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大切なのは気持ちでなく結果なのだ〜『偽善のすすめ』

●パオロ・マッツァリーノ著『偽善のすすめ 10代からの倫理学講座』/河出書房新社/2014年2月発行

b0072887_09200377.jpg 今日「偽善」という言葉が他者に向けられるとき、たいていは否定的なニュアンスを帯びて使われる。辞書を引いても「うわべだけ善人のようにみせかけること」「みせかけだけの善行」のように好ましくない語義が記されているばかりだ。

 しかし、パオロ・マッツァリーノはそこで立ち止まる。いわく「うわべか本心かを見抜くのは、現実には不可能です」と。そのうえで、著者は「偽善はいけないというけれど、偽善者はだれかを救ってます。なにもしない人は、たとえ善人であっても、だれも救っていないのです」と言い切るのだ。これが本書の基本的なスタンスである。

 偽善の語句が日本でどのように受容され使われてきたか。それを歴史的に検証することに多くの紙幅が費やされている。
 もともと偽善は「西洋の宗教や哲学、倫理学といった崇高なものごとを語るために使われて」いた。ヒポクラシーの訳語として日本語に導入された後も、しばらくの間は一般化しなかった。本格的に使われるようになったのは明治四〇年頃だっただろうと著者は推測している。

 重要なのは、当時から偽善を一方的に悪いことと決めつけた用例が大半を占めていたことである。永井荷風も太宰治も批判すべきものとして偽善なる言葉を使った。もっぱら人を批判するときの切り札的な語句として機能してきたのだ。

 風向きが変わったのは一九五〇〜六〇年代。知識人のあいだから偽善の価値を見直す論調が出てきた。

 中野好夫は「まさにぼくは偽善者であり、偽善者たらんと欲するものであり、さらにまた進んでは偽善の必要をすら言いたいものである」と書いた。哲学者の福田定良も『偽善の倫理』で「すべての人間は偽善者である」と言明した。

 偽善とわかっていても悪いことは悪いと批判しなければ、ますます世の中が悪くなっていくだけではないかと主張したのは丸山眞男。加藤周一は、政治家に期待できる最高の美徳はおそらく偽善だろうという言葉を残している。

 ところが七〇年代に入ると、メディアではあらためて偽善者批判が目立つようになったという。週刊新潮がその急先鋒だった。自分たちが批判したい対象に「偽善」のレッテルを貼る記事を乱発した。その後は偽善肯定論は後退し、偽善批判の声ばかりが大きくなっていく。

「偽善氷河期」ともいえる時期に偽善肯定論を展開したものとして浅田彰と柄谷行人の対談を引用しているのが目を引く。
「理念を語る人間は何がしか偽善的ではある」(浅田)
「偽善者は少なくとも善をめざしている」(柄谷)

 このような「偽善」をめぐる言説の系譜学を概観した後に、著者はあらためて「偽善のすすめ」を説くのである。

 私はもちろん偽善肯定派です。しない善よりする偽善、ってスローガンには大賛成です……(p200)

  偽善を批判する人たちの最大のあやまちは、動機や気持ちを重視するところです。私はその考えかたは危険だとすら思ってます。なにより大事なのは、動機や気持ちでなく、結果なんですから。(p202)

〈14歳の世渡り術〉シリーズの一冊ということで若年層を意識した今風のくだけた文体だが、内容は深く濃い。おもしろい本である。

by syunpo | 2019-05-31 20:00 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

模倣は人間の自然本性に由来する!〜『詩学』

●アリストテレス著『詩学』(三浦洋訳)/光文社/2019年3月発行

b0072887_09194665.jpg アリストテレスの『詩学』は芸術論の古典中の古典として世界中で読み継がれてきた。本邦でも、これまで十種類の和訳が刊行されている。
 本書は近年の研究動向を参照しつつ現代の日常語に近い訳語を選んだというだけあって読みやすい和文に移し変えられている。おまけに、微に入り細を穿った注釈をほどこし、巻末の解説も一八〇ページ近いボリュームである。

 本書全体を貫くキーワードは「ストーリー」である。というより「ストーリー」を持つものとして叙事詩、悲劇、喜劇に限定して考察の対象としている。詩作が素晴らしいものとなるために「ストーリー」はどのように組み立てられるべきかということが本書の主題だ。ちなみに「ストーリー」の原語は「mythos(ミュトス)」である。

 アリストテレスはストーリーを「単線的なもの」と「複雑に絡み合わされたもの」に二分した。後者の要素として「逆転」「再認」「受難」などを列挙しているくだりは本書の読みどころのひとつだろう。

 注釈を気にしなければ本文は割とスラスラと読めてしまうのだが、プラトンの『国家論』との対比で『詩学』を読み解いていく解説が『詩学』の時代背景を理解するのに極めて有益だ。

『国家論』では、理想の国家を建設するためには詩人は有害であるとして詩人追放論を唱えたことはよく知られている。悲劇や喜劇の呼び起こす感情は魂の非理知的部分だけを満足させるにすぎないというわけである。

『詩学』はそれに対する応答ともいえる書物で、反論が用意周到になされている。アリストテレスは憐れみや怖れを認知的な感情として積極的に捉え、感情が理知的部分を滅ぼすという考え方を斥けた。

 芸術活動を、人間の自然本性に由来する「模倣」ととらえることは、アリストテレスの思想にとって極めて大きな意味を持つ。ゆえに本書では、従来、芸術活動の意味での「模倣」が「描写」や「再現」などと訳されてきたものを含めてすべて「模倣」という訳語で統一している。

 アリストテレスは模倣を人間本性に即した活動として大いに肯定し、それに伴う感情的な「快」の積極的意義も同時に認めるのである。

 ちなみに今日の実験心理学では、感情が理性を方向づけるのであって逆ではないことが証明されている。その意味では感情の働きを重視したアリストテレスの識見は正当なものであったといえよう。

 また解説後半で『詩学』が近代文芸や美学に与えた貢献、逆に現代思想からの批判について言及している点などもたいへん参考になった。光文社古典新訳文庫ならではの一冊といえるだろう。

by syunpo | 2019-05-30 19:30 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

地方主義に世界性を見出す〜『世界史の実験』

●柄谷行人著『世界史の実験』/岩波書店/2019年2月発行

b0072887_09193014.jpg 柄谷行人は、世界の歴史と構造を交換様式の観点から考察した一連の仕事が一段落した後、柳田国男に関する著作を複数刊行した。一見したところ両者は直接の関連性をもたないように思われるが、『遊動論』と同様に本書もまた有機的な関連性を示している。

 柳田は一九三五年に「実験の史学」を書いた。柄谷が着目するのはその論文である。

 柳田について再考するについては、ジャレド・ダイアモンドらの『歴史は実験できるのか』が契機になったことが明言されている。その本が柳田の「実験の史学」を想起させたという。ダイアモンドらのいう「歴史の実験」とは、いわば地域ごとの歴史的変異の比較分析を指す。
 同様に柳田のいう「実験の史学」とは「多くの面で類似しているが、その一部が顕著に異なるような複数のシステムを比較することによって、その違いが及ぼした影響を分析する」ものと柄谷は要約している。柳田は自らの史学の方法を「実験」と呼ぶ以前には「比較研究」と呼んでいた。

 柳田のそのような方法は、今日にあっても依然として有効だろう。柄谷はその観点から柳田の再評価を試みる。

 日本列島では、言葉は中央から波紋のように広がって分布した。中央では消滅しても辺境では残る、ゆえに、南北ないし東西に離れた辺境の言葉が一致する場合、それが古層であるとみてよい。その意味で、日本列島は「実験の史学」に最も適した場である、と柳田は考えたのである。

 さらに沖縄まで射程に含めると世界史の「実験」にとっても恵まれた場所だ、と柳田は判断した。これは日本を特別視するものではない。日本において得られる認識が普遍的でありうる、ということである。

 柳田は地方的な事実に立脚しないような普遍的な観念を疑ったが、同時に、ある郷土が特異であると考えるような「地方主義」をも否定した。真の地方主義にこそ、世界性がある。しかし、そのような考えは民俗学者には受け入れられるはずはない。現に、宮本常一や福田アジオからは批判された。

 その後、柳田は比較民俗学を放棄し「一国民俗学」に向かったと理解されている。もっとも柳田が急に一国民俗学を唱えるようになったのは、大東亜共栄圏を正当化するような比較民俗学に異議を唱えるためである、と柄谷はいう。だからこそ、第二次大戦後、ただちに実験の史学を再開したのである。

 柳田のそのような可能性をより鮮明に浮かび上がらせるべく同時代の島崎藤村と比較した論考は興味深い。

 さらに後半では、柳田の山人論を再検討している。「山人から見る世界史」である。山人はいうまでもなく平地における定住民と対比すべき存在である。
 それはいくつもの論点を含んでいて、手短かに要約するのは難しいが、デカルトや網野善彦を参照した考察は民俗学や歴史学の専門家には望むべくもない広い視野をもった知的ダイナミズムを感じさせるものだ。

 インドの山地民と日本の武士をアナロジカルに論じるくだりなどもすこぶる面白い。柳田は、日本の武士がもともと山地の焼畑狩猟民であったこと、武士と農民が分離したのは近世のことにすぎないと主張した。武士は山地民であるが、遊牧民と似た存在であった。彼らは基本的に定住民の国家の圏外である山地にいたが、その一部は王朝国家の中に入っていった。
 武士が王朝国家に対抗する勢力として前面に出てきたのは、騎馬軍団を形成してからである。それはむろん大陸の遊牧民の影響である。その意味で、遊牧民国家がなければ、武士政権はできなかったといえる。

 ところで遊動民はすべて同一視されているが、柳田は山人と山地民を区別した。前者は定住以前のノマドであり、後者は定住以後に生まれたノマドである。

 網野善彦は文明以前にあった「原無縁」としてあった無縁の原理が、国家成立後も続き、それが日本の「無縁・公界・楽」の根底にあることを示唆している。柳田が終生追求した山人こそ、網野の「原無縁」に対応すると柄谷は指摘している。柄谷自身はそれを「原遊動性」と呼んでいる。この概念がまさにそれ以前の柄谷の仕事と大いに関わってくるわけだ。

 冒頭にも記したように、柄谷には昨今の柳田国男論に先立つ仕事として、例えば『世界史の構造』に結実した思想的な著作群がある。資本=ネーション=国家という三位一体の相補的な世界のあり方を交換様式の観点から考察し、その構造を超える新たな世界の構想を提示するものであった。そこでは、再分配や商品交換ではない互酬性を高次元で回復する交換様式Dに基づく共同体が想定されていた。もっともそれは現実には存在せず、理念としてあるのみである。ただ歴史に現れた実例の一つとして遊動民の中にそのヒントを見出していた。
 柳田の山人もまた遊動民として捉えることができる。その点で『世界史の構造』と柳田国男論はみごとに共振するのである。

by syunpo | 2019-05-29 21:30 | 文化人類学・民俗学 | Trackback | Comments(0)

労働力ではなく人間として〜『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと?』

●内藤正典著『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと?』/集英社/2019年3月発行

b0072887_09190840.jpg 国家を越え、地域を越えて移動する人間が増えてきた。それに伴うトラブルや衝突もマスコミを賑わすようになった。ヨーロッパでは移民や外国人労働者に対して排外主義的な政党の支持率が高まってきている。

 一方、日本では、二〇一八年に入管法が改正され、今後、外国人労働者の受け入れが進むことになった。世界の趨勢に逆らう政策転換がなされたわけである。もっとも実際にはこれまでも日本政府はなし崩し的に受け入れを拡大してきたのだが。

 日本政府は、表向きは外国人労働者を受け入れないと言いながら、手を替え品を替え、いろいろな在留資格を与えることで、外国人労働者を増やしてきたのです。そのため、今になってみると、在留資格とそれによる職種が、ひどく複雑になっていて、どの仕事をするにはどの在留資格が必要なのか、一目ではわからなくなってしまいました。(p95)

 このような状態で日本の社会は外国人たちと本当に共生できるのだろうか。

 そもそも外国人労働者、移民、難民とはそれぞれどういう存在なのか。

 外国人労働者とは文字通り、海外から働きに来る外国人のことである。ずっと住み続ける場合には「移民」、比較的短期で働きに来る人を「外国人労働者」ということが多い。外国人労働者には、いろいろと条件がつけられるのが一般的である。ただ国際法上は移民に関する定義は存在しない。日本の法律にも「移民」という用語は出てこない。

 一方、難民は国際難民条約で具体的に定義されている。ひと言でいえば「命の危険から、国境を越える人」をいう。特筆すべきは難民にはノン・ルフールマン原則が適用されることである。「難民を彼らの生命や自由が脅威にさらされるおそれのある国へ強制的に追放したり、帰還させてはいけない」というルールである。

 日本は難民の受け入れに消極的だと海外から批判されてきた。また外国人労働者については上述したように表向きの言い分とは裏腹に、もっぱら産業界のニーズに応える形で受け入れてきたという経緯がある。

 日本の法制度の問題点は、日本に入ってくる、その入口と出口を管理する法律しか存在しないことだと内藤はいう。入ってきた後、どう処遇して、どういう権利を認めるかについては何の法律も整備されていない。ゆえにこのまま外国人労働者が増えてくると「地方自治体に途方もない負担となっていくはず」と警告している。

 ただし本書が興味深いのは、そのような悲観的な話に終始するのではなく、後半では市民レベルでイスラムを含む外国人との付き合い方を具体的に示している点である。「あるものを食べない、飲まない人たちに、「どうして」としつこく尋ねない」「仕事が終わった後に、飲み会や食事会に誘わない」などなど。ちなみに後者については「世界には、家族の絆を重んじる人も多いので、仕事が終わってから職場の人間と集まる日本の光景は、理解できない人も多い」と解説している。

 日本の対外国人政策の欺瞞を政治家だけに帰責することはできない。国民の思考停止がそのまま政治にも反映しているだけとの思いを強くする。

 日本にやって来るのは労働力ではなく人間である。本書で強調されているその事実は、日本の現状を見れば何度繰り返しても繰り返し過ぎることはないだろう。

 人の移動をめぐる世界の政治状況を広い視野から論じるのと同時に、身近な生活レベルでの助言を合わせて提示しているところに本書の特長があるといえよう。

by syunpo | 2019-05-27 22:30 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

「人本位制」という仮想〜『「通貨」の正体』

●浜矩子著『「通貨」の正体』/集英社/2019年1月発行

b0072887_09184911.jpg 通貨とは何か。この古くて新しい問題を通してグローバル時代を再考する。これが本書の趣旨である。

 通貨は、人がそれを通貨だと認定すれば通貨となる。その意味では通貨の基本は「人本位制」である。言い換えれば全ての通貨は仮想通貨だということだ。本書の結論はこの命題に凝縮されている。

 最初にスパッと結論をぶち上げ、それをベースにして個別具体的に通貨を順次俎上に載せて解説していくという形式はそれなりに分かりやすい。

 シェイクスピアを引用した「嘆きの通貨」としてのドル論は、なかなか読ませるし、政治的パニックが欧州の統一通貨を生み出したというユーロ論も興味深い。仮想通貨ならぬ仮装通貨としてビットコインを分析する論考も勉強になった。

 日本円を「隠れ基軸通貨」と見なし、オペラのトスカに喩えて考察を進めていくのも一興。

 本書が唱える「人本位制」なる認識は、通貨の根拠を自己循環論法に求めた岩井克人の貨幣論と重なり合うものと思われ、とくに目新しいものではない。とはいえ最新の世界的な通貨現象を盛り込んで、おどけた調子で論述していくスタイルは類書にはないセールスポイントといえるだろう。

 ただ冒頭で示された本書のコンセプトに即して、キチンとした着地点が確保されているかといえば、その点は曖昧なまま。「グローバル時代を通貨の観点から考え」た結果、そこに浮かび上がる時代の特質についてクリアな言説が与えられているわけではない。最終章を日本の円の分析にあてていることからもわかるように起承転結が未完成で、尻切れ蜻蛉的な読後感を拭いきれなかった。

by syunpo | 2019-05-21 19:30 | 経済 | Trackback | Comments(0)

市民の力で対抗する〜『安倍晋三が〈日本〉を壊す』

●山口二郎編『安倍晋三が〈日本〉を壊す この国のかたちとは─山口二郎対談集』/青灯社/2016年5月発行

b0072887_09182767.jpg 安倍政権を批判的に検討する対論集はすでにいくつか刊行されているが、本書は政治学者の山口二郎が「抵抗と対抗提案を打ち出す」べく行なった対談の記録である。相手は、内田樹、柳澤協二、水野和夫、山岡淳一郎、鈴木哲夫、外岡秀俊、佐藤優。

 結論的にいえば、どこかで聴いたようなやりとりが多く、新味には欠ける内容というのが正直な感想。その中であえて言及するなら、内田と佐藤の発言が賛否は別にして一味違った趣きで安倍政治に肉薄しているように感じられる。

 内田は相変わらず印象批評的な言説が多いものの、安倍首相の内面の葛藤の欠如を厳しく指弾しているくだりは面白く読んだ。私的野心と公的規範の別がないというのだ。日本社会もそのような指導者を戴くことに抵抗がないようである。「葛藤を持たないことの方が、生存戦略上有利というか、葛藤を持たない方が競争において大きなアドバンテージがあるということが、どこかで集団的に確認されたんでしょう」。

 佐藤の安倍批判もかなり辛辣だが、それよりも昨今引用されることの多い白井聡の永続敗戦論に異議を唱えているのが目を引く。これまでも浅田彰が「敗戦の否認」論に対しては否定的に論評していたように記憶するけれど、佐藤は対米従属論そのものに疑義を呈するのである。外交官として実務に携わっていた立場からすれば一方的に米国に追随していたわけではないということだろう。ただ反証の具体例として挙げているのが日本の宇宙政策で、論拠としてはかなり脆弱な気がするのだが。

 山口は野党の力不足を認めながらも、市民の政治的実力については「楽観できる」と結んでいるのが印象に残った。

by syunpo | 2019-05-17 18:30 | 政治 | Trackback | Comments(0)

爆撃が生んだ芸術の爆発力〜『暗幕のゲルニカ』

●原田マハ著『暗幕のゲルニカ』/新潮社/2016年3月発行

b0072887_09174135.jpg パブロ・ピカソ畢竟の傑作「ゲルニカ」。スペイン内戦中の一九三七年、ドイツ空軍によって行なわれたゲルニカ空爆に怒りを爆発させたピカソが描いた作品である。

 この二〇世紀を代表する絵画をモチーフに二つの物語がパラレルに語られていく。一つはピカソと彼を取り巻く人びとの人間模様とゲルニカの創作過程を描いたもの。もう一つは「ゲルニカ」に心を奪われた日本人キュレーターが大掛かりなピカソ展を企画し、その実現に向けて東奔西走する話である。第二次世界大戦前後の激動期と、二一世紀初頭の不透明な時代。アクターは変わっても、圧政や暴力が蔓延り続ける状況に変わりはない。ピカソが「ゲルニカ」に込めた心の声は世紀を跨いでも世界中の人びとに響きつづけているようである。

 文学作品としては筆が通俗に走り過ぎてややコクを欠いている印象は拭い難い。「ゲルニカ」をもっぱら「反戦」の語句に収斂させる、その一面的な解釈はあらゆるアート作品が共通して持っている豊かな多義性を切り詰めているように感じられるし、会話や描写がいささか説明調なのも気になった。

 それでもストーリーテリングのうまさで、ぐいぐいと引っ張られたのは事実。原田の持ち味がよくにじみ出た作品には違いない。

by syunpo | 2019-05-16 21:00 | 文学(小説・批評) | Trackback | Comments(0)

答えることは終点じゃない!?〜『無目的な思索の応答』

●又吉直樹、武田砂鉄著『無目的な思索の応答 往復書簡』/朝日出版社/2019年3月発行

b0072887_19130610.jpg 又吉直樹と武田砂鉄。二人の立場は一見したところ対極にある。片やコントや小説など何もないところから何かを創り出すのが仕事。一方は、それを受けとめて批評することを生業としている。そんな二人が「往復書簡」という形で言葉を交わした。付かず離れずの絶妙の距離を保って交換されるやりとりは、スラスラと読めてしまう内容だが、時に意味深長な箴言めいた言葉が放たれたりするから油断ならない。

 基本的には二人が日常生活でおぼえた違和感を取り出してきて、それを転がしながら社会批評的な次元にまで持ち上げていくパターンに本書の持ち味が出ているように思う。たとえば明るくなりすぎた現代社会に対する違和感をベースにした一連の対話はなかなか秀逸である。

「どこまでも明るい状態を維持したがる社会が、どれほど豊かな闇を剥奪しているか」を告発した書物について武田が言及すると、又吉が「不確かなものを凝視する時にも暗闇は役立ちます」と応じる。そこからさらに「心の闇」といった紋切型表現への違和感へと話は展開していく。あるいは自分の性格の暗さについての述懐が始まったりもする。

 当然、ささやかな緊張感が走る場面もある。又吉の新著『劇場』に関して、武田は「面白く読みました」と好意的な感想を述べた後に「長期間共に暮らしている男女」を描きながら、性描写を一切入れなかったのは「時折、不自然に感じました」と率直に伝える。それに対して又吉は、主人公の性格を考慮した旨、冷静に応答しているのが印象的だ。

 文字どおり無目的なやりとりのなかに、言葉の世界に生きる二人の才気や矜持が感じられる、そんな本である。

by syunpo | 2019-05-15 21:00 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

家族関係にもメンテナンスが必要〜『子育てが終わらない』

●小島貴子、斎藤環著『子育てが終わらない 「30歳成人」時代の家族論 新装版』/青土社/2019年3月発行

b0072887_19104696.jpg 本書刊行後の二〇一九年三月、内閣府は四〇〜六四歳の「ひきこもり」が全国で六一万人いるという推計値を公表した。「ひきこもりは若者特有の現象ではない」ことがあらためてお役所的にも確認されたわけである。ひきこもりの長期化・高齢化は今や日本社会の深刻な社会問題といえるだろう。

 行政や教育の現場で就労困難な人々の支援活動を行なってきた小島貴子。「社会的ひきこもり」を日本ではじめて世に訴えた精神科医の斎藤環。二人がひきこもりをめぐってあるべき親子関係や夫婦関係を考えていく。結果、ひきこもっている人たちだけでなく、あらゆる人々にとっての人間関係の構築に深い示唆を与えてくれる対話となった。

 人の成熟が遅れているのは世界に共通する必然的な流れだと斎藤はいう。先進国であるほど教育期間が延びている。精神医学的にはモラトリアムが延長するということだが、自己決定をしなくてよい期間が教育期間とほぼパラレルに延びているのが今の状況だ。

 かつてのように子どもがすぐ労働人口に組み込まれる時代であれば、成熟の遅れなどとは言っていられなかったわけですけれども、豊かな社会になってきて、社会的なインフラが整備されていきますと、急いで成熟しなくてもよくなる。社会心理学者のマスグローブは、「青年期は蒸気機関とともに発明された」と指摘しています。いわゆる成熟社会とは、社会のインフラが整備されて、ハンデがある人でもひとりで生きていきやすい社会のことでもあります。未成熟さもハンデのひとつと考えるなら、成熟社会は未成熟に対して寛容な社会とも言えます。(斎藤、p22)

 斎藤はひとまずそうした社会変化を肯定したうえで、ひきこもりの高齢化を一種の「副作用」と見なすのである。この基本認識は決定的に重要だ。そのような歴史的条件を踏まえて具体的な傾向と対策を探っていく。この種の論題につきまとう凡庸な精神論など入り込む余地はない。

 最も印象に残ったのは、夫婦関係を見直さない限り、親子関係の問題は解決しないことが繰り返し強調されている点だ。

 日本の家庭は「母子密着+父親疎外」が一般的な形態である。そのような状態で定年期を迎えるときに夫婦二人きりになる息苦しさを想像して「子どもたちにはもう少し家にいてほしい」とつい願ってしまうことがある。その願望は子どもにも伝わる。

 これでは子どもの自立がなかなかできないのは当然で、母親の無意識的な欲望が、子どもを縛ってしまうわけです。
 これを断ち切るためには、やはり夫婦関係が最大の鍵を握っていると私は考えていて、とくに熟年期を迎えて以降の夫婦関係を見直すということが大切だと考えています。(小山、p70)

 また相手に対する肯定の大切さを説いていることも本書全体を貫くキーコンプの一つ。具体的には「あいさつ」「誘いかけ」「相談事」「教わる」といったコミュニーケーションのあり方が相手への肯定を示すことになるという。

 不勉強で恥ずかしながら「レジリアンス」という言葉を本書で初めて知った。斎藤の説明は以下のようなものである。

 いま精神医学では「レジリアンス」という言葉がたいへん流行っています。同じストレスを受けて傷つく経験をしても、そのストレスで病気になる人と、あるいはそのストレスを糧にしてより成長する人と2通りいます。この違いをレジリアンスと言うんですね。病気に対抗する力のことで、「抗病力」などとも訳されます。
 このレジリアンスの強さを決める条件のひとつが、子ども時代の、親からの無条件の肯定であるということがよく言われています。(斎藤、p87〜88)

 この話の流れで「以心伝心」的な会話は親子関係においては否定的な評価がくだされる。斎藤によれば「親子関係の間では以心伝心がはじまってしまうと子どもはどんどん退行していきます。子どもが幼児化してしまうということですね」。

 このほか問題解決のさいにコミュニーケーション不全を起こすものとして「決めつけ」「分担」「威圧」「提案」などのパターンも回避すべきものという。

 斎藤は子どもの自立のための一案として、思春期を迎えた段階で、いつまで面倒を見るのかというタイムリミットを伝えることを提案している。また小島は、一定の枠内でお小遣いをどう使うかを考えさせるなど、子どもの経済的自立を助けることも大切だと指摘する。

 予期せぬネガティブな出来事を予防しすぎないことも重要である。そのような出来事もまたひとつの学習の機会になる可能性があるからだ。

 学校教育との関連では、斎藤が、成績評価が全人的評価になったことの弊害を指摘している点もなるほどと思う。知識・技能よりも関心・意欲・態度を重くみる「新学力観」という評価方法だが、これにより、子どもたちは以前に比べ素直になったと言われている。

 ほんらい自信というものは、そういった評価とは別のところで確保してほしいんですが、いまの子どもは、自信の獲得と評価がセットになった狭い回路に閉じこめられてしまっている。(斎藤、p153)

 自信のなさはひきこもりやニートに多く見られる傾向であることはいうまでもないが、教育現場における評価基準の変革がひきこもり予防には役立ちそうにないのは残念というほかない。

 いずれにせよ、二人の対話はとくにひきこもりの問題を離れても読める内容で、人が家庭や社会で豊かな人間関係を築いていくうえできわめて示唆に富むものである。副題にもあるように、現代社会に向けた現場からの家族論といえる。

by syunpo | 2019-05-07 21:18 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

研究者として、組織のリーダーとして〜『走り続ける力』

●山中伸弥著『走り続ける力』/毎日新聞出版/2018年7月発行

b0072887_18561821.jpg iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥の研究内容をはじめ、研究に対する姿勢や人となりがよくわかる本。本人が毎日新聞に連載した文章、江崎玲於奈や井山裕太との対談、山中の研究に関心をもってフォローし続けてきた毎日新聞編集委員の永山悦子の文章・インタビューなどバラエティ豊かな構成。

 山中は現在、京都大学iPS細胞研究所の所長を務めている。所員五百人を擁する大所帯だ。当然ながら組織のリーダーとしての器量や指導力も問われる立場でもある。その点に関する心構えや考え方にも紙幅が多く費やされており、その意味では一種のリーダー論としても読めるかもしれない。

 ラグビー元日本代表監督の故平尾誠二との交友もその文脈においていっそう意義深いものとなる。彼から人を叱る時の注意事項を伝授されたらしい。「プレーは叱っても人格は責めない」「後で必ずフォローする」「他人と比較しない」「長時間叱らない」といった内容だったという。山中は「ありがたい言葉だった」と振り返っている。

 ただし、正直な感想をいえば全体としては諸手を挙げて人に勧めたくなるような本ではない。

 山中に研究以外の雑務を強いるような文教政策への批判は少なくないのに、その点の問題提起が弱いのが特に気になった。
 山中が先頭に立って寄付金集めに注力するなど、研究所の運営スタイルは米国のグラッドストーン研究所仕込みというのだが、米国流のやり方をそのまま導入することには議論の余地があるだろう。山中自身は所与の条件を受け入れて政治への注文を自粛しているとしても、編集に新聞記者が関与している本書の形式ならば、そこは当事者に代わって記者が論及すべきではなかったか。

 山中の前向きなチャレンジ精神を前面に押し出すことで、そういうシンプルな本が好きな読者はなるほど勇気づけられるかもしれない。しかし山中個人のポジティブな姿勢を強調しすぎることで日本の自然科学研究の現場に横たわる問題を後景に退かせてしまったのは残念。

 ついでにいえば編集も今一つ。永山の文章と永山が山中に行なったインタビューの内容が重複していて、しかも最初に永山の文章が出てくるために、せっかくの山中の言葉のインパクトが薄められてしまっている。永山の本書への関与のしかたがいかにもちぐはぐな感じがする。そんなこんなで新聞社系出版社が出した本にしては皮相的な印象が拭えず物足りなさが残った。

by syunpo | 2019-05-06 08:20 | 医療 | Trackback | Comments(0)