連PKO部隊が交戦することもあった。まぎれもなくそこは戦地だったのだ。

 自衛隊はそのような状況のなかで毎日、駐屯地での状況を記録していた。「日報」である。布施は日報の存在を知ると、当然ながらその開示請求も行なった。だが、日報はまったく開示されなかった。

「本件開示請求に係る行政文書について存否を確認した結果、既に廃棄しており、保有していなかったことから、文書不存在につき不開示としました」というのが不開示の理由である。

 二〇一六年一一月には、安倍内閣は南スーダンの自衛隊PKOに「駆け付け警護」「宿営地の共同防護」などの新任務を付与した部隊のを派遣した。同年に施行された安保法制によって可能になった新たな任務をさっそく南スーダンのPKO部隊に与えたのである。
 現地の治安が悪化したとなれば、新任務どころか自衛隊の撤退も検討しなければならないはずなのだが、政府はむしろそれに逆行するかのように自衛隊に新たな役割を負わせて「実績」を作ろうと考えたらしい。現地の実態を生々しく記録した日報がオープンになれば、政府の目論見を実現することは困難になるだろう。日報を隠蔽する動機は政府側にあきらかに存在した。

 国会では現地の状況を糊塗すべく、稲田美防衛大臣は日本独自の定義を用いて現地の状況は「武力紛争」にはあたらない旨の答弁を繰り返し行なっていた。日報は廃棄されたとの説明も維持していた。

 しかし、布施が入手した文書の内容と日報廃棄という説明にはどうしても矛盾が生じる。安倍首相の国会答弁も「日報を廃棄したことを是とするのか非とするのか」という野党の質問にきちんと答えることはできていなかった。

 あるものをないというようなごまかしをいつまでも続けることはやはりできなかった。防衛省は、まず職員の一人が個人的に保存していたという説明で日報の存在を認め、その後、その説明は二転三転して、結局は組織として日報を保存していたことを認めざるをえなくなったのである。

 日報の存在が明らかになると、当初の隠蔽工作がどのレベルの指示で行なわれたのかが問題となる。が、事実は有耶無耶のまま、最終的には稲田防衛大臣、黒江防衛事務次官、岡部陸幕長の辞任ということで一応の結末をみるに至る。この間、大臣と防衛庁・自衛隊との間でさまざまな思惑が働いて、自衛隊側から情報のリークがいくつか行なわれた。当然、文民統制の観点から疑義の残る振る舞いであるが、布施は一連の隠蔽工作を次のように総括している。

 陸自内部からと思われる情報流出が続いたのはシビリアンコントロールの観点から問題ではあったが、今回の事件は、制服組が暴走したというよりシビリアン(文民)である背広組が官邸を守ろうとするが余り迷走したというのが本質だと思う。(p257)

 また、三浦は南スーダンと原発問題の共通点に触れて「PKO派遣にしても原発にしても、すべては極めて高度な政治的判断で進められているのに、政府は国民が判断するのに必要な情報をこれまでずっとひた隠しにしてきたという共通項があります」と指摘する。

 本書は、東京と南スーダンを映画のカットバックのように編む込んだ構成で、事実を複層的に浮かび上がらせた労作である。今後、南スーダンにおける自衛隊のPKO活動を検証する際の必読書になることは間違いない。
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by syunpo | 2018-06-15 18:36 | 政治 | Comments(0)

一番近くて遠い存在〜『家族という病』

●下重暁子著『家族という病』/幻冬舎/2015年3月発行

b0072887_19531856.jpg 挑発的なタイトルが付けられているが、内容的にはごく常識的なものではないかと思う。家族を必要以上に美化する世の風潮に対して違和感を表明しつつ、家族以外の結びつきをもっと評価して多様なライフスタイルを互いに尊重し合おうというのがこのエッセイの趣旨である。

 家族だけの楽しみの空間が時に排他的になるという指摘はそのとおりだと思うし、親と子の相互依存関係がもたらす弊害はすでに社会学でもおなじみのテーマ。さほど親しく交際しているわけでもない知り合いからの家族写真入りの年賀状は「幸せの押し売りのように思える」というのも同意だ。

 同じように独居老人や孤独死に言及しながら、それを必ずしも不幸と決めつけないのは、本書の翌年に刊行された山折哲雄の『「ひとり」の哲学』と同じスタンスといえる。

 ただし山折が鎌倉時代の仏教人を持ち出して高踏的な「哲学」に向かうのに対して、下重はそのような御大層な理論武装はしない。ただ周囲の人たちのことをあれこれ想起しつつ、自身の死生観を率直に述べるまでである。「その人らしい死に方なら、それで十分だと思えるのだが」と。ひとり暮らしや孤独に対するステレオタイプな悪評を相対化する姿勢としてどちらにより共感するかといえば、もちろん私は後者だと答える。

 ところが、挑発的な標題と書きぶりが保守的な家族観をもった読者を刺激したのか、本書への酷評は感情的なものが多い。なるほどそうした反応にこそ本邦における「家族という病」の根深さが露呈しているともいえようか。

 もっとも下重の態度は患者を診断する医師のような高見に立ったものではないことも特筆しておこう。興味深いのは、下重自身が家族を理解しようと悪戦苦闘したことをそれなりに率直に記していることである。最初から理解しようと務めないという冷徹な選択をしたわけではないことは重要だ。さまざまな試行錯誤の末に「家族という病」を自覚するに至った著者自身もまた「家族という病」に罹患していたのだ。人の子である以上、それは当然のことである。
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by syunpo | 2018-06-11 20:01 | 社会全般 | Comments(0)

小説仕立ての国家論〜『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』

●高橋源一郎著『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』/集英社/2017年12月発行

b0072887_1944437.jpg 子どもたちが「くに」をつくる。国ではなく「くに」。
 くにづくりに参加する四人の子どもたちはそれぞれ個性的だ。本をたくさん読んでいて頭のいいアッちゃん。マインクラフトというゲームが好きなユウジシャチョー。食べるのが好きで太っているリョウマ。そしてランちゃんと呼ばれている語り手のぼく。

 どうすれば「くに」を作ることができるのか。だれでもつくれるものなのか。くにのつくり方なんか、どこにも書いてない。とりあえずモンテヴィデオ条約やらアメリカ建国宣言やら、いろいろなものが参照される。

 彼らを見守る先生(学校では「おとな」と呼ばれている)は子どもたちに比べるとやや類型化されている。肝太先生はカント、理想先生はルソーを想起させる人物だ。

 くにについて学び、議論し、手足を動かす。くにを作っていくプロセスがそのまま彼らの学びにつながっていく。折に触れて、先生たちは子どもたちのアイデアにゴーサインを出したり、ヒントになるような簡単な助言をしたり。

 とりあえずくにの名を「名前のないくに(仮)」と決めて、ネットにくにづくりの様子をアップしたあたりから事態が動き始める。「名前のないくに(仮)」に関心を抱いたアイちゃんという女の子からリアクションがとどいた。いつか「こく民」になりたいという。何度かネット上でやりとりしているうちに、子どもたちはアイちゃんから招待を受ける。「わたしの家に遊びにきませんか?」

 アイちゃんの家のおとうさんは伝統的な職業に就いているようだが、詳細はわからない。子どもたちはランちゃんのおとうさんと一緒にでかけていく。そこは都心の真ん中にあるとは思えない森に囲まれた広い家だった。

 気がついたらランちゃんは広い家のなかでひとりになっていた。広い部屋の中にはずらっと書棚が並んでいる。アイちゃんの家の「図書館」の奥で出会ったのは、裸の男のひと。関西弁で話すその男のひとは顕微鏡で粘菌を観察したりしている。南方熊楠を思わせる愉快なおとなである。

「本を読まねば、世界のことはわからん。だがな、少年。本を読むこともたいせつやが、戦うことはもっとたいせつや」という。そうしてキャラメルの箱をくれる。その男は気に入った人にだけキャラメルの箱をあげるらしい。それが何を意味するのかはわからないのだけれど……。

 たった一つのキャラメルの箱なのに、それは、あらゆることを教えてくれているような気がした。このキャラメルの箱の秘密がわかったら、そのときには、世界の秘密もわかるのかもしれない。……ランちゃんはそう思うのだ。

 それから一週間後、ランちゃんたちは「建国のことば」を発表した。そして、ある国から「名前のないくに(仮)」と国交を結びたいとの連絡が入る……。

 本書は小説仕立ての国家論であり教育論であるといえる。ヴォルテールやルソーが得意とした「小説的社会批評」の二一世紀版ともいえようか。
 通常の学校からドロップアップした子どもたちによる、くにづくりのプロジェクト。皇室を思わせるアイちゃん一家との交流。そのようなお話に託して高橋源一郎は国家や教育のあり方を考えようとするのである。もちろん全体としてはもっと多様な読みに開かれていることは付け加えておくべきだろう。

 高橋は〈あとがき〉で吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』に言及している。小説にしては、ちょっと説明が多すぎないか。そう思ってしまうのは、「小説(あるいは文学)というものが、だんだん狭く、ちいさいものになってきたから」なのかもしれないとの考えが本書に反映されていることは間違いない。

 狭く、ちいさいものになってしまった小説をもっともっと広く開かれたものにしたいという高橋の考えが本作において成功しているのかどうか、私には確言できない。しかし国家や憲法について考えようとする小説家が今の時代に存在することの意義はけっして小さくないと私は思う。
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by syunpo | 2018-06-09 19:48 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

後ろ暗さと快楽の矛盾を思考する〜『食べることの哲学』

●檜垣立哉著『食べることの哲学』/世界思想社/2018年4月発行

b0072887_18571557.jpg 食べることは他の生物を殺すことである。その営みには後ろ暗さと快楽が伴う。食べることを哲学するとは、その矛盾に生き、その矛盾を思考することにほかならない。

 そして食にまつわる後ろ暗さと快楽の両義性は、人間の身体には文化としての身体と動物としての身体があるという二面性にも通じることかもしれない。両者は「ぶつかりあってしか存在しえないのではないだろうか」と檜垣立哉はいう。このぶつかりあいは食という事例に見えやすいすがたをとって現れる。「食べることの哲学」の意義はそうした局面において浮上するというわけである。

〈第一章 料理の技法〉では、レヴィ=ストロースの「食の三角形」を引用して「生のもの」「火にかけたもの」「腐敗させたもの」の三類型について考える。そのなかでは「腐敗させる」ことにこそ「もっとも微細な文化性」が関与すると檜垣はいう。

〈第二章 カニバリズムの忌避〉は、文字どおり人類のカニバリズムについて考察するものである。容易な要約を許さない深くデリケートな内容なのだが、臓器移植に関して「自分が生きながらえるために他人を身体にとりこむという意味ではまさしく(飢えに起因するカニバリズムと)類似的行為である」と指摘しているのには虚を衝かれた思いがする。

 また米国発祥の「生命倫理学」に疑義を呈しているのも印象に残った。いわく「生命倫理という学問分野がアメリカで成立したのは、そもそも医療裁判で免責になる裁判上の技術を考案するためだということは誰もが知っている」と。

〈第三章 時空を超える宮澤賢治〉は批評的な一章である。宮沢の著作を本書の文脈に連関づけて読むと「自然と文化のあいだに横たわるグレイゾーンにそのまま踏みこんでいく気味の悪さ」がそこここに溢れているという。「よだかの星」や「注文の多い料理店」が提示していることは「人類がカニバリズムを避けるという事態をさらに拡張したもの」である。自然のなかにある生き物と人間とは、それぞれが捕食関係にある。両者の差異を狭めていき、その境界をなくしてしまうと、実はすべてがカニバリズムの忌避にひっかかる。このことは無視しえない論点であると檜垣は指摘する。

〈第四章 食べることは教えられるか〉は食育の実験授業として賛否両論を巻き起こした「豚のPちゃん」に関する考察。それは小学生たちが校内で豚を飼育し、卒業時にみんなで食べるという計画で始められた。ところが卒業が近づいてきたとき、実際に食べるのか豚を殺さずに在校生に託すのかが議論になる。

 この教育には無謀との批判が集まったが、「大変重要なテーマを突きつけてくる」ことも確かだろう。檜垣は安易に結論的な評価を下すことを慎重に回避しながら、この授業ではいずれを選択しても「無責任」を選ぶことになるといい、教師の選択の無責任性こそは宮澤賢治のいう「ほんたう」の行為ではないか、と締めくくる。

〈第五章 食べてよいもの/食べてはならないもの〉では、反捕鯨映画『ザ・コーヴ』が俎上にのせられる。やはりクリティカルな一文である。この映画は論理的には破綻しているが、そこにこそ食にまつわる問題の意味が詰まっているという。

 イルカの知性や情動性に対して評価をくだすとき、なぜそれがイルカに対してだけ向けられるのか。その線びきの根拠は必ずしも自明ではない。クジラ・イルカ漁に反対している人は「ただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのでは」と檜垣が身も蓋もないことを問いかけるのもあながち暴論ではないように思われる。

〈第六章 人間が毒を食う〉では、あらためてレヴィ=ストロースが取り上げられる。人間は「どこかで毒につながる『腐敗したもの』をこよなく愛する」生き物である。そうした意味で毒とは何だろうか。

 毒を食べることは、わざと「他のものを同化」することの業を、食の行為のなかで強調していることだとはいえないだろうか。それは他の生き物を殺していることとひきかえの「快楽」につながっている旨さではないか……。

〈最終章 食べないことの哲学〉では、一転して食べないことの哲学が展開される。宗教における絶食や拒食症が哲学的考察の対象となるのである。「食べない文明」はある種の潔癖症の人々にとっては一つの選択肢であり、唯一の抵抗として理論的にはありうる。

 しかし食べずに生きることはできない。ならば、もう毒を喰えばよいのではないか。「最初から毒を喰いつづけてきた人類は、別種の毒に適合するほどに強い。それだけのことかもしれない。食べないことの哲学の終わりには、毒であれ食べつづけるしかないという結論しかだせないのかもしれない」。

 食べることにおもなうある種の喜びや、それが抱える何らかの後ろ暗さは、社会がどのように変容しようと、生きている人間であるかぎり変わることはないとおもう。その境界線上のうえでいずれにせよ人間はもがきつづける。食べることは、こうした自然であり文化でもある人間の危うさについて、そのグレイゾーンを存分に示しつつ、なお地球のうえで、それでも先に進んで生きつづけなければならない人間の姿を、その情動すべてを含めて示すものであった。ここから紡ぎだされるもろもろの問いは、それこそわれわれがあるということの戸惑いそのものとかさなるものである。その戸惑いをひきうけることは、身体をもって生きている、人間でもあり動物でもあるわれわれの矛盾に満ちたありかたをはっきりと自覚することでもある。そしてそれは、身体をもち言語をもつわれわれの不可思議さを、よくよくわからせてくれる主題なのである。(p196)

 さまざまな思索を経たのちに結論的に書きつけられた文章は、一見するとまた最初の地点に回帰したようにも感じられる。しかしそれは初めに立っていた地点とはやはり違うだろう。うまく言えないが、一歩二歩三歩、少しステップアップしたような場所。そこからみえる風景は本書を読む前とは明らかに趣を異にしている。
 裏表紙に書かれた謳い文句をそのまま引用すれば「フランス現代哲学と日本哲学のマリアージュで独創的に調理し、濃厚な味わいに仕上げたエッセイ」なのである。
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by syunpo | 2018-06-05 19:02 | 思想・哲学 | Comments(0)