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洛中千年の花と毒〜『京都ぎらい』

●井上章一著『京都ぎらい』/朝日新聞出版/2015年9月発行

洛中千年の花と毒〜『京都ぎらい』_b0072887_1001128.jpg 嵯峨で育ち、宇治に住んでいる京都府民・井上章一の京都論である。と書くだけで、京都人ならその微妙に屈折したニュアンスを感受することができるだろうか。

 京都といっても京都の中心部である洛中と洛外では大きな相違がある。というか洛中の人びとにとっては洛外に住む者は行政上は「京都市民」「京都府民」であってもけっして〈京都人〉とは認めないらしいのだ。ひぇ〜。洛外に生まれ育ち、洛外に住んでいる井上はこれまで何度も洛中の人たちから差別的な扱いを受けてきたことを明かしている。その結果生まれた「洛外生息の劣等感」が本書執筆の原動力になっているとも述べている。本書が京都周辺に住む者からみた「京都ならではの、街によどむ瘴気」から語り起こしているのもそれゆえだ。

 洛中の人々(=京都人)の何が洛外の人に嫌悪感をもたらすのか。一言でいえば彼らの中華思想ということになろう。梅棹忠夫のような文化人でさえ、そうした中華思想を隠さなかったという。「先生も、嵯峨あたりのことは、田舎やと見下してはりましたか」という井上の質問に対して梅棹は答えた。「そら、そうや。あのへんは言葉づかいがおかしかった。僕らが中学生ぐらいの時には、まねをしてよう笑いおうたもんや。じかにからこうたりもしたな」。今ならいじめとして非難されるであろう体験談を梅棹は悪びれずに当の嵯峨出身者に語ったというのだ。その種のエピソードをいくつか紹介したあとに、井上は嫌味たっぷりに書きしるす。

 私に屈辱をしいた洛中の中華思想にも、ついでだが、ひとことお礼の言葉をのべておく。京都の子として成人していきかねない私の脚を、洛中の人々はひっぱってくれた。お前は京都の子じゃあないと、私はくりかえし、念をおしてもらえたのである。おかげで、私はやや癖のある著述家になりおおせることができた。ありがとうございます。(p52)

 このような〈洛中/洛外〉の二項対立図式を基調にしつつ、井上は京都の諸相を斬っていく。京都における仏教寺院のあり方をアイロニカルに論じるかと思えば、東京中心史観に基づいた明治維新解釈を相対化する。平安京の副都心として洛外を位置づけ、梅原猛の法隆寺論に肩入れしたりするのも興味深い。また天龍寺に象徴されるようなかつての怨霊思想をあとづけながら、強権的な現政権への批判へと向かう筆致にはとりわけ井上らしさが十二分に発揮されているように思う。

 結局のところ、なんだかんだと〈京都ぎらい〉を装いつつ京都への愛を披瀝した本とでもいえばよろしいか。いずれにせよ部外者の私にはふつうにおもしろい本であった。

# by syunpo | 2016-01-17 10:05 | 地域学 | Comments(0)

対米従属からの脱却を〜『転換期の日本へ』

●ジョン・W・ダワー、ガバン・マコーマック著『転換期の日本へ 「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か』/NHK出版/2014年1月発行

対米従属からの脱却を〜『転換期の日本へ』_b0072887_202397.jpg 東アジア情勢が緊迫度をましているなか、日本はどのような道を進むべきなのか。日本の現代史に詳しい二人の研究者による提言の書ともいうべき本である。三つの章から成る。ジョン・W・ダワーの論文とガバン・マコーマックの論文、両者による対談記録という構成である。

 内容的には日本の戦後社会についてサンフランシスコ体制を基点にして分析するものである。ダワーは「従属的独立」、マコーマックは「属国」という言葉を使って日本の戦後政治の矛盾や混迷を指摘している点では一貫している。その見方は本書でも引用されている孫崎享のほか、矢部宏治、白井聡らの戦後分析と重なり合うものだろう。全体を通してとくに新しい視座を提供してくれるものではないが、米国の世界戦略と中国の台頭と関連づけて論及している点に本書の特徴があるといえるかもしれない。

 今後の展望に関しては、サブタイトルに関連づけるならば、両者ともに「パックス・アメリカーナ」から「パックス・アジア」に移行すべきことを主張している点では共通している。とりわけマコーマックが「『大国』の覇権の下での平和体制ではなく、協商主義というか、権力の均衡と共同体を重視したかたちをとるべき」ことをくり返し力説している点が印象に残った。
# by syunpo | 2016-01-15 20:23 | 国際関係論 | Comments(0)

自由主義と民主主義の結合〜『代議制民主主義』

●待鳥聡史著『代議制民主主義 「民意」と「政治家」を問い直す』/岩波書店/2015年11月発行

自由主義と民主主義の結合〜『代議制民主主義』_b0072887_9365417.jpg 代議制民主主義に対する批判が強まっている。現在の政治は社会全体の利益あるいは民意から全くかけ離れて、政治家たちの個人的・党派的利益のみが追求されている、それはひとえに代議制民主主義の不備によるものではないのか、と。本書は制度そのものに対するそのような批判や否定が本当に正当なのかどうかを判断するために、代議制民主主義のあり方と意義を改めて考えるものである。

 現在、多くの国で採用されている代議制民主主義とは自由主義と民主主義とが結びついたものである。その認識が本書の中核を成す。

 権力を制限するための自由主義と、権力を握るための民主主義が、有権者資格の拡大を媒介にして結びついたのが、二〇世紀の代議制民主主義だということもできる。(p69)

 一九世紀までは議会は自由主義のための空間であった。自由主義は、多様な考え方や利害関係を持つ人々の代表者(エリート)が相互に競争し、過剰な権力行使を抑制しあうことを重視する。これに対して、民主主義は有権者の意思が政策決定に反映されることを第一義的に追求しようとする。選挙はそのための有力な手段である。
 最近になって議会が民主主義と結びついたが、両者には別個に生まれてきたことに伴う原理的な緊張関係が存在している。

 ところで、代議制民主主義には有権者を起点として、政治家、官僚へと仕事を委ねる関係が存在する。政策決定を委ねられた政治家、政策実施を委ねられた官僚は委ねた人々の期待に応える行動をとらねばならない。そのような行動をとっていると説明できる状態を「説明責任」がはたされている状態という。つまり代議制民主主義には「委任と責任の連鎖関係」が存在する。

 こうした連鎖関係や誘因構造を決定づけるのは政治の制度である。それは執政制度と選挙制度とに大別できる。各国の代議制民主主義が持つヴァリエーションも、執政制度と選挙制度の違いから生じる誘因構造の相違によって成立する。本書ではこれら二つの制度を基幹的政治制度と呼んでいる。

 基幹的政治制度の細かな検証については省略するが、以上のような文脈で代議制民主主義への不信の強まりを考えるならば、「代議制民主主義が抱える自由主義と民主主義の間の緊張関係が再び顕在化していること」に問題があるということになる。ゆえにその不信を解消していくためには、両者の緊張関係をときほぐし最適なバランスをととのえることが最重要ということになるだろう。

 ここで一つ留意しておくべきことは、選ばれた政治家の性格や役割についてである。一般に政治家は民意を忠実に政策決定へと反省させることを強く求められる。しかしそれは政治の一面にすぎない。

……代議制民主主義において行われる選挙は、民意を忠実に政策決定へと反映させることのみを目指したものではない。歴史的にも、政治家(委任を受ける者)は、選出母体(委任を行う者)である有権者の意思を忠実に反映すべきだとする「命令的委任」や「地域代表」の考え方と、政治家はいったん委任を受ければ有権者の意思から自律的に社会全体の利益を追求すべきだとする「自由委任」(あるいは「実質的代表」「国民代表」)の考え方が、一八世紀後半以降鋭く対立してきた。(p220〜221)

 したがって重要なのは、代議制民主主義の機能不全を改善しようというとき、強化したいのは自由主義的側面なのか民主主義的側面なのかを意識しておく必要があるということである。
 上に記したように今日では民意を忠実に政策決定へと反映させることを求める声が大きい。それは代議制民主主義の民主主義的側面を強調した改革ということになるが、それが貫徹された場合、多数者の専制という弊害が生じる可能性(自由主義はその抑制に力点をおく)も否めず、ただちに最良の代議制民主主義をもたらすとは限らないことはわきまえておかなければならない。

 また、委任と責任の連鎖関係の機能不全が代議制民主主義の課題の根底にあり、それを円滑に機能させることが本来の改革の目的だとすれば、今日声高に叫ばれている政府や議会の人員削減や待遇引き下げだけではプラスの効果は期待できないことも明らかだ。アクターの誘因を十分に考慮していないからである。

 本書の認識では「代議制民主主義は、アクターの誘因をよく考えた、本来的に巧みな制度である」。代議制民主主義を補完するものとして熟議民主主義などの理論や実践も台頭してきているが、著者はそうした民主主義の新しい思潮に対してもどちらかといえば懐疑的である。

 むろん今日の代議制民主主義不信論には様々なレベルのものがある。たとえば単線的な「委任と責任の連鎖関係」に新たな楔を打ち込もうとする國分功一郎のような議論はどうか。すなわち政策実施の段階においても有権者がダイレクトに関与できるチャネルの必要性や強化を説くものである。本書ではそうした課題への言及はなく、その点では不満もないではない。

 ただそうした留保をつけたうえで私の感想をいうなら、待鳥の述べていることは基本的に正しいのではないかとも思う。たとえば今日の安倍政権に立憲主義や民主主義そのものを毀損する政策が見られるとしても、いまだ高い支持率を与えているのがほかでもない主権者たる国民である。主権者が執政者に支持を与えている以上、現在の政治にみられる個々の不満を代議制民主主義のせいにすることに思考の飛躍があることは否定できまい。

 著者は本書の末尾で次のように述べている。「……人類の巨大知的プロジェクトである代議制民主主義が持つしなやかさとしたたかさを知った上で、それを使いこなせることこそが、現代を生きる私たちに不可欠な政治リテラシーなのである」と。
 逆にいえば、政治リテラシーを欠如させた主権者が多数を占める政治社会では、代議制民主主義のしなやかさを充分には享受できず、それ相応の政治しか実現できないということでもある。本書を読んで痛感するのは「代議制民主主義に対する原理的な再検討」という作業そのものの限界である。
# by syunpo | 2016-01-09 09:42 | 政治 | Comments(0)

演奏家はいかに楽譜を無視してきたか〜『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』

●許光俊著『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』/講談社/2014年2月発行

演奏家はいかに楽譜を無視してきたか〜『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』_b0072887_22272620.jpg 大仰なタイトルが付けられているが、早い話が有名な標題音楽の録音聴き比べである。ありきたりの企画ながら類書と一線を画すところがあるとすれば、凡百の専業音楽評論家と違い、その書名からも推察されるように音楽の領域を超えた人文系教養を(ぎこちない身振りながらも)感じさせる点だろうか。プロローグで本書の試みをベンヤミンの翻訳論に準えることに始まって、ヴィヴァルディ《四季〜春》のカラヤンの演奏評にエドマンド・バークを引用してみたり、パイヤールを賞賛するのにフーコーの『性の歴史』を持ち出してみたり、あるいはスメタナの音楽を語るにサイードを参照してみたり。

 本書には全体をとおして貫かれている一つの認識がある。「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である」という命題だ。演奏家の「感覚や想像力」を語ろうとするときに思想家たちの言説がふと紛れ込んだりするわけである。

 ヴィヴァルディ《四季〜春》、スメタナ《わが祖国〜モルダウ》、ベルリオーズ《幻想交響曲》、ムソルグスキー《展覧会の絵》のわずか四曲のCD聴き比べだけで、薄くはない一冊の選書を書いてみせた著者の饒舌には驚嘆すべきかもしれない。

 もっとも著者の「理念」を追求せんとする文章が読者を音楽の楽園へと向かわせる魔力を有しているかどうかは微妙である。オーケストラの特徴を論じるくだりなど紋切型に収まってしまう記述も多く、新たな感興を呼び起こすようなインパクトには欠ける。何よりも高みから演奏家を見下ろすような官僚的な書きぶりからは、書名に示されている「遊戯」の悦楽も恍惚も当然ながらほとんど伝わってこなかった。
# by syunpo | 2016-01-07 22:30 | 音楽 | Comments(0)

人間としての尊厳を回復するための〜『琉球独立論』

●松島泰勝著『琉球独立論 琉球民族のマニフェスト』/バジリコ/2014年7月発行

人間としての尊厳を回復するための〜『琉球独立論』_b0072887_19262782.jpg 琉球独立を提唱する書物はこれまでにも刊行されてきたが、本書は琉球の歴史や国際法、独立運動の国際比較など多面的な角度からその正当性を検証するものである。

「琉球の真実」を知れば、「琉球独立」が決してトリッキーな言葉遊びなどではなく、極めて普遍的でオーソドックスなテーゼであることがわかるはずだと著者は冒頭で述べている。なるほど本書を読んで琉球独立を主張することはけっして突飛なことでも絵空事でもないと理解することができた。

 琉球はもともと独立国であった。歴史上、沖縄の地名が使用されるようになったのは薩摩藩による武力を背景とした併合以後で、それ以前は琉球の地名が一般的に使われた。独立国として繁栄したのも琉球王国としてである。ゆえに本書では一貫して琉球の地名を使っている。

 琉球が沖縄と呼ばれるようになって以降は、構造的な差別と搾取がつづけられてきた。とりわけ戦後は日本国家の米国従属のもとで基地が押しつけられてきたのは周知の事実である。中央政府から政策的な経済支援があったとしても、それは地場産業を衰退させ、自然環境を破壊するものでしかなかった。白井聡のいう「永続敗戦」的な状況は琉球に凝縮してあらわれているともいえる。

 植民地状態からの脱却を目指すにあたって、松島は同時に太平洋の島嶼国との連携を提起している。琉球よりも人口の少ない島嶼の人々が独立を勝ち取ってきたという事実はなるほど研究に値するだろう。パラオ、マーシャル諸島、ソロモン諸島、ツバルなどここで紹介されている太平洋島嶼国はいずれも台湾と外交関係を締結しているのは興味深い。ちなみにこれらの島嶼国は今上天皇が二〇一五年の誕生日に際して出して談話のなかで言及している地域と多く重なりあう。

 本書の独立構想で注目に値するのは、各島嶼の自治に基づく共和国を提起している点である。琉球の歴史を振り返る時、入れ子状に差別構造が形成されてきた事実を無視することはできない。日本が琉球を差別してきたように琉球王国は周辺の宮古や奄美、八重山諸島を搾取してきた。その問題の反省と克服は必須である。そこで、各島の自治を尊重した連邦共和国の形態が望ましいというのが著者の主張だ。

 以上のような琉球独立への志向は、琉球以外の地域に住む日本人にとっても他人事ではない。琉球の人々が憲法九条の完全実施を掲げて独立に向かうとき、日本の安全保障体制も当然ながら安泰ではいられない。まさに日本の「永続敗戦」構造を抜本的に考えなおすことが求められるのである。
# by syunpo | 2016-01-04 19:35 | 国際関係論 | Comments(0)