ブログトップ

ブックラバー宣言

syunpo.exblog.jp

自民党政権から野村萬斎まで語り倒す〜『平成史』

●佐藤優、片山杜秀著『平成史』/小学館/2018年4月発行

b0072887_1992786.jpg 平成時代を振り返る。佐藤優と片山杜秀の対談集である。正直にいえばあまり面白くない。安倍政権からSEALDsまで、全体をとおして辛口の寸評が繰り出されるのだが、高みからあれもダメこれもダメと全方位的にぶった斬っていくのはこの手の対論にお決まりの仕草とはいえ、批判のしかたがいささか粗雑で違和感をおぼえる場面がけっこう多かった。

 時代の混迷の原因の一つを中間団体(におけるローカルルール)の解体という切り口で繰り返し語るのは異論はないものの、誰もが指摘していることで何を今さら感が拭えないし、社会学全般への批判も大雑把。また少子化の問題について、片山がピエール・ショーニューを引いて現代人のマインドを批判しているのも空疎な観念論というほかない。

 その一方で、橋下維新や安倍首相の政治をポストモダン的と規定してみたり、平成を代表する文化人として片山が野村萬斎を挙げてみたり、斬新な視点を提示しているつもりかもしれないけれど、私には奇を衒った印象の方が強く残る。面白味があるとすれば、佐藤の外交官時代のエピソードや永田町の下世話な楽屋話。話が具体的なぶん楽しめる。

 同種の対論としては浅田彰と田中康夫の憂国呆談シリーズが想起されるが、政治からカルチャーシーンまで世界の動きを手際よく交通整理していく浅田のスタイリッシュな語りに比べると、本書の対話はいかにもダサい感じがする。
[PR]
# by syunpo | 2018-07-05 19:11 | クロスオーバー | Trackback | Comments(0)

政治的言説としての「宗派主義」〜『シーア派とスンニ派』

●池内恵著『【中東大混迷を解く】シーア派とスンニ派』/新潮社/2018年5月発行

b0072887_18531688.jpg 昨今、中東の情勢に関して語られる場合、「宗派対立」の観点に注目されることが多い。しかし池内恵の認識は異なる。「現代の中東に生じているのは『教義』をめぐる対立ではなく、宗派の『コミュニティ』の間の対立である」とみるのだ。本書はそのような認識のもとに政治的言説としての「宗派主義」の概要をコンパクトにまとめたものである。同じ著者による『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』につづく中東ブックレットシリーズの第二弾という位置づけになる。

 近年のシーア派の台頭とそれに伴う宗派対立は、淵源をたどれば一九七九年のイラン革命に行き着く。近代化を推し進めたバフラヴィー王朝を打倒し、シーア派独自の理念による政治体制を樹立した革命である。

 イラン革命はアラブ諸国にとっては脅威を与えるものでもあった。オスマン帝国の時代に確立されていたスンニ派優位の権力構造はアラブ諸国の社会の深い層にまで根を張っていた。イラン革命でシーア派の政治的結集の理念と運動が顕在化し、それに感化された動きがアラブ諸国のシーア派のなかに現われた時、スンニ派のイラン革命への共感は恐れと敵意に変わった、という。

 中東に宗派対立を解き放ったのはイラク戦争である。スンニ派のフセイン政権が倒れ、イラクで多数を占めるシーア派が初めて国家の権力を握った。その結果、イランの影響力が強まり、「シーア派とスンニ派の宗派対立」という図式がイラク新体制発足の過程で定着していったのである。

 中東の社会に潜在していた宗派主義は、「アラブの春」を契機にさらに表面化する。それは中東での細分化した帰属意識の拠りどころの「多くの中の一つ」である。その意味では「アラブの春」の後に現われたのは、自由・民主主義への収斂でもなく、文明間の衝突でもない。それは「まだら状の秩序」と呼ぶべきものであった。

……宗派対立は一方で社会の低層から、他方で権力の上部から煽られていく。宗派主義は、「味方」の範囲を規定して動員するためにも、「敵」を名指すためにも、同様に都合の良い、有効な言説であることが、証明されていった。(p133)

 本書は、宗派対立を宗教的観点でのみ見ようとする一般的な傾向を是正し、意味のある議論へと変えていくうえでの良き入門書といえるだろう。
[PR]
# by syunpo | 2018-06-28 18:57 | 国際関係論 | Trackback | Comments(0)

近代日本を生きた〈意志の芸術家〉!?〜『横山大観』

●古田亮著『横山大観 近代と対峙した日本画の巨人』/中央公論新社/2018年3月発行

b0072887_1843415.jpg 二〇一八年は横山大観の生誕百五十年、没後六十年のメモリアルイヤーにあたる。それに合わせた刊行であろう。

 波乱万丈の人生をおくり、近代日本の進展とともに歩んだ国民的画家。性急な西洋化と日本文化の伝統のはざまを生きねばならなかった葛藤は並大抵のものではなかったと思われる。この日本画家を正当に評価するためには、それ相応の感性と歴史観と語彙が必要になるに違いない。著者の古田亮は近代日本美術史を専攻する東京芸術大学の准教授。

 結論的にいえば、私にはいささか退屈な読み味の本であった。最も引っかかったのは著者の大観評価に関する記述がきちんと整理されていないと感じられる点だ。たとえば批判の多い戦時中の大観の仕事に関して著者は以下のように記している。

……大観もまた時代に〈屈した〉かの見方も成り立とう。しかし、大観には〈屈する〉理由などなかった。水戸気質の皇国思想を生まれながらにして身にまとう大観にとってみれば、そもそも自由は報国のなかにしかなかった、といった方がよいだろう。(p171)

 しかし末尾のまとめの部分では、大観の芸術を「意志の芸術」をキーワードにして次のように総括しているのである。

……日本画を改革しなければならないと岡倉天心にしたがった明治期、彩管報国をまっとうしなければならないと先頭に立った戦中期、そして無窮を追う理想的絵画を描かなければならないとうったえた戦後期、その時代ごとに違った色合いをみせている。大観を意志の芸術家と呼ぶにふさわしいのは、画家としてのそうした意志が各時代の作品中に色濃く反映されているからである。(p207〜208)

 戦時中の振る舞いを後世の高みから一方的に批判するつもりはまったくない。しかし「皇国思想を生まれながらにして身にまとう」ゆえに無批判に戦争に協力したと著者が考える画家を「意志の芸術家」と呼ぶのはいくらなんでも無理だろう。そもそも人が特定の思想を「生まれながらにして身にまとう」ことなどありえない。比喩的表現としても軽薄である。

 カラー写真をふんだんに使った読みやすい編集でいかにも新書らしい作りではあるが、評伝としては破綻気味。残念ながら人に薦めたくなる本ではない。
[PR]
# by syunpo | 2018-06-25 18:46 | 美術 | Trackback | Comments(0)

テイストの違いを味わう〜『短歌と俳句の五十番勝負』

●穂村弘、堀本裕樹著『短歌と俳句の五十番勝負』/新潮社/2018年4月発行

b0072887_21585923.jpg 五十人にお題を出してもらい、歌人・穂村弘と俳人・堀本裕樹が作品をつくる、文字どおり短歌と俳句の真剣勝負。「短歌的感情」と「俳句的思索」を読み比べる面白味に加えて、作品ごとに短いエッセイが付けられていてなかなか愉しい趣向だ。新潮社の読書情報誌〈波〉に連載された企画を書籍化したものである。

 荒木経惟の出したお題は「挿入」。ビートたけしは「夢精」、柳家喬太郎が「舞台」と、いかにもその人らしいもの。かと思えば、壇蜜が「安普請」という意表をついたお題で二人を驚かせているのも一興。

 安普請の床を鳴らして恋人が銀河革命体操をする(穂村弘)

 鎌風の抜け道のある安普請(堀本裕樹)


 穂村の歌に登場する「恋人」は大学時代に付き合っていた年上の女性をイメージしたものらしく、部屋のなかでストレッチングを教えてもらったりしたのだとか。銀河革命体操という跳んだ表現がおもしろい。堀本の句にでてくる「鎌風」は鎌鼬(かまいたち)のことで、冬の季語。

 迫田朋子が出したお題はジャーナリストらしく今風に「忖度」。

「忖度」とひとこと云ってねむりこむ悟空を抱いて浮かぶ筋斗雲(穂村弘)

 忖度をし合ひ差しあふ冷酒かな(堀本裕樹)


 堀本の句は、私のような素人にはさっと一読しただけでは意味がわからないものが多い。解説のエッセイを読んでなるほどと合点がいくという次第。でも素人的にはそうした過程もまた定型詩を読む愉しさといえようか。

 作品を並べることで、二つのジャンルの表現力の違いだけでなく両者の対照的な持ち味がいっそう際立つようにも感じられた。造語などでちょっとズレた独特の世界観を表現する穂村の作風に対して、堀本には「古風」なテイストを感じさせるところがある。なお巻末には二人の対談が収録されている。
[PR]
# by syunpo | 2018-06-20 22:01 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

公平な議論の土俵づくりを〜『広告が憲法を殺す日』

●本間龍、南部義典著『広告が憲法を殺す日 国民投票とプロパガンダCM』/集英社/2018年4月発行

b0072887_18352755.jpg 憲法改正の国民投票が現実味を帯びてきた。国会で改憲発議がなされると、次のステップは国民投票。それは二〇〇七年に施行された国民投票法に則って行なわれる。しかし同法の不備を指摘する声は少なくない。本書では、広告規制に絞ってその問題に迫る。

 民主党政策秘書として国民投票法の起草に関わりその後も国民投票制度の研究をつづけている南部義典と、博報堂の元社員で広告業界に詳しい本間龍の二人による対談形式で問題点を炙り出していく。

 ちなみに本間は、岩波ブックレット『メディアに操作される憲法改正国民投票』でも同趣旨の指摘・提言を行なっているが、本書では南部という国民投票制度の研究者と対論することで、より重層的な議論が展開されることとなった。

 最大の問題点は、国民投票運動期間(通常の選挙での選挙期間に相当する)中のキャンペーン資金や広告に関する規制がほぼ無いことである。定められているのは投票日前十四日以後のテレビ・ラジオでのCM禁止という制約のみ。南部によれば、それは「言論・表現の自由」という「美しい理想」を表現した結果という。細かい規制でがんじがらめに縛られた公職選挙法に対するアンチテーゼなのだ、と。

 しかし、逆にいえば「カネさえあれば圧倒的な量のテレビCMを放映できる」「あらゆる広告手段を使って宣伝活動ができる」ということでもある。人間の行動を自由に委ねると、しばしば強い者が勝つという身も蓋もない事態を招く。本書ではとくにその自由がもたらす弊害について警鐘を鳴らすのである。

 現行法では与党・改憲賛成派が圧倒的に有利だという。その理由として本間は以下の四つを挙げている。

(A)「賛成派は国会発議のスケジュールをコントロールできるので、CM枠をあらかじめ押さえておく(予約擦る)ことができる」
(B)「スケジュールが読めるので、賛成派はCMコンテンツ制作が戦略的にできる」
(C)「賛成派は広告業界のガリバー、電通とタッグを組む」
(D)「与党は圧倒的に金集めがしやすい立場であり、賛成派は広告に多額の資金を投入できる」

 そのような法の下で国民投票が実施されるとどうなるか。当然ながら、改憲賛成派のCMが主要な時間帯を占拠して、様々なイメージ広告が電波にのることになるだろう。本間が想定するのは次のような状況である。

 すぐ思いつくのは、明るい家庭や友人たちがにこやかに生活しているシーンを見せて、「この平和な日本をこれからも守るためには(発展させるためには)改憲が必要です」と語るものとか、「北朝鮮のミサイル発射映像」を流して「憲法を変えなければこの国は守れません」みたいなものでしょうか。賛成派は安倍首相を筆頭にどうしてもコワモテイメージがあるから、まずはそれを打ち消して浮動票を獲得するために、できるだけソフトで先進的なイメージを作ろうとするはずです。(p116)

 映像や音楽がいかに大衆に対して影響力があるかは、ナチス・ドイツの時代に実証済みである。そこでは理性的な熟議の過程は軽んじられ、情感に訴えるようなポピュリズムが幅をきかせることだろう。

 そこで気になるのは、昨今、広告代理店やテレビ局の広告審査が「杜撰」になってきていることである。たとえば、通常の選挙では公約は選挙期間中のCMで訴えることはできない。しかし公約まがいのCMが「日常の政治活動」という名目で放送されることが目立つようになってきた。審査部が難色を示しても、立場の強い営業部の言い分が通るわけである。そのような状況は当然ながら国民投票においても想定されよう。

 ちなみに付け加えれば、現行法では海外の有力人物、組織が日本の憲法改正国民投票運動のために出資することも可能である。また南部は内閣官房の機密費が賛成を訴える著名人、文化人、御用学者などに流れていく可能性も指摘している。

 そこでCM規制のあり方として、本書では海外の例を参照しつついくつかの選択肢を提示している。南部が提案している改正案が興味深いので紹介しよう。

 まず国民投票運動の支出として一定程度の金額を見込む者に事前の登録を必要とする「登録運動者制」と運動費用の上限を設定する「バジェットキャップ制」の導入を提起する。
 そのうえで「条件付きでCMを認める」A案と「CMを全面禁止にする」B案を示している。前者は、登録運動者の中から両陣営それぞれの立場を代表する「指名団体」を一つずつ国民投票広報協議会が指名し、その団体に限って例外的にテレビ・ラジオのCMを認めるというものである。

 CMや放送内容などについて内容を検証・審査するために国会の広報協議会に権限をもたせる考えに対しては、南部が「言論活動の規制に関与する機関を国会に置くのはよろしくない」と否定的。そこで民間による「国民投票オンブズマン」の組織化を提案しているのは一つの見識かもしれない。

 本書で重要なのは、法改正に関して改憲に賛成・反対に関わらず、戦略的な発想から議論すべきではないことを強調している点にある。憲法改正は、あくまで公平公正な議論をとおして決着をつけるべきだという姿勢が貫かれているのだ。国民投票法におけるCM規制をどうするかという問題は、まさしく立憲民主政治の核心に触れるテーマなのである。
[PR]
# by syunpo | 2018-06-19 18:40 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)