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ブックラバー宣言

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物事がひとりでに片づくことはない〜『終わりと始まり2.0』

●池澤夏樹著『終わりと始まり2.0』/朝日新聞出版/2018年4月発行

b0072887_19555938.jpg 文学者にもし社会的役割があるとすれば、そのひとつは一昔前なら一般庶民の良識や常識を疑ってみたり、斜め上から世間を観察したり、というようなことがあったように思う。作家のエッセイには《無作法のすすめ》のようにしばしば挑発的な書名が付けられ、凶悪事件の犯人にエールをおくる言説が平然と雑誌に掲載されるようなこともあった。文学者のそのような言動を手放しに肯定するつもりはないけれど、それを読んで「不謹慎」といちいち眉を顰めたりする読者もあまりいなかった。

 ところが最近はポリティカル・コレクトネスの考え方が浸透したこともあってか、政治的倫理的な「正論」が強く求められるようになってきた。文学者もまた野暮を承知で生真面目に民主主義や憲法の理念を説かなけれなならない時代がやってきたのだ。

 その背景として公権力者たちの所業が異様なレベルにまで非常識化してきたことが考えられる。文学者が斜に構えていられるのも平和で安穏な社会があってこそ。ネットで一般読者が容易に意見を発信することが可能になり、作家への苦情がダイレクトにとどきやすくなったことも影響しているかもしれない。以前よりも文学者のお行儀の良い文章や発言を目にする機会が増えた(と感じられる)御時世は、幸福なのか不幸なのか。

 さて、本書は池澤夏樹が朝日新聞に連載したコラムを書籍化したものである。収録されているのは、二〇一三年四月から二〇一七年十二月までの掲載分。話題は多岐にわたるが、震災・原発事故や世界情勢に言及したものが多く、安倍政権への辛辣な批判も随所にみられる。先の文脈に照らすと、おおむね「正論」調で綴られたコラムといえばいいだろうか。政治家たちの非常識や暴走を糾弾するような調子が基調になっている。

 原発輸出に対して「今から原発を売るのは真珠湾の作戦計画を売るようなもの」と鋭く批判し、「人の記憶にも半減期がある」と原発事故の風化への警鐘を鳴らす。
 白井聡や矢部宏治ら若い書き手の著作を引用しながら、日本の主権のあり方について憂慮を示し、その回復の必要性を訴える。その一方、最近ではリベラリストや左翼論客のあいだでも好意的に論及されることの多い近代保守思想を自認している中島岳志に対しては「そこに欠けているのは怒りだ」と忌憚なく注文をつけているのも目を引く。

 中東やアフリカの混乱など海外の政治情勢に言及する際には、現地の友人である固有名が出てきたりして、けっして机上のコメンテイター風にならないところにリアリティが醸し出される。池澤が見ているのは統計上の数字やデータではなく、かけがえのない一人ひとりの個人なのだ。

 むろんそうした世界の喧騒や混迷ばかりを論じているわけでもない。逗子海岸映画祭の祝祭感を言挙げし、アボリジニの芸術を愛で、木下順二原作の舞台《子午線の祀り》の世界に遊ぶ。
 政治と経済は分断するが文化は結ぶ。文学によってアゴラ(広場)を活性化すること。ケレン味なく文学者としての矜持を示して締める姿勢には、賛同したく思う。

 ちなみに書名は末尾に引かれているヴィスワヴァ・シンボルスカの詩《終わりと始まり》から採ったもの。

 戦争が終わるたびに/誰かが後片づけをしなければならない/物事がひとりでに/片づいてくれるわけではないのだから

 誰かが瓦礫を道端に/押しやらなければならない/死体をいっぱい積んだ/荷車が通れるように(沼野充義訳)


 たいへん印象的な詩篇だが、「戦争」は、たとえば「原発」にも置き換え可能かもしれない。その意味では現代の日本人にとっても切実な詩というべきだろう。
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by syunpo | 2018-11-27 20:00 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

世界は不完全だからこそ豊かなのだ〜『歩くような速さで』

●是枝裕和著『歩くような速さで』/ポプラ社/2013年9月発行

b0072887_10445273.jpg 是枝裕和にとっては初めてのエッセイ集。淡々とした文章だが、そここに映画監督・ディレクターとしての矜持や心構えが刻みこまれているので読み応えに不足はない。大塚いちおの絵がふんだんに使われていて、読むだけでなく見ても愉しい本になっている。

 新作のキャンペーンをすると作品に込めたメッセージを質問されることが多いらしい。映画に対するよくある愚問の一つだが、是枝はさり気なく「メッセージ(という言葉をあえて使うが)の受け渡しがあるとすれば、それは僕が渡しに行くのではなく、受け取りに行くのだ」と記す。人びとのなかで「まだ言葉にならず無意識の中に眠っている声に耳を傾けに行くのだ」と。

 是枝の作品は実際に起こった事件や出来事からインスパイアされたものが少なからずある。それゆえにか「社会派」と思われた時期があった。是枝ワールドには英雄は出てこない。単純な勧善懲悪の物語もない。

 僕は主人公が弱点を克服して家族を守り、世界を救うといった話が好きではない。むしろそんなヒーローが存在しない等身大の人間だけが暮らす薄汚れた世界が、ふと美しく見える瞬間を描きたい。その為に必要なのは歯を食いしばることではなく、つい他者を求めてしまう弱さなのではないか。欠如は欠点ではない。可能性なのだ。そう考えると世界は不完全なまま、不完全であるからこそ豊かだと、そう思えてくるはずだ。(p55)

「等身大」は是枝にとってははずせないキーワードといえるかもしれない。別のところでは演出をめぐって次のように書く。

 演出というのは演技指導だけを指すわけではなく、監督が10人いれば10通り存在するような曖昧なものだ。しかし僕の場合、目指しているものはひとつだけ明快にある。映画が描いた前の日も次の日も、その人間たちがそこで生きているように見えたいということである。劇場を出た人が映画の、物語の内部ではなく、彼らの明日を想像したくなるような描写。その為に演出も脚本も編集も存在しているといっても過言ではない。(p116)

 淡々と言葉を紡いでいくなかに深い味がしみているような筆致は、過剰な演出を退ける映画の作風と重なりあう。まさに珠玉のオムニバス作品を観たような読後感なのである。
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by syunpo | 2018-11-24 10:55 | 映画 | Comments(0)

ディストピアの中から浮上する文学の魔力〜『小説禁止令に賛同する』

●いとうせいこう著『小説禁止令に賛同する』/集英社/2018年2月発行

b0072887_20351516.jpg 時は二〇三六年。日本は東端列島と呼ばれ、亜細亜連合の一部になっている。語り手の〈わたし〉は元小説家で思想犯として獄に繋がれている身。一昔前のように言論の自由が失われた社会になったのだ。戦争の後、亜細亜連合の支配下に入った後も収監されたまま。

〈わたし〉は亜細亜連合が出した小説禁止令にいちはやく賛同の意思を表明し、紙と万年筆を与えられ、文章を書くことを許される。それは「やすらか」なる小冊子に掲載される。私たち読者が読むことになるのもその文章──という設定である。

 小説禁止令に賛同する──語り手は敗戦国の一員として、小説がいかに社会に害毒を与えるものであるかを力説して禁止令に迎合しようとする。
 当然ながら本作は小説ではなく随筆として執筆される。そうして〈わたし〉は随筆の可能性をうたいあげる。

 そもそも随筆の可能性はきわめて大きいのです。わたしたちが哲学書だと思っていても実は随筆だったということもある。例えば、わたしが学生時代から尊敬し続けていた、この東端列島を代表する批評家・柄谷行人は自らの作品の多くを随筆だと言っています。ひょっとしたら全部かもしれない。(p18)

 それに対して小説というものは「あまりに不誠実な文の塊」であり「まったくもって薄気味の悪い宇宙」ではないか。それは人生とはまるで異なった常識が通用する世界。確定の過去形を駆使して、読者を虚構による現実世界へ引き入れてしまう。しかも作者というものを隠しながら。

 ……こんな不気味な催眠的な暗示のような、いや主観の問題など超えてしまう錬金術のような、それでいて実に卑小で簡単な技からできている発明を、なぜ嫌悪し、恐れないのでしょうか。(p122)

 けれども小説の不誠実さを語っていくうちに、いつのまにかそれは秀逸な小説賛歌へと反転していく。というか、小説を糾弾する言葉はそのまま裏返せば、小説の魔力であり魅力であると読めるのだ。そうして〈わたし〉は数多の小説を引用するのと平行して創作を始める。架空の小説《月宮殿暴走》を。

 それにしても《月宮殿暴走》のなかで小説そのもののイメージを語りだすくだりはいかにも幻想的。かつて小説がこれほどまでに美しく語られたことがあっただろうか。

〈わたし〉の反語的な表現は管理当局にも的確に読解され、文章を書くたびに懲罰を受けているらしいことが、章末ごとの注釈によって示される。「軽度処置」「中度処罰」「薬物直接投与」……などなど。『月宮殿暴走』という風刺のきいた創作によって最後に〈わたし〉に下される処罰は?……どうか本書を手にとってご自身でお確かめいただきたい。

 いとうがこのような近未来のディストピア小説を書くについては、当然ながら今日の政治社会のありさまを強く意識していることは間違いないだろう。言論の自由は、油断していると簡単に脅かされる。書きたいことを書けず、書きたくないことを書かされる時代は、いうまでもなく不幸である。今日の状況をみるに私たちがそのような時代に突入しようとしていることは否定しがたい。そのような社会状況への警鐘という観点を重視する論評もあるようだが、上に記してきたように、私としてはむしろそこから立ち上がってきた小説論・文学論にこそ注目すべきだと考える。

 小説はいくら抑圧しても死に絶えることはない。なぜなら、それは必ずどこかで書かれ、どこかで読まれていくものだから。何よりもそのような小説の魔力を信じている点にこそ本書の真価があるのではないだろうか。
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by syunpo | 2018-11-22 20:37 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

不安な大衆が安住の世界観を求める危うさ〜『悪と全体主義』

●仲正昌樹著『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』/NHK出版/2018年4月発行

b0072887_21172072.jpg 世の中全体がきな臭くなってきた。排外主義や強権的政治手法が世界のあちらこちらで見られるようになり波紋を呼んでいる。そのような世界的な思潮にいかに向き合うべきなのか。

 仲正昌樹は一つのヒントとしてハンナ・アーレントを提示する。ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組み、全体主義の構造を歴史的に解き明かそうとした稀代の哲学者。本書では彼女の著作のなかから主に『全体主義の起原』と『エルサレムのアイヒマン』を取り上げ、アーレントが析出した全体主義のメカニズムについて読み取っていく。

 本書にいう全体主義とはもっぱらナチス・ドイツ時代の政治動向を指す。それは反ユダヤ主義と一体のものだった。

 アーレントは、ナチス時代の全体主義の構造を考察するにあたってヒトラーやホローコーストで重要な任務を担ったアイヒマンの特殊性ではなく、むしろ社会のなかで拠りどころを失った大衆のメンタリティに着目した。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が安住できる世界観を求め、吸い寄せられていく──その過程をアーレントは全体主義の起原として重視したのだ。

 とりわけアーレントの考察の非凡なところは、そもそも近代の国民国家のなかに差別感情を生み出す構造を見てとったことにある。「まさに国民国家がその発展の頂点においてユダヤ人に法律上の同権を与えたという事実のなかには、すでに奇妙な矛盾がひそんでいた」と。
 どういうことか。

 ……なぜなら国民国家という政治体が他のすべての政治体と異なるところはまさに、その国家の構成員になる資格として国民的出自が、また、その住民全体の在り方として同質性が、決定的に重視されることにあったからである。(p42)

 かつては「外」にあって憎悪の対象だったユダヤ人は、国民国家が形成される過程で「内」なる異分子となった。ユダヤ人を「内」に取り込むことが、実は先鋭的なユダヤ人「排除」の序曲となっていたのである。

 さらに、帝国主義が「人種」という概念を生み出したこともアーレントは指摘している。具体的に南アフリカにおけるオランダ人とイギリス人の覇権争いにからめて論じているのは説得的。南アフリカの支配権を握っていたオランダ人(ボーア人)は「人種」という概念にみずからの正当性をみようとしたのだ。

 ……危機的状況に追い込まれたボーア人が「非常手段」として生み出したのが「人種」思想だったとアーレントは考察しました。つまり、同じ人間の姿はしているけれど、我々=白人と、彼ら=黒人は「種」が違う。その違いに優劣の価値観を持ち込み、劣等な野性には暴力をもって対峙するほかない、と考えたわけです。(p73)

 国民国家という枠組みから展開された近代の帝国主義には最初から無理があったと、アーレントはいう。

 アーレントの考えによれば、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成し、それをベースとした「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義──ということになる。

 本格的な全体主義の形成に際しては、最初に記したように「大衆」が一つのキーワードになる。かつてはそれぞれの階級におさまっていた人々が大衆となって巷にあふれ出す。拠りどころを失った大衆に強く働きかけたのが「世界観」である。ドイツの場合「ユダヤ人が世界を支配しようとしている」という虚構の物語に基づく世界観で大衆をひきつけていった。このような世界観に立脚した国体はつねに手を加え続けなければ権力を維持できない。それはおのずと「運動」となる。アーレントによれば全体主義とは「運動」にほかならない。

 ナチスの全体主義支配で、議論によって人々が結びつく公的領域が崩壊すると、人々はますますプロパガンダのわかりやすい言葉に反応しやすくなる。そこでは時として道徳的人格が解体されていくこともありうる。その典型的な実例がアイヒマン裁判によって明らかになった。

 元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人虐殺の実務を取り仕切った人物。戦後しばらくたった後、潜伏先のアルゼンチンで捕らえられイスラエルで裁かれることになった。アーレントはその裁判を傍聴して『エルサレムのアイヒマン』を著したのである。

 アイヒマンには「特筆すべき残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対する滾るような憎しみもなかった」とアーレントは指摘した。たまたま与えられた仕事を熱心にこなしただけの平凡な官僚にすぎなかった、と。

 この著作でアーレントはユダヤ人の同胞から多くの批判を浴び、実際、多くの友人を失った。しかしながらアーレントが提起した「悪の凡庸さ」という概念は今なお多くの研究者によって引用されている。アイヒマンのような官僚を生み出してしまった社会構造やプロセスを冷静に見ようとした彼女の考察に多くの人が価値を見出しているからにほかならない。

 アーレントは分かりやすい政治思想や、分かったつもりにさせる政治思想を拒絶し、根気強く討議しつづけることの重要性を説いた。全体主義に対抗するための概念として複数性を重視したのはそのためでもあるだろう。

 アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は絶対的な「悪」を設定することで複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。(p189)

 複数性に耐えること。対立意見に耳を傾けること。言うは易く行うは難し、かもしれない。しかし過去の失敗を繰り返さないための簡便な処方箋などありはしない。アーレントの深い洞察は現代にあっても私たちの思考を煌々と照らし続けているというべきだろう。
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by syunpo | 2018-11-21 21:20 | 思想・哲学 | Comments(0)

弾けた文体の辛口記事〜『仕方ない帝国』

●高橋純子著『仕方ない帝国』/河出書房新社/2017年10月発行

b0072887_9463520.jpg 著者の執筆当時の肩書は朝日新聞の政治部次長。肩書とのギャップを感じさせる今風のカジュアルな弾けた文体がひとつの持ち味といえそうだ。もっとも内容以前にそこが非難の的になったりもしているようだが。

 論題はさまざまだが、あえてキーワードを一つピックアップするなら「自由」ということになるだろうか。自由をめぐって自由を求めて思考し行動する著者のすがたが本書の随所ににじみ出ているように思う。自由の観点からすれば、安倍政権の強権的政治も、上司のマウンティングも、世間の掟も、おしなべて批判や懐疑の対象となる。もちろんその基本姿勢に異存はない。

 後半に収録されているインタビューは人選に明確なコンセプトが感じられず、良くも悪しくも多方向からオピニオンを汲み取ってくる新聞の性格を反映している。白井聡や片山杜秀らの発言は彼らの著作を読んでいる者にはほとんど新味はないが、そのなかで特定秘密保護法案に賛同した長谷部恭男との丁々発止のやりとりは読み物としては面白い。

 ただそれにしても、こうして本になったものを読んでみると、紙面で読んだ時と比べてなんだかインパクトが薄まったように感じられるのは何故だろう。紙面では他のありきたりな文体で書かれた記事の中で、彼女独特の文体が異彩を放っているように思えたものだ。しかしこうして一冊の書籍となると、比較の対象となるのは彼女の同僚記者の退屈な文章ではなく、世界に広がるあまたの本となる。このようなスタイルの文章なら、あのコラムニスト、この作家の方が……となってしまうのは避けがたい心理なのか。読者というのはまことに勝手な存在なのである。
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by syunpo | 2018-11-18 09:47 | 政治 | Comments(0)

詩人がパフォーマーに近づくとき〜『対詩 2馬力』

●谷川俊太郎、覚和歌子著『対詩 2馬力』/ナナロク社/2017年10月発行

b0072887_19111969.jpg 谷川俊太郎と覚和歌子による詩のキャッチボール。連句・連歌の伝統をもつ日本の詩歌の歴史を振り返れば、連詩・対詩のような企ても自然なものと考えられ、実際、過去にもいろいろな試みがあったらしい。ただ現代詩の世界で書籍化できるレベルの完成度に達したのは本書が初めてかどうか知らないが珍しいのではないだろうか。

 谷川が、狭い読者層を対象にした難解な現代詩の世界に対する違和感から出発したことは折りに触れ本人が広言してきた。また詩の発表を活字媒体だけに限定せず、詩の朗読などライブ活動に注力してきたこともよく知られている。その意味では本書のようなスタイルの対詩集を出すことは谷川らしい実践ともいえよう。

 谷川はまえがきに次のように記している。

 詩はふつう独りで書くものですが、そのとき作者はどこかで読者を意識していると思います。独りで書く時には見えない読者が、ライブ対詩では目の前に見えている。その違いは小さなものではありません。(p3)

 本書は、そのようにして行なわれたライブ対詩の作品を収録するとともに、二人が取り交わしたいくつかの対談を挿入している。二人の創作活動とその舞台裏が一冊に凝縮されているといえばよいか。

 覚和歌子は詩人としてよりも作詞家としての印象が強いが、詩に関しては「朗読するための物語詩」というジャンルを開拓したことでも知られているらしい。谷川も対談のなかでそのことに言及して覚作品への関心の在り処を語っている。

 二人の詩のやりとりは、付かず離れず、絶妙の間合いをとりながら展開されていく。「相手の言葉に触発されて自分でも思いがけない言葉が出てくる」(覚)ことも詩の作り手にとっては対詩の醍醐味の一つなのだろう。

 ちなみに詩をつなげていくには、相手の一つの言葉を受けるような方法だけでなく、前句と対向する視点で付ける〈向付〉を用いたり、雰囲気でつなげる〈匂い付け〉をやったり、いろいろな技法があるらしい。

 末尾の作品にはフレーズごとに作者のコメントも付されていて、読解のヒントが示されている。現代詩の難解さに辟易している読者に対しても詩の可能性を感じさせるに違いない、ユニークな詩集といえるだろう。

 1 ランチタイムのざわめきの中に

   もつれている意味と無意味

   はるか遠くにたたずむ山々に向かって

   幼児がむずかっている (俊)

 2 山はいつもここにある

   森の呼吸を忘るるなかれ

   経済危機も温暖化も基地問題も

   高天原から見れば解決はちょろいのだが (覚)

 3 久しぶりの祖父の大言壮語の愛嬌に

   カナダの大学で学ぶ孫は生真面目に反論している (俊)

 4 ドミトリーのセントラルヒーティングが

   調子の良かったためしはなくて

   あっちからもこっちからも

   聞こえてくるパイプを叩く音

   それが宿題するときのBGM (覚)
   (p106〜107、〈駒沢通りDenny's Ⅰ〉より抜粋)

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by syunpo | 2018-11-17 19:17 | 文学(詩・詩論) | Comments(0)

無神論の立場から個の自律を説く〜『初期仏教』

●馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』/岩波書店/2018年8月発行

b0072887_1295926.jpg 仏教がインドに誕生したのは、紀元前五世紀頃のことである。
 その後、四〇〇〜五〇〇年の間に南アジア各地に伝播して、この地域を代表する宗教に成長していった。発祥の地であるガンジス川流域から大きく飛躍した仏教には紀元前後に重大な変容が起こった。それは南アジアと西方との関係が影響している。本書ではこの変容以前の仏教を「初期仏教」と定義する。

 初期仏教は、近代西欧で作られた「宗教」概念に照らせば「宗教」にあてはまるのかはなはだ疑わしいと著者はいう。そもそも初期仏教は全能の神を否定した。その意味では無神論である。人間の願望をかなえる方法を説くのではなく、むしろ自分自身すら自らの思いどおりにならないことに目を向ける。また宇宙の真理や原理を論じることもない。人間の認識を超えて根拠のあることを語ることはできないと初期仏教は主張する。

 初期仏教は有神論や宇宙の真理を説く代わりに「個の自律」を説く。超越的存在から与えられた規範によってではなく、一人生まれ、一人死んでゆく「自己」に立脚して倫理を組み立てる。そして生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説いたのだ。

 仏教誕生以前に成立していたアーリヤ人社会では、ガンジス川流域に都市化が起こり、都市化を背景として唯物論やジャイナ教などの思想が生まれていた。仏教の出家教団は、誕生直後から他の思想や信仰と競合し、様々な議論が交わされていた。仏教は、バラモン教やジャイナ教、唯物論と一部で共有する考え方をもっていたが、同時にそれらに対する批判をもって差別化をはかった。

 ところで、初期仏教からその後の段階へと進むことになった紀元前後の「変容」とは何だったのか。そのひとつとして挙げられるのは「口頭で伝承されていた仏典が書写されるようになったこと」である。

 口頭で、または後に書写して、仏典の伝承を担ったのは「部派」と呼ばれる出家教団の諸派である。そのため、部派の仏典を通さなければ初期仏教の思想を知ることはできない。

 ブッダは、自分が没した後は「法と律」を師とするように命じ、解脱した出家者たちは「法と律」をまとめ、仏典として伝承してきた、と仏教教団は主張している。それらは「結集仏典」と呼ばれる。結集とはブッダの教えを「共に唱えること」をいう。

 そのような「結集仏典」が後に「三蔵」として体系化され今日まで伝承されてきたわけである。結集仏典のなかでは、上座部大寺派、化地部、法藏部、説一切有部、大衆部の五部派のヴァージョンがすべてではないにせよ現存している。本書が依拠しているのは、いうまでもなくそのような結集仏典や諸部派の三蔵である。

 先に記したように、「主体の不在」あるいは「生存の危うさ」という視点で「自己の再生産」を批判的にとらえる仏教は、その究極目標として「自己の再生産」からの解放(解脱)を掲げる。いわゆる「輪廻」からの解放である。「再生しない者」こそが真に「高貴な者」だと教えたのだ。その詳しい内容についてここで安易に要約するのは控えるが、いずれにせよ、その点が先行する宗教との決定的な相違であり、仏教の核心といえる。「高貴な者」という言葉の意味を刷新して、新たな生き方を示したことが仏教の拡大する原動力になったのだ。

 本書では最新の仏教学の研究成果を盛り込みながら、丁寧な足取りで初期仏教をたどっている。前半は学問研究上の考証手続きをめぐる記述に紙幅を割いていてお勉強モードの読み味だが、そのような研究方法の記述ゆえに本書に説得力をもたらしていることもまた疑いえない。
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by syunpo | 2018-11-16 12:12 | 宗教 | Comments(0)

高校倫理を侮るなかれ!?〜『試験に出る哲学』

b0072887_18161333.jpg「倫理」のセンター試験に出された問題を引用して、それをもとに西洋哲学の歩みを復習する。本書のコンセプトは明快である。著者によれば、高校で学ぶ倫理という科目では「西洋哲学の部分を取り出すと、入門的な内容がじつにバランスよく配置されて」いるという。この種の企画では、とかく問題の内容を批判したり皮肉ったりするようなことが多くなりがちだが、本書ではそのような態度はとらない。

 古代ギリシャ哲学から始まり、中世のキリスト教神学を経て、近代哲学へと至る道筋を手際よくまとめていく筆致は、参考書の執筆で鍛えられた著者ならではのものといえるだろう。

 ソクラテスのエイロネイア(アイロニー)を説明するのに千葉雅也の『勉強の哲学』を参照していたり、巻末のブックガイドで國分功一郎の『中動態の世界』にも言及していたり、最新の研究動向にも目配りがきいている。筒井康隆の『誰にもわかるハイデガー』までリストアップしているのも一興。とくに目新しいことが書かれているわけではないけれど、一般読者向けの哲学入門としては面白いやり方ではないだろうか。
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by syunpo | 2018-11-13 18:20 | 思想・哲学 | Comments(0)

学際化がすすむ “社会科学の女王”〜『現代経済学』

b0072887_19275770.jpg 二〇世紀半ば以降、急速に多様化がすすんだ経済学はそれゆに複雑さを増してきたともいえる。基礎知識のない者がいきなり現代の経済学の専門書を読んでもチンプンカンプンだろう。

 本書は現代の経済学の多様なあり方を初学者向けにわかりやすく解説。ミクロ・マクロ経済学はいうに及ばず、ゲーム理論、行動経済学や実験経済学、制度論、経済史などなど、経済学の最前線をコンパクトにまとめている。著者の瀧澤弘和は、ゲーム理論・経済政策論などを専門とする研究者である。

 市場が経済にとって決定的に重要だという問題意識は、交換と分業が文明の根底にあるとするアダム・スミスの洞察にあった。以降の経済学は、消費者や生産者の選択という形で人間行動を具体的にモデル化し、同時に市場のモデルを提示することで、分権的市場経済のすばらしさを証明することができた。それは二〇世紀半ばのことである。

 二〇世紀の主流派経済学として世界を席巻した新古典派経済学の市場メカニズムの理論では、経済主体が合理的であると仮定され、方法論的個人主義が採用されてきた。

 けれどもその後、経済主体が合理的であるという仮定には利点もあるけれど限界もあることが明らかになってきた。以下に紹介される研究分野はいずれもそうした限界を見据えたところから出発したものといえよう。

 ゲーム理論は、従来の経済学が市場を経由した主体間の相互作用に焦点を当ててきたのに対して、プレーヤーの行動が直接的に他のプレーヤーに影響を与えあう「ゲーム的状況」の経済分析へと経済学を拡張するものである。これにより「神の見えざる手」の論理が働く市場の世界とは異質の世界を分析の俎上に載せることになった。

 ゲーム理論によって、人間行動における規則性を説明する際に、信念と行為の組み合わせという観点が導入されたのである。その結果として、われわれは異なる複数の均衡が存在しうることを理解できるようになった。

 ゲーム理論はマクロ経済学にも影響を与えた。経済システムの内部にいる人々が将来の予想を形成しつつ行為を選択するという「期待」概念の導入によって、その後のマクロ経済学は大きく理論的な変貌を遂げてきたのだ。

 行動経済学は、それまでの経済学の理論体系のなかで「公理」として前提されてきた現実の人間行動の分析にまで経済学を拡張することに成功した。そこでは、心理学、認知科学、脳科学、進化生物学との間で垣根を越えた交流がみられ、これが経済学全般の学際化にも寄与することになったという。

 行動経済学が「人間の不合理性を明らかにすることによって、逆に人間にとってどうしても手放すことができない『合理性』への問いを際立ったものにしているように思われる」との逆説的な指摘はまことに興味深い。

 実験経済学は、従来の経済学でまったく価値のないものとみなされていた「実験」という発想を導入することで経済学の多様化をうながした。今日の実験は、主にゲーム理論の文脈で、行動経済学と連携して人間行動の社会性を解明するために用いられている。また、実験研究の成果は政策決定の場面でも大きな役割を果たしているという。

 もっぱら市場制度を対象としてきた二〇世紀の経済学は、市場以外の制度の重要性に着目するようになった。とりわけ企業に注目した研究など、種々の「制度の経済学」が台頭してきたことは最近の経済学における注目すべき動向の一つといえそうだ。

 経済史は人類が実際に辿ってきた経路を事実の側面から見るものである。歴史的時間を考慮することができない経済理論に対して、応用の素材を提供したり、新理論へのインスピレーションを与えたりすることで、理論と歴史との新しい対話の可能性を追求するものともいえる。

 社会理論家のヤン・エルスターは、社会科学は普遍的に成立する法則を把握する段階にはなく、社会現象を説明するために、小規模あるいは中規模のメカニズムを解明することに専心すべきであると述べたが、瀧澤もこの考え方に共感を示している。本書のなかで紹介されている経済学研究は、すべてこのようなメカニズムの探求とみなすことができるのだ、と。

……一つのメカニズムで経済現象全体を網羅することは到底不可能であり、われわれは多くのメカニズムを提案することによって現実の経済現象をカバーしようとしている。研究者は自分が関心を持つ現象について、その現象に対応したメカニズムを探求しているのである。(p248〜249)

 本書の記述は初学者にはやや難しい箇所もあるものの、総じて簡潔な解説がほどこされていて、現代経済学の最前線を知るうえでは最適の入門書といえるだろう。
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by syunpo | 2018-11-09 19:30 | 経済 | Comments(0)

神とともにあることによって自由を得る〜『となりのイスラム』

●内藤正典著『となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代』/ミシマ社/2016年7月発行

b0072887_18505637.jpg 近代以降の西洋社会が神から離れることで人間が自由を得ていくと考えたこととはまったく反対に、イスラムは「神とともにあることによって自由を得る」と考える。

 本書では、そのようなイスラム教徒たちの基本的な価値観や生活のあり方などを彼らの日常にそって素描していく。いったん私たち日本人の考え方を脇において、彼らのことを少しでも知ろうとすることは意義深いことに違いない。やがて世界は三人に一人がイスラム教徒という時代が到来するといわれているのだから。

 私がとくに興味深く感じたのは、イスラムの「商人のための宗教」としての側面を概説したくだりだ。

 商売は良いときもあれば悪いときもある。ここが大事なところですが、うまくいって儲けたからといって自分の才覚で儲かったと思うな、というわけです。(p66)

 儲けてもいいけど貧しい人のことを忘れんなよとクギを刺すイスラム的な謙虚な考え方は、著者も言うように、世界中を覆うようになった新自由主義にもとづく自己責任を重んじる生き方を相対化するうえでとても示唆に富んでいるのではないかと思う。
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by syunpo | 2018-11-05 18:53 | 宗教 | Comments(0)