刑法学の泰斗が語る〜『反骨のコツ』

●團藤重光著、伊東乾編著『反骨のコツ』/朝日新聞社/2007年10月発行

b0072887_18211786.jpg 東京大学名誉教授、最高裁判所判事、宮内庁参与……という国家の超エリートコースを歩んできて「刑法学の泰斗」と称される團藤重光が「反骨のコツ」を開陳するのだという。作曲家・指揮者で東京大学准教授を務める伊東乾が團藤に話を聞くという体裁である。さて、その顛末や如何に?

 正直、全然面白くなかった。
 全体的には、昔話をのぞけば、聞き手のはずの伊東の退屈な長広舌が続き、團藤が合の手を入れる、という展開になってしまって、團藤の「反骨精神」が彼の法理論に具体的にどのように反映されているのか本書の発言からは今一つ明快に浮かび上がってこない。かなりの紙幅が割かれている死刑廃止論についても「私は死刑廃止は憲法を超えていると思います。まず事柄自体について考えるべきです。事柄自体として、死刑はあっちゃならないのです」(p187)という次元の雑駁な言説が繰り返される。これでは死刑存置論者を説得することは到底無理だろう。

 「体制側に立って反骨精神を持つのは、ある意味でいちばん難しい」というのが、團藤の立場を最も凝縮した言葉なのだろうが、それにしても、昭和天皇との交友を喜々として語り、文化勲章や勲一等旭日大綬章を素直に受章した人物に対して、伊東が対談の終わり近くに「反体制を厭わぬ主体性の革命理論」などと今どき口に出すのも恥ずかしい語彙で賞賛(?)するのには、嗤ってしまった。
 そもそも、真に「反骨精神」を体現する者は、みだりに「反骨」だの「革命」だのと口走ったりはしません。
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# by syunpo | 2007-10-16 18:28 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

古典的問題への新たなる挑戦〜『自由とは何か』

●大屋雄裕著『自由とは何か 監視社会と「個人」の消滅』/筑摩書房/2007年9月発行

b0072887_194075.jpg 標題どおり「自由とは何か」を根源的に問うた本である。それは同時に「個人とは何か」「国家とは何か」という問いを必然的に導き出す。大屋は、それらの問いに立ち向かうために、ジェレミー・ベンサムやミシェル・フーコーに依拠しつつ、様々な材料を駆使して思索を繰り広げていく。

 第一章「規則と自由」では、ロバート・ノージックのリバタリアニズム(自由至上主義)、マックス・シュティルナー、アイザイア・バーリン、ハンナ・アレントなどを引用して「積極的自由」と「消極的自由」などについて考察する。その過程で、ギルドや職能組織など中間団体の規制を無効化する形で国家が形成された史実に基づき、自由について考える際の「個人」対「国家」というありふれた二項対立的発想を斥ける。

 第二章「監視と自由」では、「そもそも国家が設立された動機は、他者のもたらす危険性から我々を守ることにある(と理解されてきた)」という社会契約的な国家観を指摘したあと、「近代法の逆説」という概念で国家の二面性を力説する。
 ここでも、監視を目論むものがひとり国家のみではないこと強調しながら「監視社会」が現実に「気持ち良さ」を増大させることに注意を促す。

 第三章「責任と自由」では、もっぱら法における責任概念を概括して、近代的個人という擬制の有効性について考察を重ねる。法哲学を専攻する著者にとっては、ここでの論考にもっとも真価が発揮されているというべきか。
 「個人を生み出した技術的前提・個人が必要とされた社会的状況が変化したならば、いまさら個人という擬制にこれ以上こだわることもないのではないか」という安藤馨の功利主義的な指摘に説得力のあることを認めながらも、最終的には「個々人が自己の行為の結果を引き受けるという前提においてさまざまな試行が放任される社会の方が、まだ機能する可能性が高い」(p204)というごくあたりまえの結論にかえってくるのである。

 著者自身が巻末で認めているように、本書の記述は必ずしも整合性や統一性を目指されてはいない。多様な話題を考察の契機としていることもあって面白く読み進めることはできるものの、やや散漫な感じは否めなかった。映像にたとえれば、ムービーではなくスチール写真をつなぎ合わせたものを見せられているような印象である。

 あえて乱暴なことを最後にいってしまうと、日本の若い学者がこの種のテーマを論じた著作を読むたびに、結局は、ミシェル・フーコーというネタ元の総本山を熟読するのが一番、と実感させられるのだ。
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# by syunpo | 2007-10-12 19:50 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)

二一世紀の瓦版として〜『新聞社』

●河内孝著『新聞社 破綻したビジネスモデル』/新潮社/2007年3月発行

b0072887_10225358.jpg 本書は、新聞業界が抱える構造的な問題点をあぶりだし、そのあるべき将来像について考察するものである。著者は毎日新聞で常務取締役(営業・総合メディア担当)を務め、二〇〇六年に退任した。業界に長く生きてきた著者ならではの具体的な記述に富み、メディア産業論としては出色の書物ではないかと思う。

 新聞ビジネスの「破綻」は、近年のIT革命などとは関係なく、業界内ではすでに昔から表面化していたーーこれが本書の主張するところである。
 業界に歪みをもたらしている大きな問題として、著者は主に「部数至上主義」による過当な販売競争と新聞社とテレビ局の資本の一体化に起因するメディア界の閉鎖性の二点を挙げて詳説している。

 新聞の野蛮な拡販競争については、多くの読者が体感していることだろう。
 発行本社が販売店に対して行なう「押し紙」などの強引な手法と、それと引き換えに様々な補助金で販売店に便宜をはかっている現状など、新聞・テレビでは決して報じられることのない舞台裏の詳細が具体的に記述されている。
 また、再販制度と特殊指定という特権を享受しながら、現実には禁じられているはずの値引き販売などを事実上公然と行なっていたり、拡販にあたって裏社会と関係してきたことにも言及されていて、その率直な筆致は終始揺らぐことはない。

 また、「マスメディア集中排除原則」が成文化されると同時に空文化していた、という指摘も本書の要点の一つだ。
 新聞=テレビのコングロマリット化により、新聞とテレビの相互批判が期待できない構造になってしまったことを河内は批判的に論じている。それは、メディア企業と政治家・官僚と利害の一致したメディア版政官業の癒着そのものであった。
 言論活動と企業活動の埋めがたいギャップこそが、今日の新聞不信の根源にあるものではないか、という河内の認識には誰も異存はあるまい。

 ただし、これでもかこれでもかと業界の構造的な歪みや欠陥を指摘したあとに示される新聞の再生ビジョンが、妙にリアルなようなリアルでないような第三極を作るための業務提携、さらには前半の主題と直接関連しないIT社会におけるサバイバルの方策……とややちぐはぐな提案に終わっているのが残念。
 とりわけ、新聞の将来モデルとして「多品種、少量、安価」な専門的Eペーパーを多数創刊して個々の読者の細かなニーズに対応せよとの提案には今一つ説得力を感じることはできなかった。評判の悪い記者クラブ制度を活用して官庁ベースの専門紙を例示している点など、いかにも大手新聞の発想から抜けきれない冴えないアイデアのような気がする。

 何はともあれ、何かと理念倒れになりがちな凡百のジャーナリズム論とはちがい、新聞を産業としての観点から直視し、問題点をうきぼりにした本書の意義は大いに評価に値しよう。
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# by syunpo | 2007-10-09 10:29 | メディア論 | Trackback | Comments(0)

安倍内閣の失敗学〜『官邸崩壊』

●上杉隆著『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』/新潮社/2007年8月発行

b0072887_11272632.jpg 「神輿に乗る者は、軽くてバカの方が良い」とは、小沢一郎の名言(?)だが、それは担ぎ手が賢い、という前提あってのこと。バカがバカを担ぐと、どうなるか?……それを描いたのが本書である。

 安倍晋三内閣のスタートから崩壊まで、未熟なリーダーとその周囲に集った未熟な側近たちの言動が克明に活写されていて、あっという間に読み終えてしまった。お友達内閣といわれていた割には、取り巻き連中が互いに牽制しあい、手柄を競いあっていた様子がよく取材されている。

 チーム安倍のパブリシティ対策を一手に引き受けていたはずの世耕弘成が、案の定、塩崎恭久官房長官と衝突していた事実は、象徴的だ。世耕が当初、首相のぶら下がり会見の事前レクチャーにすら参加を拒まれていたのはけっこう笑える。その反動からか、本分を忘れて自身の政権への影響力を誇示するためにコメントを発したりしていたらしい。

 また塩崎官房長官は、安全保障担当補佐官の小池百合子とも外交交渉や日本版国家安全保障会議の設置問題において稚拙な鞘当てを演じ、兄貴分の中川秀直幹事長は余計なスタンドプレーで肝心の安倍との関係を悪化させていく。

 首席秘書官の井上義行が秘書として裏方に徹しきれず表舞台でも自己顕示欲を示したり、教育再生会議を仕切る総理補佐官の山谷えり子が頓珍漢なNHK批判を始めたりする場面なども、いかにも安倍内閣に相応のおバカなエピソードといえる。
 山本一太が勝手に安倍応援団を自認して周囲から顰蹙を買いつつも、組閣後に安倍自身から電話を受ける挿話からは、安倍の取り巻きが安倍に忠誠を誓う理由の片鱗が読み取れて興味深い。

 私なりに整理すれば、個々の政治家や秘書官の迷走ぶりもさることながら、ここには「失敗学」としての組織論も論述されている。首相官邸を強化するために拡充した総理補佐官や乱発された内閣府直属の会議が、既存の責任者や担当部署と軋轢を起こし結果的には政権内部の混乱を招いたこと。まさに「船頭多くして舟山に登る」状態が現出したのである。

 本書刊行直後に安倍内閣は本当に「崩壊」してしまった。現在進行形の権力批判のはずが、政権への挽歌となってしまったのは、本書にとって良かったのか悪かったのか……!?
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# by syunpo | 2007-10-05 11:30 | 政治 | Trackback | Comments(0)

ベルリン・フィルの暗闘史〜『カラヤンとフルトヴェングラー』

●中川右介著『カラヤンとフルトヴェングラー』/幻冬舎/2007年1月発行

b0072887_1245025.jpg 本書は、ベルリン・フィルの長い歴史のなかの一九三四年から五四年までの二十年間、すなわちフルトヴェングラーが常任指揮者として君臨していた時代からカラヤンの時代へと移る時期の物語である。そこでは、二人に加えてチェリビダッケをまじえた三つ巴の人間模様が、もっぱら「陰謀」や「駆け引き」、「嫉妬」や「怨念」の結果として描写される。音楽家たちの演奏に関する論評や音楽性への言及は基本的に斥けられ、ただポストや仕事をめぐっての生臭い言動だけが記述の対象となるのである。

 著者は、現在「クラシックジャーナル」編集長を務める人物。
 書きようによっては面白い読み物になったかもしれないテーマなのに、その筆致はいかにも平板、既存の資料のみに依存するという手法の限界をもはっきり感じさせるような出来映えである。三人の人間臭さが今一つ立体的に立ちあがってこないのだ。不用意に形容詞を多用するばかりで、重要な場面で具体的描写が不足している雑駁な記述があまりにも目立つ。たとえば、チェリビダッケがベルリン・フィルと「感情的対立」がみられるようになった、とするくだり(p173)なども具体的事実がまったく提示されないし、頻出するフルトヴェングラーの「優柔不断」という表現にしても、それを端的に象徴するような挿話が必ずしも明快に紹介されているわけでもなく、読者としてはその都度欲求不満を抱え込んだまま読み進まねばならない。

 「人間の内面などというものは、自分自身ですらはっきりしないものだ」という認識にたって「人々の内面、感情については、想像して書いた部分がある」と断っているのだが、その想像力もまた貧困で、登場人物の俗っぽさ以上に著者の凡庸さが一層際立つような本である。
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# by syunpo | 2007-10-02 12:47 | 音楽 | Trackback | Comments(0)