ブログトップ

ブックラバー宣言

syunpo.exblog.jp

<   2018年 08月 ( 12 )   > この月の画像一覧

「非現実的な理想論」を現実にする〜『核兵器はなくせる』

●川崎哲著『核兵器はなくせる』/岩波書店/2018年7月発行

b0072887_190749.jpg 二〇一七年のノーベル平和賞は核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に授与された。授賞理由は、核兵器禁止条約をつくるのに貢献したというものである。本書の著者・川崎哲はICANの国際運営委員。

 国連で核兵器禁止条約をつくることはこれまでの国際政治の常識では考えられないことだった。「非現実的な理想論」といわれてきたらしい。だが、それは実現した。本書ではその舞台裏を紹介しつつ世界の核軍縮の歴史について概観する。それは市民活動がいかに国際政治に影響を与えうるかという問題に対する回答となる報告でもあるだろう。現場で活動してきた人ならではの具体的な挿話を盛り込んだ成功譚は説得力を感じさせる。

 核兵器禁止条約が画期的なのは、核兵器を「必要悪」から「絶対悪」と言い切った点だ。国際ルールで禁じることには大切な意味がある。「核保有国が参加しない条約は意味がない」という批判はあるかもしれない。しかし核兵器そのものがはっきりと国際法違反とされたことで国家が核兵器をもつことの意味も変化する。端的にいえば「力のシンボル」から「恥のシンボル」に変わったのだ。

 もちろん条約でそれを明言するに至るまでには多くの人びとの活動が寄与していた。被爆者たちの証言。市民たちの地道な活動。
 そして赤十字国際委員会(ICRC)も大きな役割を果たした。ICRCは、二〇一〇年の国際会議で「核兵器は非人道的で、いかなる場合も認められない」との声明を出した。「救護を職務とする赤十字が、救護に行くこともできなくする兵器の存在を許すことはできない」と主張したのだ。

 しかしその成立の過程で日本政府が示した反応には、著者ならずとも失望せざるをえない。日本の軍縮大使は「核戦争が起きたら救援できないという考え方は少し非観的すぎる。もっと前向きにとらえるべきだ」と言明したというのだ。内容空疎な抽象的精神論を振りかざす点では、戦前戦中から少しも変わっていないのかもしれない。

 当然ながら核保有国も核兵器禁止条約の成立を阻むべく様々な形で妨害してきた。裏返せば条約にはそれだけの力があるということだろう。川崎はいう。「核保有国が激しく非難したり圧力をかけたことは、この条約に効果があることの証明にもなりました。何の意味もないものなら、妨害や抗議などせず、無視すればよいのですから」。

 実際、核兵器禁止条約には社会そのものを変える力が厳然として存在している。たとえば、核開発に使われるお金の流れを止める効果があらわれた。核兵器禁止条約が成立してから約半年の間に、世界で三〇の銀行・金融機関が核兵器開発企業への投資をやめたという。私たちは、この種の国際条約に対して、しばしば単なるお題目が合意されただけと考えがちだが、決してそうではないことを事実が証明しているのだ。

 ICANの行動スタイルにはこれからの市民運動一般を考えるうえでも参照すべき点は多いかもしれない。ICANには若い人が大勢集まっている。ユニークな動画をつくりSNSで拡散するなどメディア戦略にも工夫をこらした。「核兵器を禁止する」というわかりやすい問題に特化したことで、興味をもつ人が増えたと川崎はいう。

「どんな核兵器も許されない」というスタンスは日本の被爆者が語ってきたメッセージと同じものだが、ICANはそれを「日本の問題ではなく世界共通の問題」というメッセージに変換することに成功した、と川崎は自己分析している。

 何らかの理想の実現を目指して人が頑張っているとき、必ずといっていいほど「非現実的な理想論」と冷笑する人があらわれる。けれども理想論を非現実的なものにしているのは、しばしばそのような冷笑主義者の存在そのものではないのかとあらためて思う。
[PR]
by syunpo | 2018-08-27 19:02 | 国際関係論 | Comments(0)

自然を自然の眼を通して見る〜『イサム・ノグチ エッセイ』

●イサム・ノグチ著『イサム・ノグチ エッセイ』(北代美和子訳)/みすず書房/2018年4月発行

b0072887_18341177.jpg イサム・ノグチはアメリカ人を母、日本人を父としてロサンジェルスに生まれ、彫刻家として活躍した。いや活躍の場は彫刻にとどまらなかった。舞台芸術、陶芸、家具デザイン、庭園設計、空間設計など幅広いジャンルで創作活動を展開したことで知られている。

 私がよく足を運ぶ大阪・国立国際美術館でもノグチの《黒い太陽》《雨の山》などが所蔵されていて、ノグチの作品には折りに触れて接してきたが、彼の人となりや芸術に対する考え方をよく知悉しているわけではなかった。
 本書はノグチのエッセイとインタビューから構成されている。訳者によれば「優れた文章を書く名文家」でもあったらしい。

 冒頭に掲げられた《グッゲンハイム奨学金申請書》と題された一文にノグチの彫刻観ひいては芸術観が簡潔に表明されているように思われる。

 私は自然を自然の眼を通して見たい、そして特別な崇拝の対象としての人間を無視したい。これまでに考えられたこともない美の高みがあるにちがいなく、この態度の反転によって彫刻はその高みにまでもちあげられるだろう。(p8)

 こうした考えが基本にあったからこそ庭園や空間設計の分野にまで仕事の場を広げたともいえるかもしれない。

 ノグチがデザインした照明器具 “AKARI” は今でも日本で販売されているが、岐阜で提灯作りを見学したことなど、その裏話を披瀝しているのも面白い。いわく「半透明で折りたたみ可能な光の彫刻!」。

 また、庭園とランドスケープに関する考察や舞踏家マーサ・グレアムとのコラボレーションに関する文章など、ノグチの旺盛な知的好奇心を感じさせて興味は尽きない。

 ただし本書の訳文はいささか生硬で読みやすい日本語とは言い難い。「名文」の醍醐味を十全に味わうにはやはり原文に当たるべきなのだろう。
[PR]
by syunpo | 2018-08-24 18:35 | 美術 | Comments(0)

民主主義の欠点を補完する制度!?〜『立憲君主制の現在』

●君塚直隆著『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』/新潮社/2018年2月発行

b0072887_18482855.jpg 二一世紀の世界では「時代遅れ」とみなされることの多い君主制。それでも英国をはじめ北欧やベネルクス諸国では維持されている。君主制はかつての絶対君主制から立憲君主制に移行することによって今日まで生き延びてきた。本書ではその歴史を検証する。その作業は日本の象徴天皇制を再考するうえで多くの示唆を与えてくれるものであると著者はいう。

 英国の君主制は日本の象徴天皇制のモデルとなった。憲法学者の高柳賢三は、戦後の日本国憲法で天皇を「象徴」と表現する際に、GHQの高官たちが念頭に置いたのが、「英国王は英コモンウェルズの成員の自由な結合の象徴」であると規定した、一九三一年の「ウェストミンスタ憲章」の前文であったと指摘している。

 英国における立憲君主制は時代や状況に柔軟に対応し、その時々の国民の要求にも応えてきた。そのことで国民の支持を得てきたといえる。その意味では日本の天皇制の始まりから今日まで、つねに良きモデルとなってきたものといえるだろう。

 本書では、英国のほか、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの北欧諸国、オランダ・ベルギー・ルクセンブルクのベネルクス三国、さらにはタイやブルネイ、中東諸国における君主制の歴史を概観している。憲法学者のカール・レーヴェンシュタインや思想家のウォルター・バジョットらの著作を参照した考察は、欧州の君主制理解をベースにしたものといえるだろう。

 北欧では、質実剛健な君主たちが歴史を彩ってきた。女性参政権や多党制の実現など「最先端をいく君主制」を確立してきた歴史からは日本にとっても学ぶ点が多いかもしれない。

 ベネルクス三国では、さまざまな歴史的背景もあって政党政治の調整役として君主が実質的な役割を果たしている。そして注目すべきは「生前退位」が慣例化していることだ。

 アジアに残る君主制は、欧州のそれに比べるとかなり見劣りする。とりわけ中東の湾岸諸国における君主制は「王朝君主制」と呼ばれる寡頭政で、石油輸出による潤沢な予算があってこそ成立するもの。政体としてはかなり危ういものと感じる。

 海外の君主制を振り返った後に、日本の象徴天皇制が検討に付される。戦後七〇年以上に及ぶ象徴天皇制は「国事行為」「公的行為」「私的行為」を三本柱として「国民生活に安定をもたらしてきた」と総括しているのだが、もっぱら天皇制のポジティブな面にのみ光をあてた記述には違和感も残る。
「日本が、太平洋戦争の敗戦という未曾有の困難を乗り越えて、立憲君主制の下で安定した繁栄を遂げてこられたのは、昭和天皇の『カリスマ性』に拠るところが大きかった」というのは本当だろうか。

 たとえば、憲法施行直後、昭和天皇は米国に沖縄を基地として使用するようメッセージを発したことはよく知られている。そのメッセージ内容もひどいものであるうえに、明らかに「国事行為」の矩をこえた政治行為である。沖縄の半永久的な軍事基地化の決定的な契機になったともいえるわけで、そうした史実をまったく無視して、天皇の「カリスマ性」を強調し君主制日本の「安定した繁栄」を寿ぐのはいくらなんでも研究者としては偏向した態度ではないか。

 ことほどさように、全体をとおして君主制に対する著者のシンパシーが前面に出た記述で、君主制擁護の演説ならともかくも、政治学の書物としてはいささかバランスを欠いているとの読後感を拭えなかった。
[PR]
by syunpo | 2018-08-22 18:55 | 政治 | Comments(0)

政府広報が蔓延する時代に〜『権力と新聞の大問題』

●望月衣塑子、マーティン・ファクラー『権力と新聞の大問題』/集英社/2018年6月発行

b0072887_18264710.jpg 菅官房長官の記者会見での粘り強い質問ぶりですっかり有名になってしまった東京新聞の望月衣塑子記者。ジャーナリズム本来の仕事をしているだけの人がこれほどまでに注目されるという事実が、逆に現代日本における政治報道の低調を物語っているといえるだろう。

 本書はそんな彼女がニューヨーク・タイムズ前東京支局長と語り合った記録。権力に翻弄される報道メディアはこれからどうあるべきなのか。弊害が指摘されて久しい記者クラブ制度をどうすべきか。ネット時代に既存メディアがどう対応すべきなのか。米国との比較を織り交ぜながら文字どおり「権力と新聞の大問題」を考えていく。

 報道には一般にアクセス・ジャーナリズムと調査報道がある。ファクラーの定義に従えば、前者は「権力に近い側に寄りそって情報を得ること」。記者クラブでの定例会見の内容を要約して伝えるのが典型例といえようか。後者は「メディア独自の調査を丹念に積み上げ、現場の取材を重ねることによって、そのメディアなりに確証を得た事実を報道」することである。誰もが後者の重要性を説いているわけだが、もちろん本書もまたその例にもれない。

 ところで、望月記者が執拗な質問でそれまでの官房長官会見の様相を一変させると、もっとも過剰にして頓珍漢な対応をとったのは官邸ではなく他のメディアだった。望月記者の仕事ぶりに対して同業であるはずの産経新聞の官邸番の記者が質問状を突きつけてきたという。
 いわく「望月記者は主観に基づいた質問をしていると指摘を受けているがその認識はあるか」「質問は簡潔に、同趣旨の質問は控えて、などと注意を受けているが、改善の必要性についてどう考えているか」……。新聞を名乗りながら公権力の番犬に成り下がっている自分たちの無様な態度こそ根本的な「改善」の必要性があるだろうに。嗤ってしまう。

 また現政権の政策上の問題としては、望月が「日本版NSCができたことの怖さ」を指摘しているのは重要だと思われる。

……日本はこれまで専守防衛遵守の立場上、九〇〇キロを超えて飛ぶような巡航ミサイルを持つことは、北朝鮮や中国に対する敵基地攻撃になる可能性があるから、かなり慎重でした。専守防衛が軍事的装備の一定の歯止めになっていたと思うんですけど、そういうことについて防衛省では、ほとんど議論されていないと思います。防衛省の意思とは関係なく、いきなり「予算化」ということになっている。これはNSCと官邸が主導しているからでしょう。(p111)

 ファクラーの発言では、オバマ大統領時代の言論弾圧について言及しているのがじつに興味深い。「メディアへの弾圧ということで言えば、オバマ政権のほうが、トランプ政権よりもずっと強硬な手段を取っていました」という。オバマ政権ほど、記者や取材相手を摘発した政権は史上かつてありません」。

 具体的には、第一次大戦時にできた防諜法の適用頻度がアップした。同法が発令されてからオバマ政権ができるまでの九〇年間で摘発された人はわずか三人。しかし、オバマ政権の八年の間だけで、八人も摘発されたという。内訳を見ると記者よりも取材先、つまり内部告発者に対して監視の目を光らせていたことがわかる。核政策の言行不一致を含めてオバマ政権時代の欺瞞性は今後もっと明らかにしていくべきではないかと思う。

 権力とジャーナリズムの関係を考えるという点ではとくに目新しい問題提起がなされているわけではない。ただ安倍政権下におけるメディアの舞台裏については具体的なファクトがいくつも披瀝されていて、その点ではビビッドな内容を伝えてくれる本といえよう。
[PR]
by syunpo | 2018-08-21 18:41 | メディア論 | Comments(0)

難解な哲学書への道標〜『誰にもわかるハイデガー』

●筒井康隆著『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』/河出書房新社/2018年5月発行

b0072887_8281949.jpg マルティン・ハイデガーの『存在と時間』は難解をもって鳴る哲学書である。文学部唯野教授こと筒井康隆がその難物にチャレンジした。本書はその講演記録を書籍化したものである。

 ハイデガーは私のような哲学の素人がいきなり読んでもチンプンカンプンだが、なるほど標題どおりわかりやすい読み解きを行なっている。何より鍵言葉がやたら難しいのがハイデガーの特質なのだけれど、たとえば〈現存在〉は「はやく言ってしまえば、人間のことなんです」とみごとに噛み砕かれる。〈実存〉は「人間の可能性のこと」とこれまた単純明快。そんなざっくりした理解で良いのかと不安になるほどだ。ちなみに〈不安〉もハイデガーでは重要な概念ではあるのだが。

 補遺を寄せている大澤真幸によれば、「唯野教授の「よくわかる」解説は、『存在と時間』の理解としてまことに正確である」という。その大沢の補遺も新約聖書を参照したスリリングなもので、たいへん面白く読んだ。ハイデガーをあらためて読んでみようかなと思わせる内容で、入門書としての役割を充分に果たしているのではないかと思う。
[PR]
by syunpo | 2018-08-18 08:30 | 思想・哲学 | Comments(0)

社会民主主義で政治の回復を〜『嘘に支配される日本』

●中野晃一、福島みずほ著『嘘に支配される日本』/岩波書店/2018年7月発行

b0072887_18323067.jpg 政治学者の中野晃一と社民党参議院議員・福島みずほの対談集。
 一連の公文書改竄や国会での虚偽答弁で日本の政治は嘘で塗り固められた惨憺たる様相を呈している。その割には安倍政権の支持率は思ったほど落ちない。長期腐敗政権によるやりたい放題の悪政が堂々とまかり通っている摩訶不思議な時勢である。

 安倍政権がやっているのは政治ではなく支配だと中野はいう。政治を回復するためにはどうすればよいのだろうか。

 キーワードは社会民主主義。日本の社会民主党が掲げる社民主義の理念とは、公式サイトによれば「平和・自由・平等・共生」の四つが中心となる。ただし他の主要政党でもこれらの理念を否定するところはないだろう。

 本書ではそれらに加えて、次のようなフレーズでも社民主義をアピールしている。すなわち「社会民主主義にはフェミニズムが入っている」「みんなが安心して望めば子どもを生み育て、安心して働き続け、安心して年を取ることができる社会」「構造的な抑圧を社会、政治、経済、から取り除いていくことが社会民主主義の目標」「公平な税制の実現と労働法制の規制強化が大切」……。

 率直にいって一般的なスローガンが断片的に提示されているだけという印象が拭い難い。ついでにいえば、「政治」ならぬ「支配」を受け入れているのがほかならぬ国民ということも忘れてはいけないだろう。

 というわけで二人の主張にとくに異論はないのだが、積極的に人に薦めたくなるような内容でもない。そのなかでは、中野が政治における説得の論法として、カント主義的に絶対的な価値に訴える方法と、功利主義的な打ち出し方を指摘している点は印象に残った。その観点から、社民主義の目玉政策をさらに具体的に打ち出していたなら、もっとインパクトは増したかもしれない。
[PR]
by syunpo | 2018-08-17 18:35 | 政治 | Comments(0)

面白い本を面白く紹介した面白い本〜『お釈迦さま以外はみんなバカ』

●高橋源一郎著『お釈迦さま以外はみんなバカ』/集英社インターナショナル/2018年6月発行

b0072887_18253020.jpg 本書は、高橋源一郎がパーソナリティを務めるNHKのラジオ番組『すっぴん!』のワンコーナー「源ちゃんのゲンダイ国語」での話をもとに書籍化したものである。

 本を書く人は基本的に本を読む人でもある。作家でもあり読書家でもある源ちゃんがハンティングしてきた面白本から、思わず膝を打つ表現や笑える言葉を拾い出してくる。面白い本をさらに面白おかしく紹介するのだから、面白い本には違いない。

 有名ラブホテルのスタッフであるらしい上野さんが主人公のマンガ『ラブホの上野さん』。ホテルにやってきたカップルに関して含蓄のある意見をいうのが可笑しい。故伊丹十三が若き日に記した『ヨーロッパ退屈日記』の、今となっては牧歌的ともいえるスノビズムが醸し出す滑稽味!

 野村順一の『私の好きな色500』では源ちゃんは色の名前に着目する。ある会社が開発した色鉛筆の名前が、なんとも詩的というかワケがわからない。「子供の頃の茜雲」「ナイチンゲールの歌声」「ジェラシー」「鹿鳴館の舞踏会」「たぬきの鼓笛隊」「ためらい」「神話の中の悲哀」「山東省の田舎道」……これ、全部の色の名前。

『忙しい現代人のための 2秒で読める世界クイック名作集』は企画力の勝利といえる本かもしれない。世界の名作が本当に(ほぼ)二秒で読めるほどに圧縮されているのだ。
 たとえば「桃太郎」。包丁をもったおじいさんとおばあさんが巨大な桃の前にたたずんでいる。おじいさんが桃に包丁を入れる。桃が割れる。中では桃太郎が鬼の首を絞めている。お終い。

 バカの語源は何か。もともと僧侶の隠語で、「痴」を意味するサンスクリットの「モハー」に漢字「莫迦」を当てたというものらしい。「莫」は否定の意味であり、「迦」はお釈迦さまの「迦」である。つまり「バカ」=「お釈迦さまではない」ということらしい。これは玄侑宗久の『さすらいの仏教語』に書かれている解説である。

 ……などなど、思わず手にとりたくなるような本が次から次へと登場する。大半が私の読んでいない本で、まだまだ私の知らない世界が果てしなく広がっていることを実感させられる。かろうじて一冊だけこのブログでも取り上げた本が出てきた。エラ・フランシス・サンダースの『翻訳できない世界のことば』
 フリートークがベースになっているので、当然ながら文章も軽快なタッチ。肩の凝らない愉しい本といっておこう。
[PR]
by syunpo | 2018-08-16 18:29 | 書評 | Comments(0)

日本人は本当に集団主義的か〜『日本の醜さについて』

●井上章一著『日本の醜さについて』/幻冬舎/2018年5月発行

b0072887_9464563.jpg 日本人は欧米人に比べ集団主義的であるとよくいわれる。それは本当だろうか。建築や都市景観に関しては、西洋と比較して日本人は集団主義的とは到底いえない。むしろ個々人が自由を謳歌している。井上章一はそのように主張する。じつにおもしろい。

 欧州は日本と違い、近代的な自我をふくらませてきたと認識されてきた。しかし欧州の古い都市を歩くと気づくことがある。古びた建物をそのまま使い続けている。街区を成り立たせている建造物群は互いに似通っている。個々の建築が自分たちの個性を主張することはあまりない。つまり、建築や都市計画に関しては、欧州の方が日本に比べはるかに集団主義的に構成されている。彼の地では建築家の自由な表現がなかなか許されない。

 対して、日本では欧州よりも表現上のしばりは弱くなっている。京都のような観光都市ではいくらか景観規制があるものの、パリやフィレンツェと比べれば建設側の自由を認める度合いは強い。

 日本のそのような状況について、イタリア人建築家のファブリツィオ・グラッセリは「不動産業者や金融機関、政治家たちの利益のためにだけつくられた街」のあり方に眉をひそめ、乱雑な東京の街並を批判した。
 その一方、イギリスのサイモン・コンドルは「急速に発展した都会の街並み、心をときめかせる新しさ、東京には表現豊かな建築をつくる機会が限りなくあるように思えた」と肯定的に評価した。

 井上はそうした好対照の見方を紹介しながら、日本の建築家が世界的に活躍している背景をそこに見てとっている。すなわち日本人建築家の世界的な活躍は「乱雑な街並の副産物でもある」のだと。
 いずれにせよ、建築や都市づくりに関するかぎり、近代以降の日本人は比較的自由に活動することができたことは間違いない。

 本書の面白味は、そのような主張にさらに坂口安吾批判をからめている点にも感じられる。
 日本の近代化は坂口安吾が《日本文化私観》で提示した考えに沿ってすすんだともいえる。安吾は建築を「ある観念の代用品」としてのみ位置づけた。どのような技術を凝らそうとも、建築は結局、観念そのものに及ばないと決めつけた。たとえば、龍安寺の石庭は深い孤独やサビを表現しようとしたが、人びとが心に思う観念の大きさには至れない、と考えたのである。ゆえに安吾は、仏教と僧侶さえいれば、寺などは焼けてもいいと言い切った。そのような考え方は、建築は使い捨てでかまわないという、ブルジョワたちの都合でできた現代日本の街並と同じ線上にあるといえる。

「イタリアかぶれ」を自称する井上が安吾のような態度を否定するのは当然であろう。周囲との調和や都市景観を軽視した日本の近代化は「強いエゴイズム」の発露とみなしうる。日本人は建築や都市景観に関するかぎり集団主義的とはいえない。むしろ自我のおもむくままに表現してきた。しかしそのことをもって日本の近代化を自慢することもできないのである。

 本書では、そのほかにカーネル・サンダース、ペコちゃんなど店頭に置かれる人形の日本独自のあり方や、お城の再利用をめぐる和洋の文化的差異などさまざまな問題が考察されている。また第二次大戦時、イタリアがローマ空襲後にすぐさま降伏の動きに入ったことを街並保存の観点から検証しているのは本書のコンテクストのなかに収まるものであるだろう。

 井上は日本の社会科学者たちが建築や街並という目にみえるものに注意をはらわず、「ヴィジュアル面ではうかがえない何かを、抽出しようとした」こと、「近代的な精神、あるいはエートスとでもいったものを、彼らはさぐりつづけた」ことを糾弾している。その意味では本書は日本の社会科学批判の書とも言うことができるかもしれない。
[PR]
by syunpo | 2018-08-09 09:47 | 建築 | Comments(0)

両義性とユーモアをめぐって〜『大江健三郎 柄谷行人 全対話』

●大江健三郎、柄谷行人著『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』/講談社/2018年6月発行

b0072887_18555955.jpg 柄谷行人は座談・対談記録を数多く書籍化しているが、大江健三郎とこれほどの濃密な対話を交わしていたことは迂闊にも知らなかった。収録されている三つの対談は、それぞれ一九九四、九五、九六年に行なわれたもの。大江のノーベル賞受賞と相前後する時期にあたる。内容的には今日読んでもさほど古さを感じることはない。

《中野重治のエチカ》と題された対話は、文字どおり中野重治に関するもので、読者を選ぶテーマといえるかもしれない。冒頭で「ちょっとの違い」にこだわった中野の態度に今日性を見出そうとする柄谷の問題提起が精細を放っている。大江もそれを受けて「そういう細部に引きつけられて、まず彼の詩集を読み、彼の小説を読んできた」と応じる。全体をとおして中野の再評価を促すような対話で、実際、私も中野に関する関心を呼び起こされた。

《戦後の文学の認識と方法》では、柄谷が文学批評家としてスタートしたことの背景から始まって、日本の戦後文学をめぐる危機感を共有しあう対話が展開される。それは世界的な視野をもった大きな問題意識に支えられた議論であることはいうまでもない。
 柄谷が批評家として出発した当時を回想する発言が興味深い。

 僕にとって、批評とは、思考することと存在することの乖離そのものを見ることでした。といっても、それは抽象的な問題ではなく、日本の近代以降の経験、あるいはファシズムと戦争の経験、そういうものを凝縮した問題だと思うんです。それはいわゆる哲学や、社会科学や、そういったものからは不可避的に抜け落ちてしまう何かです。逆に、批評という形式においてなら、どんなことでも考えられるのではないか、と思ったのです。(p71)

 それに対して、大江は哲学と文学の間を橋渡しするような柄谷の仕事に敬意をはらいつつも、そのほかの批評家全般に対しては批判的だ。いわく「日本の批評家は、日本語と固有名詞に全面的に寄りかかっている。あるいはそれを手がかりにしていて、日本語と切り離すと普遍的な問題は出てこないのみならず、なにひとつ進まないという仕事をずっとしてきたのじゃないか」。

 柄谷はそれに関連して、日本文学がもっぱら「美的対象」として海外に受容されていることに言及する。「西洋人が、小説家を選んで翻訳し、紹介したとしても、それが美的対象としてであるならば、だめなんだと思います」。

 大江がそれを受けて、中上健次でさえ海外では美的対象の枠内で読まれていることを指摘しているのには考えさせられた。「戦後文学は普遍的なものを目指したが、日本の中にとどまってしまった」と大江はいう。

 そこで、日本文学が陥っている窪みというか、下降傾向を全面的に押し返すような若い作家の仕事が欲しいと思うんです。それも、これから出てくる新人に期待するというのじゃ遅い。今仕事をしている人たちも力を込めて大きい仕事をするということでなきゃ達成されないと思う。(p130)

 大江のノーベル賞受賞講演「あいまいな日本の私」をベースに語り合った《世界と日本と日本人》では、 文字どおり「あいまい(ambiguous)」をキーワードに日本文学のあり方を構想する。

「ambiguous」に対しては「ambivalent」が対置されているのだが、その話はいささか複雑なので、ここで詳しく要約することは控えよう。

 いずれにせよ、大江は「あいまい=両義性」の価値を山口昌男から教えられたという。人間の心の浅い層では二つの極に引き裂かれたあり方はよくないけれど、「深い層では、両義的ということがなければ、人間も国家も成立しないという気持ちももっています」。

 柄谷はそうした両義性を「ユーモア」と関連づけているのがおもしろい。人間存在の両義性を見いだしたこと自体は歴史的な認識だが、それがユーモアにつながるのだ、と。

 ミラン・クンデラを引用した大江のフォローもなかなか良い。

 小説はそういう両義性を発見するが、両義性を一つの意味に整理することは必要ではなく、両義性の間で揺れている、ひもの上で芸をしているんです。それは恐ろしいことですし、悲惨なことですけれども、同時に、笑いも誘う。(p149)

 途中気になったのは、大江が小説というジャンルの終焉を意識した発言をしていること。それには柄谷も同様の思いを口にしている。さらに八〇年代後半に「終わり」ということが個々人の問題とは別に出てきたのではないかと話を一般化しているのだ。
 この種の話にはあまり乗れないなぁと思いつつ読み進めていくと、後半に向かうにつれ、いつのまにかそうした認識は後景に退き、文学の復興を目指す言葉に熱を帯びてくる。二人の大御所による「文学の終わり」という発言もまた「ambiguous」な意味合いを含んでいるのだろう。
[PR]
by syunpo | 2018-08-08 19:02 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

語ることの政治性を自覚しながら〜『はじめての沖縄』

●岸政彦著『はじめての沖縄』/新曜社/2018年5月発行

b0072887_21243760.jpg 社会学者の岸政彦が沖縄について語る。あるいは沖縄の語り方について語る。必ずしも歯切れの良い記述がなされているわけではない。一歩一歩自分の足元を確認しながらゆっくりと進んで行くかのような筆致。結論的なことから先に記せば牛歩を思わせるような遅い歩みにこそむしろ著者の誠実さがあらわれている気がする。

 社会学者として沖縄で体験したことや自分が遭遇した人びとの挿話を書き記す。あるいは歴史的な大きな物語にも言及する。どのような話をするにせよ、そこから系統立てて一つの提題に収束させていくわけではないことは、話題になった『断片的なものの社会学』と同じスタイルかもしれない。しかしそこから沖縄の人びとの生き生きとした日常的なすがた立ち上がってくることも確かである。それは加藤秀俊のいう「世間話の延長」としての社会学のありかたを想起させもする。

 むろん個々の挿話から岸なりの仮説めいたものは提示することも忘れていはない。たとえば、あるところでは沖縄の「自治の感覚」について述べる。紙ナプキンでバレリーナをつくるタクシーの運転手。突然路肩に車を止めて「もう降りましょうね」と言い、そのまま帰宅する運転手。彼らの自由なタクシーの営業ぶり。あるいは図書館で寒さを訴えると私物のストーブを足元に置いてくれた職員。彼らの仕事ぶりに「自治の感覚」を見出すのだ。

 また別のところでは、沖縄の自立的な経済成長について述べている。

……戦後の沖縄の経済成長と社会変化は、おそらく米軍の存在がなくても、自分たちの人口増加と集中によって成し遂げられただろう。このことをさらに言い換えれば、次のようになる。沖縄は、米軍に「感謝する」必要はない。この成長と変化は、沖縄の人びとが、自分たち自身で成し遂げたことなのだ。(p110)

 そうした沖縄の特質や歴史を語りつつも、随時、みずからの語りの方法について自己言及的に省察を加えていくところが本書の大きな特徴でもある。沖縄を語るとき、学術的にいえば本質主義にも構成主義にも偏らない態度が可能なのかが自問自答されるのだ。

 私は、沖縄的なものは、「ほんとうにある」と思っている。あるいは、もっと正確にいえば、ほんとうにあるのだということを私自身が背負わないと、沖縄という場所に立ちむかうことができないような気がしている。
 でもそれは、文化的DNAとか気候風土とか、そういうことではなくて、おそらくはもっと世俗的なものと関係あると思っている。また、そのように世俗的に語らなければならない、と思っている。特に、ナイチャーとしての私は。(p187)


 さらに岸は「沖縄を語ることを考える」というメタレベルに立つことの「政治性」についても指摘する。

 どのように語ればよいか、ということについて、はっきりとした正しい答えは存在しない。ただここでは、この、どのように語るにしても私たちは何らかの意味で政治的になってしまう──南の島への素朴な憧れも含めて──ということについて、もう少し考えてみたい。
 どう語っても政治的になってしまう、ということが、言いかえればつまり、私たちの沖縄についての語りが、その語り方にかかわらず常に政治的な場にひきつけられ、そこから自由になりえない、ということが、それがそのまま日本と沖縄との社会的な関係の、ひとつの表れになっているのである。
(p240〜241)


 ここでは沖縄を語ることの困難は、時に社会学を実践することの困難とも重ね合わされているようにも思う。そしてそのうえで「言葉というものが、あらゆる政治性から自由でありえないとしても、私たちにできることは、まだあるはずだ」と岸は考えるのだ。その時、「日本がこれまで沖縄にしてきたことの責任を解除するような方向で語らないこと」と銘記している点は何よりも重要な前提だろう。
[PR]
by syunpo | 2018-08-06 21:32 | 社会学 | Comments(0)