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ブックラバー宣言

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国語学者による愉しい“フィールドワーク”〜『日本語大好き』

●金田一秀穂著『日本語大好き キンダイチ先生、言葉の達人に会いに行く』/文藝春秋/2016年6月発行

b0072887_18121213.jpg 国語学者の金田一秀穂が「言葉の達人たち」十三人と対談した記録である。対談相手は、加賀美幸子、桂文枝、谷川俊太郎、外山滋比古、内館牧子、安野光雅、ロバート・キャンベル、きたやまおさむ、三谷幸喜、出口汪、糸井重里、土井善晴、吉本ばなな。

 昨今の日本語の乱れを嘆く類の議論がかなり弾んでいるのだが、それらは私にはいささか退屈だった。そんなわけで玉石混淆の中から私的におもしろく感じられたものを以下に紹介する。

 ロバート・キャンベルは、日本のモダニズムを生み出す源流となった、日本文化や江戸時代以前の「くずし字」、漢文の素養などを現代日本人が忘れてしまっていることを惜しむ。古文や漢文がなぜ敬遠されるようになったのか。

 明治を境にして、日本語に圧倒的な断絶があるからだと思います。明治維新後の近代化によって言葉もその表記も大きく変わりました。だいたい、江戸時代に書かれたもので、いま活字で読むことのできるものは恐らく全体の一割にも満たない。版本や写本など、多くがくずし字のまま放置されている。(p116)

 英語の場合は、二百年前、三百年前の作品を手軽に文庫本で読むことができるのに、日本語ではできない事態は「もったいない」。それにしても「日本語自体がとんでもないビッグデータを蓄積しているのに、くずし字が読めないためにアクセスできない」ことを外国の研究者から提起されるのはいささか恥ずかしいことではないか。

 きたやまおさむは、精神分析と言語の関係を語って奥の深い議論を展開している。以下のような発言は広く一般社会にも通じるものだろう。

 第三者にわかりやすい言葉が重視されて、一人だけでもいいから通じればいい、わかる人にわかってもらえればいいという発話が控えられるようになっていると思うんですね。
 精神医療で問題となるのは、患者が口にする、一見 “訳のわからない” 言葉をどう受け止めるかです。(p130)

 言葉というものは、喋って相手にぶつけることで感情をコントロールすることのできる装置です。だから、口喧嘩や悪口雑言だって捌け口として大切。(p131)


「あれかこれか」と凝り固まって考え慌てるのではなく、「あれもこれも」と余裕をもって二股をかける、まずは二重人格的になるべきだという忠言は人が精神的な袋小路に入るのを防いでくれるかもしれない。

 料理研究家・土井善晴は和食の素晴らしさを言葉で表現することの重要性を力説して、本書のなかでは異彩を放っている。柔らかで上品な関西弁はテレビ番組でもおなじみだが、「日本語上手は料理上手」という標題が土井の考えを端的にあらわしているといえようか。

 日本って、食べ物についての議論が無さすぎですよね。例えばフランス人なんて、ワイン一つとっても、色んな表現方法があるわけじゃないですか。「濡れた子犬のような香り」とか「蒸したバナナ」とか。(p201)

「これまで当たり前だと思って、言葉にしなかった」という日本の料理文化のあり方に対する料理人からのささやかな問題提起。人は料理を〈美味しい/不味い〉という観点のみで評価しがちだが、それ以外にも料理には楽しみ方があると土井はいう。美味しくないものの中にも楽しみがあるのだ。

 苦いものって、美味しくないですよね。でも苦くても食べるのは、どこか自分たちで刺激が欲しいと思っているんです。白米の方が絶対に美味しいのに、雑穀のような口当たりの悪いものを食べる。単に健康にいいからだけじゃないんです。(p202)

 冒頭で「フィールドワーク」と記しているとおり、金田一はあまり前に出ず、聞き手の役回りに徹しているような印象である。対談相手に気持ち良く喋らせるという点では、なかなかの聞き上手といえるかもしれない。
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by syunpo | 2018-10-28 18:21 | 日本語学・辞書学 | Comments(0)

予測不可能な未来に向けて〜『自由のこれから』

b0072887_1984052.jpg 技術の進化は私たちの生活を便利にしてくれたけれど、いやそれゆえに自分で選択する機会を縮減しているようにも思われる。ネット上でワンクリックするだけで読みたい本がすぐに届けられ、次にアクセスした時には推薦書がぞろぞろと画面に表示される一方、店頭で偶然目にした本を衝動的に買うというようなことが少なくなった、というように。

 ──人間の自由意志はどこへ向かうのか? その問題を平野啓一郎が多角的に考えていく。三人の異なる分野の専門家との対論をはさんで、前後に平野の問わず語りの論考を配置するという構成をとる。対論の相手は、製品デザインを手がける田川欣哉、法哲学者の大屋雄裕、システム生物学者の上田泰己。

 田川はデザインエンジニアリングという新しい手法で、ソフトウェアからハードウェアまで幅広い製品のデザインと設計を手がける人物。対論では、テクノロジーと人間との関係から近未来社会における自由を考える。

 ちょっとした刺激や不便をデザインの中に埋め込むことで、人間はより健康になれるかもしれない。そういう観点から見ると、いわゆるアフォーダンスや人間工学のように、客観に預けることが正義のように言われていたのが、ここ十年、二十年だったと思うんですけど、それもある程度一巡して、次のタームに向かい始めているところがありますね。(田川、p59)

 これからのキーワードの一つは「混在」だと田川はいう。SFで描かれているようなピュアな都市は多分実現しない。ゆえに継続性の中で新しいテクノロジーを導入していかなければならない。それは新旧のテクノロジーが混在する状況である。「その混在状態を、誰がどういうやり方で補助線を引いていくかというところなんですよね」。

 社会の多様性・複数性を前提にする田川の考え方は、個人レベルでの多元性を謳歌せんとする平野の「分人主義」とも響き合うものだろう。

 大屋との対論では、主権者たる国民の不安とセクリュティ政策との関係が自由のあり方を決定することを確認していく。大屋自身も「自由」に関する法哲学的な考究をつづけてきた研究者なので、本書の趣旨にもっともフィットした議論になっているように思う。

 自由がどこまで残るかというのは、人民がどこまで不安に耐えて、実際の危険と安全をマネージできるかという心の強さ次第ということになると思います。(大屋、p101~102)

 大屋はまた業界団体や利益団体などの中間団体の解体を否定的にとらえている。すなわち「中間団体を解体していった結果として、バラバラの個人からなる多数者の声が政治プロセスに流入してくる。その圧力を止めるものがどこにもなくなってしまった」と。

 むき出しの個人だからすぐに煽られる。それが現代のポピュリズムのすがただと大屋はいう。いかに社会の組織性を再建するか。古くて新しい課題が来るべき日本社会にあらためて突きつけられているといえそうだ。

 上田は、概日時計(体内時計)や睡眠・覚醒リズムなどをテーマに生命の時間の問題に取り組む研究者。対論では遺伝と環境のあいでゆれるヒトのあり方があらためて議論される。遺伝か環境かという問題は、文学的には決定論か自由意志かという問いに置き換えることができるだろう。

 上田によると概日時計は細胞の中に存在していてほぼ全身に分布している。それはヒトが生きていくうえで有効な「環境予測システム」なのだという。ただしガチガチにシステム化されているわけでもなく柔軟性のあるものらしい。生物学の最前線の話は興味深い。同時に科学の限界や世界の不確定性を繰り返し強調する上田の語りにむしろ一つの知性のあるべき姿を感じた。
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by syunpo | 2018-10-26 19:15 | クロスオーバー | Comments(0)

近代日本を体現した二人の同窓生〜『夏目漱石と西田幾太郎』

b0072887_18232046.jpg 一九〇一年七月二二日、ロンドンに留学していた夏目漱石のもとに、金沢に住んでいた西田幾多郎から手紙がとどく。その手紙にどのようなことが書かれていたかはわからない。しかしこのやりとりを糸口に、著者は二人の間に多くの共通点があったことを明らかにし、彼らを包みこんでいた時代環境やネットワークを検証していく。これは近代日本を体現していたともいえる二人の知的巨人の精神史的評伝である。

 漱石と西田は何よりも東京大学の同窓生であった。漱石は一八九〇年に帝国大学文科大学英文科に入学し、三年後には大学院に進んだ。西田は一八九一年に帝国大学文科大学哲学科選科に入学した。選科生とは今日でいえば聴講生のようなものだという。ただし在学中は「お互いに顔を知っている程度」の関係でしかなかったらしい。

 小林はまた二人には「禅」に打ち込んだという共通体験のあったことに言及する。西田が本気で禅と取り組むのは帝大選科生になってからのことで、一八九一年、鎌倉円覚寺の今北洪川のもとで修行を始めていた鈴木大拙を訪ねたのが最初。一方、漱石は友人・菅虎雄の勧めで一八九四年末から正月明けまで円覚寺に参禅した。ただしこの時すでに洪川は亡くなっており、西田や大拙とはすれちがいとなったようだ。

 いずれにせよ「禅」は二人の作品には様々な形であらわれていることは確かである。漱石に関しては『門』において参禅体験が活かされているのは有名だろう。そのほか『我輩は猫である』『草枕』などの初期の作品にも、多く禅に関する言葉や人名が出てくる。
 漱石に比べると西田の禅は本格的。禅における無字の公案を自分の携わる哲学の分野で考えたといっていい。西田は当時の哲学の中心をなす認識論、存在論、判断論、といった分野に「無」を導入しようとしたのである。

 そして、二人はともにベストセラーの著者として文壇・論壇にデビューし、さらには広く一般読者の間にもその名が知られるようになった。今でも難解をもって鳴る西田の『善の研究』が広く国民に読まれるようになったのは、当時の新興出版社である岩波書店によって再販されたことが大きい。同時に岩波は漱石の全集をいちはやく手がけてもいる。

 個人的にはほとんど直接交流のなかった漱石と西田が、図らずも岩波書店というプリント・メディアの場で出会っていたということ、そしてそのメディアのもたらす力によって、あの難解な『善の研究』という哲学書がベストセラーにまでのしあがったという数奇な縁は知っておいていいだろう。(p127)

 ところで、前半では二人に共通する心性として「反骨精神」や「独立心」をキーワードとして論じられている。

 漱石にも西田にも「父親の欠落」ともいうべき生い立ちにおける問題があった。「父親の欠落」によって超自我の形成が弱い場合には、戒めや罰への怖れが少ないだけ自己抑制が弱くなりがちだが、逆にいえば、弱い自己抑制は自己主張や反発心と合流しうる。その観点から、小林は二人に「人並み以上」の反骨精神や独立心を見出すのだ。とりわけ西田の反骨心は四高在学中に発揮された。上からの押しつけ的な校則を嫌って退学処分を受けた挿話に小林は彼の反骨心をみている。

 ところが太平洋戦争が近づくと、西田と京都学派は軍部や彼らの周辺の人々に目をつけられる。一種の恫喝を受けながら、戦争体制に協力していくことを余儀なくされた。とりわけ京都学派の戦争加担責任は戦後に厳しい批判の対象となったが、その経緯をみると釈明の余地がまったくないというわけでもなさそうである。

 いずれにせよ、西田の独立心は戦時においても完全に貫き通すことは困難だっただろう。もし漱石が長生きしていたら太平洋戦争の時代をどう生きただろうかと、つい余計な想像をしてしまった。

 二人を並べて論じることで新たな視座が開けるというところまではいかないと思うが、明治日本の優れた知性をこのように比較しながら読み直すことには一定の意義があるかもしれない。
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by syunpo | 2018-10-23 18:31 | 思想・哲学 | Comments(0)

人間はなぜ〈男〉と〈女〉に分類するのか〜『はじめてのジェンダー論』

●加藤秀一著『はじめてのジェンダー論』/有斐閣/2017年4月発行

b0072887_1991240.jpg「人間には男と女がいる」という認識は一見自明であり自然なことであるように感じられる。しかし実際には私たち人間がそのような現実を社会的につくりあげている。ではどのようにつくりあげているのか。本書ではその問題がメインテーマとなる。

 ジェンダーとは何か。それは「社会的性差」と訳されることがある。「性差には社会的なものと生物学的なものがあり……」との解説のあとにそのように規定されるようである。しかし、社会学や法学、教育学などではジェンダーを「性差」という意味で用いることはむしろ少ないらしい。

 そこで本書の定義は以下のようなものとなる。

 私たちは、さまざまな実践を通して、人間を女か男か(または、そのどちらでもないか)に〈分類〉している。ジェンダーとは、そうした〈分類〉する実践を支える社会的なルール(規範)のことである。(p7)

 以上の定義から二つの論点を取り出すことができる。一つは「〈分類〉する実践とはどういうことを指すか」。もう一つは「その実践を『私たち』が行なうことの意味」は何かという問題である。

 トランスジェンダーや性分化疾患などの実例を引きながら、性別二元性社会が自明なものではないことを説いていく筆致は明快だ。そのうえで性別の自己決定権という概念の解説に向かうのも自然な流れだろう。

 性自認と性的指向にまつわる問題に関しては、とりわけ興味深く読んだのは、自民党が二〇一六年に発表した文書「性的指向・性自認の多様なあり方を受容する社会を目指すためのわが党の基本的な考え方」に言及した箇所である。

「まず目指すべきは、カムアウトできる社会ではなくカムアウトする必要のない、互いに自然に受け入れられる社会」であるという文言を留保つきで評価しながら、次のくだりに懐疑を挟んでいるのは注目に値する。すなわち「性的指向・性自認の多様性を認め受容することは、性差そのものを否定するいわゆる『ジェンダー・フリー』論とは全く異なる」と述べている点だ。「ジェンダー・フリー」論が「性差そのものを否定する」というのは「悪質な誤解ないし曲解」だという。

 そのような「曲解」に基づいて男女平等のためのさまざまな教育実践をしばしば自民党の政治家たちが弾圧してきた。このようなあからさまな矛盾を克服していくつもりがあるのかどうか、著者は疑義を呈するのも当然だろう。これは、今年になって杉田水脈が「新潮45」誌上に発表した論考に発する一連の騒動をみれば、著者の疑義がけっしてためにするものではなかったことがわかる。本書の指摘は自民党のそうした欺瞞を予告したと読むこともできよう。

 また加藤は、生物学的性差を肯定することに対する警戒心には十分に合理的な理由があるとも指摘する。生物学的性差という観念によって性差別を正当化し、性役割規範を固定化することが繰り返し行われてきた歴史があり、かつそうしたことが今後も繰り返される危険はなくなってはいないからだ。

 実際、自然科学に潜むジェンダーバイアスを指摘している点はとても勉強になった。たとえば「哺乳類」という動物分類学的カテゴリーを確立したのは、リンネだが、彼は母親自身による母乳育児を推奨する社会運動に関わっていたという。「どうやらそこには、客観的事実への謙虚な姿勢よりも、リンネという個人の価値判断が色濃く反映されていたようです」。

 リンネの事例は古いものだが、生物学的な語彙をジェンダーの強化に利用する言説は今もありふれている。「男女はこうあるべき」という価値判断をもっともらしく見せかけるための道具として科学的知識が利用されることがある。これはジェンダー論にとって重要な認識だろう。ポップ心理学などもその典型だという。

 性暴力に関する考察にも多くの紙幅が費やされている。昨今、政治の場で社会に混乱をもたらしたと否定的に論じられることもあるセクシャル・ハラスメントについては、その概念の発見が「性暴力被害という問題が問題として認識される可能性の増大であった」と積極的な評価を与えていることはいうまでもない。

 さらに性教育への政治介入については、介入の根拠がきわめて乏しい例の多いことを指摘している。性教育の現場では「自分で考え、自分の意見を持ち、主体的に行動できるようになること」を目指しているのだが、これはとりもなおさず民主主義の基本理念に重なるものである。子どもに性知識を教えることをやみくもに反対する政治家たちは、そのような教育が気に食わないらしい。すなわち民主主義の基本理念そのものに通じる教育を抑圧しようとしているのだという加藤の指摘は正鵠を射ているように思われる。

 このほか、男女の賃金格差の問題やリプロダクティブ・ヘルス&ライツ(生殖に関わる諸権利と健康)などなど様々な論点に目配りがきいていて、ジェンダー論の入門書としては最適の本ではないかと思う。
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by syunpo | 2018-10-18 19:17 | 社会学 | Comments(0)

与太郎はバカじゃない!?〜『米朝置土産 一芸一談』

●桂米團治監修『米朝置土産 一芸一談』/淡交社/2016年3月発行

b0072887_1921811.jpg 桂米朝は若い頃にはテレビ・ラジオによく出演していた。それで名前を知った視聴者が落語会に足を運ぶということも少なくなかっただろう。後に人間国宝となる稀代の落語家はマスコミの力を活かすことにも巧みだったように思う。

 さて本書は一道一芸に優れた人を招いて対談する朝日放送のラジオ番組を書籍化したものである。存命中の一九九一年に『一芸一談』として第一弾が刊行されており、本書はその第二弾にあたる。

 対談の相手は、夢路いとし・喜味こいし(漫才師)、菊原初子(地歌箏曲演奏家)、朝比奈隆(指揮者)、吉村雄輝(上方舞吉村流四世家元)、小松左京(作家)、島倉千代子(歌手)、小沢昭一(俳優)、橘右近(橘流寄席文字家元)、高田好胤(薬師寺管長)、阪口純久(南地大和屋四代目)、立川談志(落語家)、茂山千之丞(大蔵流狂言師)。文化人米朝の交友の広さを伝える錚々たる顔ぶれだ。

 夢路いとし・喜味こいしは大阪漫才の至宝だったと今でも思う。あのゆったりとした間合いでトボけた笑いを醸し出す話芸はまさに一代限りのものだった。本書では経歴にまつわる昔話が中心だが、後半の芸談で真っ先に客いじりを戒めているのは正統派漫才の本道を指し示すことばであるだろう。

 地歌箏曲演奏家の菊原初子の語りは、厳しい祖父の懐古談にしても幼少期の遊びの思い出話にしても、すべてが上方の調べのように聴こえる。その大阪弁は古き良き時代の情感を伝えて実に麗しい。「浄瑠璃」には「じょおろり」のルビが振られている。活字で読むだけでなく一度生の声を聴いてみたかった気がする。

 小松左京とのトークも息の合ったやりとりで調子良く読ませる。登場人物の命名について米朝が何気なく振ると、小松が名前に関する仕掛けを次々と披露し始めるのが愉しい。

 お茶屋でもあり料亭でもある大和屋の四代目女将・阪口純久の昔話も味わい深い。古式ゆかしい芸事を守ると同時に、昭和十年代の改装時には冷暖房やエレベーターを設置するなど時代の先端を行くような店構えも必要とされたらしい。宝塚歌劇は大和屋の「少女連」をヒントにしてできたものというエピソードは初めて聴いた。ちなみに本拠となる南地大和屋は二〇〇三年に閉店している。

 談志と米朝の〈笑い〉をめぐる談義は、千葉雅也の『勉強の哲学』におけるユーモアとアイロニーの葛藤を想起させる内容といえば大げさになるだろうか。与太郎はバカじゃないという認識で一致するのも面白いし、観客に媚びない姿勢をはっきり打ち出している点には大いに共感する。東西の両名人による出色の落語論。

 それにしても、米朝が明治以降の文化教育に関してやんわりと批判する場面が繰り返し出てくるのが印象に残った。「日本の明治からこっちの学校教育で自分のところの音楽を、こんなに否定してしもうた国はないと思いますな」。

 日本の歴史や伝統を大切にしようと呼びかける今どきの政治家や言論人は、なぜか戦後のあり方を標的にすることが多いようだが、むしろ歴史や伝統の破壊は明治維新政府によって加速された部分が大きいのではないか。その意味では、桂米朝は良い意味での文化保守主義を体現していた粋人ではないかとあらためて感じた。

 さらに付け加えれば、本書からは落語家としての話芸のみならず話相手を気持ち良く語らせることにさりげなく才を発揮した米朝の聴き上手を読み取ることもできるだろう。その意味では、落語とはあらゆる文化を吸収した大衆芸能ともいえるのかもしれない。
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by syunpo | 2018-10-08 19:08 | 古典芸能 | Comments(0)

現代日本の最大のリスク〜『アベノミクスによろしく』

●明石順平著『アベノミクスによろしく』/集英社インターナショナル/2017年10月発行

b0072887_18222743.jpg アベノミクスは大失敗に終わっている。現代日本の最大のリスクはアベノミクス。本書のメッセージは実に明快だ。

 アベノミクスの三本の矢とは「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」である。本書ではとくに第一の矢である金融緩和政策を中心に論じている。大胆な金融政策とは「日銀が民間銀行にたくさんお金を供給してデフレを脱却する」というものだ。

 その結果はどうであったか。一口でいえば金融緩和は円安を引き起こし、それが増税との合わせ技で物価を急上昇させ、消費を異常に冷え込ませた。アベノミクス以降の実質GDPの成長率は、三年かけても2%にすら届かず、民主党政権時代の約三分の一しか伸ばせなかった。

 さらに重大な問題がある。二〇一六年に内閣府はGDPの算出方法を変更し、それに伴い、一九九四年以降のGDPをすべて改定して公表した。この「改定」がどうにもいかがわしいというのだ。

 改定の理由は「2008SNA対応によるもの」と「その他」となっている。GDPの算出について準拠する国際基準が「1993SNA」から「2008SNA」というものに変更された。以前の基準との違いは、研究開発費などが加わることである。問題は「その他」のかさ上げ額がアベノミクス以降だけが桁違いに突出している点だ。この改定によって、アベノミクス失敗を象徴する五つの現象のうち四つが消失し、二〇一六年度の名目GDPは史上最高額を記録したことになった。

 明石は、以上の事実から「『2008SNA対応』を隠れ蓑にして、それと全然関係ない『その他』の部分でかさ上げ額を調整し、歴史の書き換えに等しい改定がされた疑いがある」と述べている。

 とはいうものの、部分的にはアベノミクスの成果を指摘する経済学者は少なからずいる。安倍政権に批判的な論客もそのなかに含まれる。たとえばよく言われるのは雇用改善である。

 しかし、それは生産年齢人口の減少、医療・福祉分野の大幅な需要拡大、雇用構造の変化によるもので、民主党政権時代から続いていた傾向だ。

 また正規雇用者の増加についてはどうか。正規社員の男女別比率をみると、女性の正規社員が増えていることがわかる。これは労働契約法の改正が影響している。非正規でも五年を超えて雇った場合は、その社員から申込みがあれば、正社員として雇うことが義務づけられた。ちなみにその法改正が公布されたのは二〇一二年、民主党政権の時代である。アベノミクスとは関係ない。

 円安の恩恵を一番受けた製造業ですら実質賃金は大きく下落した。賃上げ2%を達成できたのは、全労働者のわずか5%程度。労働組合組織率の低いことも影響して、そもそも日本は賃金が上がりにくい構造になっている。

「多くの場合、アベノミクスの前から改善傾向が続いている数字について、アベノミクスの『成果』とされてしまっている」ことに明石は注意を促すのだ。同時に「アベノミクスのせいで悪化したと言われている数字についても、同様に鵜呑みにしてはいけない」ことを指摘しているのは公正な態度というべきだろう。

 増税や財政出動に関しては詳しく述べていないのだが、やや引っかかる記述も見受けられる。たとえば以下のような発言だ。

 ……長い目で見ると、借金が返せない状態にならないように、増税をして、いろんな支出を削らないといけない。だけど、それをやると選挙で負けちゃう。(p193)

 これを裏返せば、増税と緊縮財政については本書では推進する立場をとるということになる。増税はその中味が重要であるからこれだけでは何ともいえないが、法人税の引き上げではなく、消費増税を含むようなものであるならば批判は多いだろう。また緊縮財政に関しても、市場全体がさらに冷え込み、税収を減少させ、かえって国の借金を膨らませるという意見は少なくない。

 アベノミクスを全面否定するのは良いとしても、それに替わる経済政策が間違っていたなら元も子もない。アベノミクスを葬り去った後の経済政策については、さらなる議論が必要だろう。
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by syunpo | 2018-10-07 18:32 | 政治 | Comments(0)

人間にしかできないこととは〜『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』

●新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』/東洋経済新報社/2018年2月発行

b0072887_19522757.jpg AIは神に代わって人類にユートピアをもたらすことはないし、その能力が人智を超えて人類を滅ぼすこともない。ただし人間の仕事の多くがAIに代替される社会はすぐそこに迫ってきている。本書は、東大合格を目指す人工知能「東ロボくん」プロジェクトを進めてきた数学者の立場から、来るべき未来社会への警鐘と対策を示すものである。

 AI楽観論者が言うように、多くの仕事がAIに代替されてもAIが代替できない新たな仕事が生まれる可能性はある。しかし、たとえ新たな仕事が生まれたとしても、その仕事がAIに仕事を奪われた勤労者の新たな仕事になるとは限らない。現代の労働力の質がAIのそれと似ているからだ。つまり、AIでは対処できない新しい仕事は、多くの人間にとっても苦手な仕事である可能性が非常に高いといえる。

 AIの苦手な仕事は何か。AIは基本的に計算機である。逆にいうと数式に翻訳できないことは処理できない。AIが扱えるのは、論理・確率・統計の三つの言葉だけ。ゆえに文章の意味を理解することもできない。AIが代替できない仕事とは「高度な読解力と常識、加えて人間らしい柔軟な判断が要求される分野」といえるだろう。

 ところが、人間の方もどうやら「高度な読解力」のレベルが相当あやしいことが明らかになったのである。著者が実施した「基礎的読解力調査」の結果をみるとそう結論せざるをえないらしい。

 本書ではその調査の問題や回答の様子が詳しく報告されている。「係り受け」「照応」「同義文判定」という自然言語処理で盛んに研究されている能力のほか、「推論」「イメージ同定」「具体例同定」の能力を調べたものである。詳細は省くが、それらの試験の結果、端的に中学・高校で使う教科書が読めない生徒がことのほか多いことが確認されたのである。

 ならば早急に読解力を養う教育の構築が必要だが、効果的な方法は今のところ見いだせていない。たくさん本を読めばおのずと読解力が身につくとも考えがちだけれど、著者の調査では読書量と読解力との間には相関関係は見いだせないという。

 現行の教育はもっぱらAIで代替できるような人材を養成してきた。しかしいざAIの不得手な仕事をこなせるような人材を育てるとなると、これもまた難題なのである。

 著者が思い描く未来図は、企業が人不足で困っているのに、社会には失業者があふれているという寒々しい光景だ。

 そうした事態を回避する方策として著者は「奪われた職以上の職を生み出す」ことを挙げているのだが、それは言うほど簡単ではないだろう。しかもそこで批判の多い「ほぼ日刊イトイ新聞」の怪しげな物語商法を実例に挙げているのは、いただけない。
 むろんそのことで本書の価値を貶めるつもりはない。それは著者の専門分野を超えた国民的な課題である。AIの研究者に未来社会の労働環境について具体的な提案を期待する方が酷というものだろう。

 というわけで、AI社会の実態と将来性を考えるうえでは極めて有意義な本であることは間違いないと思う。
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by syunpo | 2018-10-02 20:01 | 科学全般 | Comments(0)