●立川談春著『赤めだか』/扶桑社/2008年4月発行
個性派揃いの落語立川流では正統派の実力者として知られる談春が入門から真打昇進までを振り返ったエッセイである。昨年一二月にテレビドラマ化されて、あらためて原作への関心も高まっているようだ。 立川一門には談四楼という先達がいるけれど、談春の文才もなかなかのものと思う。競艇選手志望から落語家志望への転換、師匠宅における大量の雑用、築地魚河岸での修業、派手にやった二ツ目昇進披露、高田文夫やさだまさしの励まし……などなど、さすがに話題も盛り沢山で一気呵成に読みおえた。 とりわけ興味深く読んだのは志らくとの微妙な関係。志らくは談春よりも遅れて入門したが、直後から先輩の不興を買うような挿話には事欠かなかったようで、談春の当初の印象は芳しくなかったらしい。が、志らくは談志の覚えがめでたく「このままの状態で芸人としてケンカすれば、談春は負ける」と判断。志らくと友達になろう、と気持ちを切りかえる。真打昇進では先を越されるあたりの葛藤や苦悩はそれなりに率直な筆の運びで本書の読みどころの一つといっていいだろう。 桂米朝と柳家小さん──二人の人間国宝をめぐるエピソードもなかなか面白い。米朝には《除夜の雪》の稽古をつけてもらったことが軽妙に綴られている。一度談春のその高座を見てみたいものだ。小さんには真打トライアルの落語会にゲストとして出演してもらい、そのことで談志と小さん、花録との間に生じた人間ドラマの機微にも触れられていて、なかなか読ませる。 師匠談志は本書にたいそうご立腹だったことが談四楼の本に記されているけれど、いったいどこがお気に召さなかったのだろうか。なお本書は二〇一五年に同じ版元によって文庫化された。 #
by syunpo
| 2016-02-23 20:11
| 古典芸能
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●奥村宏著『資本主義という病』/東洋経済新報社/2015年5月発行
日本における資本主義は基本的に法人資本主義といえるものである。これは奥村が以前から力説してきた持論だ。株式会社を中心とする法人が社会を牽引し回してきた資本主義。それは目覚ましい経済成長をもたらしたが、同時に現在の様々な病理的現象の原因にもなっている。 日本においては法人はいろいろな意味で法的に保護されている。たとえば法人としての株式会社が行なった違法行為について刑事罰を課すことが困難である。住民に多くの被害を与えた原発事故でも東京電力が刑事罰を受けることはなかった。それは法人には犯罪能力がないとする刑法学説に拠っている。日本の法人主義は誰も責任をとらないシステムで、「無責任資本主義」と奥村が呼ぶ理由もそこにある。 そこで奥村はいう。「日本でも法人としての会社が行なった行為については自然人である経営者、代表取締役が責任を負わなければなりません」。そのうえで巨大になりすぎた株式会社の解体が必要だと主張する。大きすぎる組織は必然的に管理不能状態をもたらし、そのことが無責任資本主義の諸悪の根源ともなっているからだ。 しかしここで根本的な疑問が生じる。株式会社の解体は一社だけでやっても意味がないし、やる会社もない。一国だけでやっても意味がないし、やる国もない。つまりその大改革は世界同時的に行なう必要がある。だがそんなことがはたして可能なのだろうか。 #
by syunpo
| 2016-02-17 19:07
| 経済
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●益川敏英著『科学者は戦争で何をしたか』/集英社/2015年8月発行
益川敏英といえば原発や安保法制など政治問題にも積極的に発言をしていることでも知られるが、それは確固たる信念にもとづいて実践しているのだった。科学と実社会との関わりにも深く関心をもつようになったのは、恩師・坂田昌一の教えが大きかったと本書でくり返し述べているのが印象的だ。「勉強だけでなく、社会的な問題も考えられるようにならないと、一人前の科学者ではない」というのが坂田の持論だったという。その教えのとおり益川は職場では組合活動にも精力的に関わってきた。 もっともそうした政治的な言動には眉をひそめる向きもあるらしい。たとえばノーベル賞受賞の記念講演に際して事前に複数の知人にチェックを頼んだところ草稿が出回ってしまい、戦争体験に言及している点について間接的に批判の声が聞こえてきた。「ノーベル賞受賞記念講演というアカデミックな場で、戦争に関することを発言すべきではない」と。どのような業界にも政治に対してあからさまにアレルギーを示す勢力は一定程度存在するのだなとあらためて思う。 科学者が過去の戦争でいかなる役割を果たしてきたか。科学者本人はそのつもりはなくとも科学的発見がいかに軍事利用されるか。……といった本書の核となるテーマについてはとくに目新しい史実が提示されるわけではないものの具体的事例を挙げながら批判的にあとづけていく。 科学とは本来「中性」的なもので、使う人間によって人類の生活の進展に資することもあれば、軍事利用されて人類に害を及ぼすこともある。あたりまえの話だが、その両義性がくり返し強調される。実際、祖国の戦争に自発的にせよ強制されたにせよ協力した科学者は昔も今も後を絶たない。「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」というパスツールの言葉はなるほど至言なのだと思わせられる。 そのうえで銘記すべきなのは「戦時下における科学者の立場というものは、戦争に協力を惜しまないうちには重用されるものの、その役目が終われば一切の政策決定から遠ざけられ、蚊帳の外に置かれ」るという事実だ。それでもなお「自分の研究がどんな使い方をされるのか、そこだけはしっかりと目を見開いて」監視していく姿勢が必要だろう。 本書をとおして著者が述べていることはおしなべて建前論にすぎないとの寸評もあるかもしれない。だが、建前を嗤う者はしょせん現状追認論者にすぎないことも事実ではないか。 誠実な科学者であれば、新しい発見の栄光に酔う前に、発生し得るであろう負の部分に警鐘を鳴らすべきなのです。(p29) #
by syunpo
| 2016-02-15 19:22
| 科学全般
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●國分功一郎著『近代政治哲学──自然・主権・行政』/筑摩書房/2015年4月発行
私たちは近代政治哲学が構想した政治体制の中に生きている。現在の政治体制に欠点があるとすれば、その欠点はこの体制を支える概念の中にも見いだせるであろう。本書はそうした問題意識に基いて、近代政治哲学の流れを検討し、これからのありうべき政治社会へのヒントを得ようとする試みである。初年次の学生を対象とした講義をもとに書かれているので、たいへん平易で読みやすい。 俎上に載せられているのは、ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントの七名の哲学者。サブタイトルにあるように〈自然〉〈主権〉〈行政〉をキーワードにしてかれらの政治思想を読みこんでいく姿勢は筋がとおっていて明快である。 絶対主義擁護論から近代政治哲学を決定づける重要な〈主権〉概念を生み出したボダン。自然状態から説き起こし社会契約なる概念で〈主権〉の絶対化をほどこしたホッブズ。その社会契約を一回性ではなく反復されるものと考えたスピノザ。国民主権の実現を立法権に見いだして今日の政治理論に多大な影響を与えたロック。統治行為には必ず立法と執行(行政)の間のズレと緊張関係が存在していることをみていたルソー。共感をもとに政治体制を考えたヒューム。民主制の欺瞞を行政の局面に見てとったカント。著者の問題意識から再吟味されると、おなじみの哲学者たちの思想が別の相貌をあらわして立ち上がってくるようだ。 とりわけルソーの社会契約論の読解がおもしろい。ルソーの「一般意思」についてはこれまで様々な読解がなされてきたが、ここでは立憲主義の観点から検討されている。 大雑把に要約すれば、ルソーが「一般意思は個別的な対象に対しては判断を下させない」とくり返し述べている点に國分は着目する。「一般意思に何ができるのか?」と問うのではなく「何を一般意思の実現と見なせるのか?」と問うのだ。その一つの回答が、法、あるいは最高法規としての憲法である。 近代国家は民主主義的な下からの力だけでなく、立憲主義的な上からの監視を組み込んでいる。両者が完全に統一されることはない。「一般意思」なる概念を作り出すことによって、ルソーは近代国家の姿を正確に予言していたのではないか、と國分はいう。 カントへのアプローチも私には新鮮に感じられた。カントは民主制に形式上の問題点を見出したことを國分は指摘する。立法ではなく執行(行政)において欺瞞があらわれるというのである。何故なら執行の局面において「全員が賛成しているわけではないのに全員の賛成であるかのように決定が下されてしまう」から。これは今日の行政にそのままあてはまる事態ではないだろうか。むろん、カントはそこから明快な指針を導き出すところまで考察しているわけではない。我々は「カントの問いかけに留まらない政治的思考を生み出さねばならないだろう」。 かくして本書をとおして政治哲学の系譜がとりこぼしてきた課題も浮かびあがってくる。その最大の問題点の一つは、国民主権や民主主義が理論的にも立法権を軸に確立しようとしきてきたことの限界と矛盾である。行政権に民意が充分に及ばないことの弊害はすでに多くの指摘があるが、本書が優れているのは理論的にその問題にアプローチしている点だろう。端的にいって近代政治哲学には「行政組織に対する視点の欠如」がみられるというのが國分の見方である。 國分のそのような問題意識はいうまでもなく現代日本の現実の政治に立脚したものでもあるだろう。みずから関与した小平市の道路建設問題にしても、安倍政権の一連の暴走にしても、行政権力がたとえ民意から逸脱していても歯止めをかけることの困難さを露呈させた。 國分が取り上げた哲学者たちは、行政における欺瞞や限界を認識していた形跡が認められるものの、その点について考察を深く掘り下げるところまではいかなかった。課題はなお現代人に残されているといっていい。國分自身が本書において有効な処方的理論を提起しているわけではないが、克服すべき問題点を明確に提示したという点だけでも本書は意義深いものといえるのではないだろうか。 #
by syunpo
| 2016-02-13 19:36
| 思想・哲学
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●岸政彦著『断片的なものの社会学』/朝日出版社/2015年6月発行
自身の体験談や著者の友人、インタビューした人たちにまつわる断片的なエピソードの連なりのなかに誘われるままに入っていくと、その何気ない語りによって、いつしか無限に広がるかのような不思議に魅力的な視界のなかを彷徨っている自分に気づく。 小さな植木鉢をいくつもくれ、四回目に断ったら自宅の前に勝手に置いていった隣のおばあちゃん。路上でギターの弾き語りをしながら十六人ほど弟子にとったおっちゃん。朝鮮半島で生まれ奄美大島に数ヶ月過ごした後、沖縄にやってきて「私は奄美の人間ですから、沖縄は肌に合いません」と繰り返すタクシー運転手。アメリカでロックスターになるために大学を中退した教え子……。 何か明快な社会学的命題が提示されているわけではない。ある事象について社会学的な分析がほどこされているわけでもない。むしろ、ああでもない、こうでもない、と著者の思考は挿話のあいだを行きつ戻りつする。自由について。他者との関係について。普通について。著者なりの思考の軌跡がしたためられていることは確かだが、それはあやふやな形で無造作に投げ出されているばかりである。 本書をとおして浮かびあがってくる主題らしき主題があるとするなら、人生の無意味さということであろうか。と書けばニヒリズムに傾いた書物と思われるかもしれないが、そんなことはない。本書の態度はむしろニヒリズムとは対極にあると思う。人の人生などは、それだけを取り出せば無意味なことの連続であるかもしれないが、だからこそ、生きていく価値があるのかもしれない。まぁ、そんな陳腐なことを著者は言っていないけれど、無意味について考える本書の思考=試行はけっして無意味ではないだろう。 かけがえのない自分、というきれいごとを歌った歌よりも、くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それが人生だよ、という歌がもしあれば、ぜひ聞いてみたい。(p194) #
by syunpo
| 2016-02-08 20:15
| 社会学
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