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ブックラバー宣言

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キリコの震える線のように〜『創造&老年』

●横尾忠則著『創造&老年 横尾忠則と9人の生涯現役クリエーターによる対談集』/SBクリエイティブ/2018年1月発行

b0072887_1012348.jpg「長生きするのも芸のうち」とは演芸界でしばしば口にされる格言(?)である。早逝の天才の系譜にも惹かれるものはあるけれど、なるほど長生きしている創作家にも別様の魔力が宿っているに違いない。

 横尾忠則が八十歳を越えた年長のクリエーターたちに会って対話を交わす。本書はその記録である。登場するのは、瀬戸内寂聴、磯崎新、野見山暁治、細江英公、金子兜太、李禹煥、佐藤愛子、山田洋次、一柳慧。

 前世とか死後の世界だとかに関して熱弁をふるう横尾の死生観にはまったく共感できないが、彼の場合、一種オカルト的な想念が創作活動にうまく昇華した稀有なケースであることは確かだろう。

 老年期におけるクリエーターのおもしろい実例として、横尾はジョルジョ・デ・キリコの晩年に着目している。手が震えて、線も震えていて弱々しいけれど、それが味になっている、という話を何度も繰り返しているのが印象的。

 全体的には対談相手の話が総じて凡庸で私的にはいささか退屈なトークがつづくが、メインテーマからは少しずれる挿話ながら、故人となった金子兜太の戦争中のトラック島での深刻な体験談を「アニミズム」なるキーワードで引き出しているくだりは興味深く読んだ。
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# by syunpo | 2018-05-13 10:17 | 文化全般 | Trackback | Comments(0)

翻訳と土着化の重要性を説く〜『英語化は愚民化』

●施光恒著『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』/集英社/2015年7月発行

b0072887_18294485.jpg 昨今、日本では国策レベルで英語を重視する動きが目立つようになってきた。公用語を英語とする英語特区をつくるという提言、小学校における英語教育の早期化などの動きはその極端な実例といえる。本書ではそのような動向全般を「英語化」と大括りにして批判的に検討する。著者の施光恒は政治理論、政治哲学を専攻する研究者である。

 英語化の根底にあるのは「グローバル化史観」である。その史観に基づけば、英語化はビジネス上の要請のみならず「平和で安定した世界を築くため、政治的・文化的統合を進める」うえでの必須だという。そのためには今や世界標準となっている英語を積極的に導入すべきだというわけである。

 しかし実態はどうであろうか。
「効果が疑わしく公正さにも欠ける新自由主義的な経済政策を無批判に信奉し、子供たちを外需奪取競争の一兵卒とするために英語偏重の教育改革に躍起になっている」のが実情ではないか。

 また国家戦略特区構想のなかには、海外投資家を意識したサービスが多い。政策的に「資本を持ち込んでくれる海外投資家がビジネスを展開しやすい環境を作る」ことも同時に目指されている。
「単一言語使用の誤謬」「母語話者の誤謬」が広まった原因についても、著者は、英米の各種業者のビジネスのうえでのうまみを受け入れたもの、つまり「商業上の理由」にすぎないと断じる。

 そのような実態を覆い隠す役割を果たしているのが「グローバル史観」であり、およびその言語版としての「英語化史観」だというわけである。

「グルローバル史観」に基づく英語偏重政策に対する批判は、さらに歴史的な観点や国際政治的な見地からもおこなわれている。そのような検討を加えることによって本書の記述はより立体的・説得的になっているように思われる。

 歴史的な考察では宗教改革に始まるラテン語と各国の国語との関連を考える。かつては宗教・学術的にはラテン語がヨーロッパの共通語だった。そこでは知識人と一般庶民の断絶があった。しかし宗教改革によってラテン語で書かれていた聖書がドイツ語やフランス語などの土着語に翻訳されるようになり、そのことを通して土着語は国語へと発展した。自分たちが子供の頃から慣れ親しんできた言語で、知識を得ることが容易にできるようになったことは歴史上、画期的なことである。ヨーロッパ近代の民主化への道はそうして開かれたのである。

 ひるがえって日本ではどうだったのか。近代化の初期においては、森有礼らによる英語公用語化論が提起された一方、翻訳の努力によって日本語を豊かにし、近代国家の基盤たる国語を整備していく道も示された。明治日本が選択したのは後者である。明治の近代化成功のカギは日本語の発展にあったといっていい。

 ちなみに、科学技術立国を支えてきたのは日本語で高等教育を受けることが可能だったからという見解は、本書とほぼ同時期に刊行された松尾義之の『日本語の科学が世界を変える』の基本認識と重なりあうものだろう。

 国際政治的な考察では、グローバル化史観に基づく政治的統合の象徴とみられるEUの問題が検討に付される。EUに対する疑義の代表的なものは、加盟各国の民主主義を危うくするというものである。エリート層と一般庶民との分断が強化されるのだ。

 EUのように国際的な共同体を動かす人々は英語に習熟したエリート層だけに限定されていく傾向にある。ウィル・キムリッカは、欧州の言語上の小国デンマークを例に挙げ、使用者の少ない言語を母語とする人々がEUのなかで不利な立場に置かれていることを指摘している。もしEUの「民主化」が徹底されるとデンマーク国民は他のあらゆる国の国民と議論する必要が生まれるが、それは困難なことである。つまり「選挙制の欧州議会を通じてEUの直接的な民主的責任を拡大することはかえって、最終的に民主主義的シティズンシップを掘り崩してしまう結果となってしまう」。

 そこでEUの失敗は「リベラル・ナショナリズム」理論の台頭を促すことになった。すなわち「国民意識やその共有がもたらす国民相互の連帯意識、ナショナルな言語や文化、それらへの愛着(愛国心)などが、実は自由民主主義の政治枠組みを成り立たせるために大いに必要なのではないか」とする考え方である。そのようなリベラル・ナショナリズムは本書が批判するグローバル化史観と相容れないことはいうまでもない。

 また英語の世界標準語化は「自然な流れ」ではなく、人為的なものである、とする指摘も重要。英米が植民地を手放す際、国家戦略の一端として英語の覇権的地位を保ち推進するよう努めてきたことは周知の事実だろう。

 実際、イギリスの文化戦略を事実上担っている機関「ブリティッシュ・カウンシル」が発行した『英語の未来』という書籍には英語の国際戦略が堂々と示されている。「世界の人々が、母語で教育を受け、生活する権利、つまり『言語権』の考え方に目覚めたり、言語的多様性の保護に意識的になったりすることに、イギリスとしては警戒しなければならない」とディヴィッド・グラッドルは書き、イギリス英語のブランドイメージを慎重に守っていく必要性を主張しているのだ。

 以上のような議論を総合すれば、日本で現在進行中の英語化に対してはおのずと「否」という結論に至る。本来なら国家百年の計として重視されるべき教育までビジネスの道具と見てしまう新自由主義的な「英語化」路線は、子供たちから質の高い教育を受ける機会を奪い、日本人の愚民化を進めることだろう。英語化の行き着く先には「誰も望まない未来」が待っている。それが本書の結論である。

 ただし、筆が走り過ぎている箇所も散見されるのが少し気になった。たとえば「言語が異なれば、連帯意識の醸成が難しく、民主国家の運営は困難を極めると言ってよい」というのはやや粗雑な議論ではないか。多言語国家は今も世界中にいくらでもあるし、カナダのように日本以上に民主制を機能させている国もある。肯定的に引用されている鈴木孝夫のいう「タタミゼ効果」(日本語を学ぶと性格が温和になるとする仮説)にしてもかなり主観的なもので、それを英語化愚民論につなげるのは強引な気がする。

 とはいえ、新自由主義的な英語化に代わる世界のあり方として「積極的に学び合う、棲み分け型の多文化共生世界」を目指すべきとする主張に反対する理由はない。たとえ月並みな理念であったとしても実現されていない理念はいつだって新しい、との至言をここで想起するのも意義深いことだろう。
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# by syunpo | 2018-05-12 18:50 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

大作家が自費出版で出した俳句の本〜『句集ひとり』

●瀬戸内寂聴著『句集ひとり』/深夜叢書社/2017年5月発行

b0072887_18364579.jpg 作家の瀬戸内寂聴が九十五歳にして初めて出した句集。「死んだ時、ごく親しい人だけに見てもらえればいい」ということで自費出版されたものらしいが、めでたく第六回星野立子賞を受賞した。

 巻末には俳句と関係の深い人々との交遊録的なエッセイが併録されていて、瀬戸内と俳句との関わりに関する舞台裏をも知ることができるという構成である。

 ちなみに句集の題は一遍上人の言葉を意識したものという。
「生ぜしもひとりなり/死するもひとりなり/されば人とともに住すれども/ひとりなり/添いはつべき人/なきゆえなり」

 生ぜしも死するもひとり柚子湯かな
 はるさめかなみだかあてなにじみをり
 子を捨てしわれに母の日喪のごとく
 寂庵に誰のひとすぢ木の葉髪
 湯豆腐や天変地異は鍋の外


 自由に生きてきたひとりの文学者の矜持や孤独が、小さな文字の宇宙のなかに畳み込まれている。そこから聞こえてくるのは、ことばとともに生きてきた人の歌い語る声であり、また生命ある者の幽かな鼓動でもあるのかもしれない。
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# by syunpo | 2018-05-09 18:40 | 文学(詩・詩論) | Trackback | Comments(0)

言語を一元的管理することの不可能性〜『国語審議会』

●安田敏朗著『国語審議会 迷走の60年』/講談社/2007年11月発行

b0072887_1961077.jpg 近代の国民国家は「国語」によって国民統合を実現しようとする。そのときから人間にとって自然な存在であるはずのことばが、政策という人為の対象となってきた。日本でその役割を担ってきたのが国語審議会である。一九三四年、官制にもとづいて文部大臣の諮問機関として発足。一九四九年からは文部省設置法で設置が定められ、国語審議会令で規定された組織として二〇〇一年に廃止されるまで存続した。それ以降は、新たに設置された文化審議会の国語分科会に引き継がれている。

 本書は国語審議会・国語分科会で展開されてきた議論を振り返り、日本の国語政策の歴史を検証するものである。

 近代国家が「国語」をつくりあげていくときには、一般に二つの方向が提示される。ひとつは、国家の領域内で遍く(地域的にも階層的にも)通用するものを目指すやり方。この場合、国語はより簡略化の方向に向かう。もうひとつは、言語がその国家の歴史・文化などをあらわすことを重視する方向であり、いたずらな簡略化には否定的である。

 この二つの方向は相互補完的であるが、時と場合によっては対立する。国語政策は一般的にその重点をこの二つの方向のどちらかに重きを置きつつ推移しているともいえる。本書では便宜的に前者の方向を「現在派」、後者の方向を「歴史派」と名づけ、その両者間の議論を軸に国語政策の変遷を見ていく。

 戦前の日本では、対外的な拡張政策を背景に植民地下の住民でも簡単に学べるよう国語の簡略化を訴える現在派勢力が存在した。それは漢字廃止やローマ字化までを視野に入れた表記簡易化をめざすものであった。文部省や言語運動団体などではこうした現在派が中心的な役割を担っていた。しかし歴史をみれば明らかなとおり、その方針を貫徹させることはできなかった。結果的には、漢字かなまじりの形態、歴史的かなづかいで均衡を保持することに落ち着いていったのである。

 戦後も、戦前の現在派と歴史派によるせめぎあいをひきずりつづけた。ただし主張を支える論拠はかなり違ったものになった。
 戦前の現在派が目論んだ標準漢字表制定という事業を継続するところから、戦後の国語審議会は始まる。敗戦直後から十数年は「民主化」を理想とする国家にあわせて「国語もわかりやすく、いま現在を重視した『改革』がめざされてきた」のである。

 文部省国語問題研究会による『国語の新しい書き方』では、戦後経営として国語問題が浮上するという構図を示し、一九四五年の敗戦をこれまでにない大きな社会変動としてとらえ、従来解決できなかった問題を一気に「伝統や感情にとらわれ」ずに解決すべきだ、と主張している。現在派が上からの一元的な改革を志向していたという点では、戦後になっても変わりはなかったといえる。

 そのような現在派に対する疑義を表明した歴史派の代表格として時枝誠記をあげることができる。時枝はあくまでも「下からの施策」を求めたのである。この対立は建設的なかたちで交わることはなかった。

 国語審議会が建議を頻繁におこなったことにより、あまりにも世論を顧慮せずに特定の方向を示しすぎたのではないか、という危惧は表面化し、一九六一年には五人の委員が審議会を脱退するにいたった。当時の土岐善麿会長が主導した国語簡易化方針に反対する委員たちである。

 一九六六年以降は「正しい国語」を示すのではなく、「正しい国語のありかた」を示すことになった。基準から目安を提示するにとどめるという方針の転換である。その具現化として当用漢字にかわる常用漢字の制定があげられる。「分かりやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用」の「目安」となることを目指したものである。

 それに伴い審議会の答申内容は「説教くさく」なったと安田は指摘する。たとえば日本語は今や日本人のものではないとの認識を示しながら、「国語を愛護する精神を養うこと」が相変わらず望まれたりしているのである。そのことに関する安田の評価はかなり辛辣である。

 表記について歴史派と現在派の対立の軸が設定できなくなり、両者の調和がはかられた。そこで生じたのは、表記のありかたに国語の歴史をみるのではなく、国語そのものに歴史と文化をみる、歴史の思想化だった。つまりは、精神主義である。(p179)

 国語の伝統・国語への愛をどれだけ強調してみせたところで、この社会の構造的格差は解消されない。むしろ、国語への愛にまどろませることで、現実を直視することから逃避させたいのかもしれない。(p196)


 また敬語をめぐる議論についても批判的に検証している。とりわけ二〇〇七年に文化審議会が答申した「敬語の指針」は相当珍妙なシロモノであるようだ。指針の末尾には以下のような認識が提示されている。

 敬語や敬意表現が、コミュニケーションに参加する人同士の人間関係、また互いの人格や立場を尊重し反映させる言語表現である以上、多様化した人間関係の下に行われる現代社会のコミュニケーションにおいて、その重要性はこれまで以上に高まっているものと考えなければならない。さらに、社会や生活様式のこうした変化が、この先も持続するものと考えれば、敬語や敬意表現の重要性は将来においても変わらない。(p249〜250)

 格差が拡大する社会を多様化・複雑化としてとらえ、そのなかで「相互尊重」のための円滑なコミュニケーションには敬語が不可欠だという立場である。それに対して安田は次のように疑問を投げかける。

 敬語を使いこなすことが人間関係の平等性をしめすのだ、と主張するのであれば、社会的な不平等はそこでは隠蔽されるしかない。これはまさに統治技法としての敬語である。
 敬語は社会規範だ、と宣言したほうがよっぽどすっきりする。(p250)


 国語審議会・国語分科会の指針がいっそう倫理化していく一方で、他の省庁による日本語の具体的な整備も進められたのは皮肉というべきか。
 国語審議会が「国語は伝統だ」などといって倫理化しているときに、通産省はワープロで使用する日本工業規格(JIS)漢字第一水準、第二水準などを制定していった。同様に、人名用漢字の選定に関しては戸籍行政を担当する法務省が主導権を握るようにもなった。つまり、国語審議会は、日々の生活で直面する言語問題について中心的に議論をする場ではなくなっていったのである。

 そして倫理化した審議会の問題提起はいっそう観念的なものになっていく。「文化審議会のいう『多様性』のある社会とは所詮、混乱をきたさない予定調和的な社会である」と安田はアイロニカルに述べている。

 本書を通読し終えたのちに前半に掲げられた著者の結論的言辞を読み返すと、いっそう説得力をもって迫ってくるように感じられた次第である。

 ことばは伝統である、と唱えてもよい。「母語としての国語」とはその意味である。しかし、ことばは趣味の問題でもある。ことばが多様であることは、けっして「乱れ」ではない。ことばが通じないことは、けっして恐怖ではない。ことばを一元的に管理することはできない。それは国語審議会の漂流の歴史からもあきらかである。とりわけ技術的な側面から一元的な管理がめざされたのであるが、それがほとんど意味をなさなくなってきている現在、簡単な日本語から複雑でめんどくさそうな日本語、そして日本語以外のことばが入り込んだ日本語までをふくめたさまざまな日本語を同時に流通させることだって可能なはずである。ことばは、政策的に管理されてはならない、とはいえるだろう。さまざまな日本語が存在することを、混沌や混乱などとみなさないこと、これが本書の主張である。(p22)
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# by syunpo | 2018-05-08 19:00 | 日本語学・辞書学 | Trackback | Comments(0)

国家権力に宛てた最高法規〜『憲法主義』

●内山奈月、南野森著『憲法主義 条文には書かれていない本質』/PHP研究所/2014年7月発行

b0072887_1134146.jpg AKB48の内山奈月に九州大学准教授(刊行当時)の南野森が講義をするというスタイルでまとめた憲法学の入門書。〈憲法とは何か?〉から始まって、〈人権と憲法〉〈国民主権と憲法〉〈内閣と違憲審査制〉とつづき、〈憲法の変化と未来〉を考えて締めくくる。

 憲法とは “constitution” の訳語である。 “constitution” は “constitute” の名詞形。それにismを付けると “constitutionalism” 。つまり西洋語の体系では「国家設立→憲法→立憲主義」が一直線につながっている。

 立憲主義というと何だか難しく聞こえますが、constitution に ism(主義)をつけただけなので、これは西洋人にとっては「憲法主義」くらいの感じではないでしょうか。
 立憲主義という言葉から、ただちに憲法が頭に思い浮かぶかどうかは、日本だと中学生くらいなら無理かもしれませんが、西洋人なら constitutionalism と聞けば自然に憲法が思い浮かぶはずです。(p79)

 本書のタイトルを「憲法主義」としているのも以上のような認識に基づく。

 講義内容は憲法を学ぶうえで基礎的な問題がひととおり押さえられている。憲法と法律との違いとして、最高法規、硬性、違憲審査権といった特徴に加えて、対象の違い・名宛人の違いということにも論及しているのは立憲主義の基本であり当然のことだろう。法律は一般の人々を相手にするものだが、憲法は国家権力を相手にしている。未だにこの点を理解せず憲法に国民の義務を書き込めと主張する人物がメディアにしばしば登場するのは残念というほかない。

 国民主権を「権力的な要素」と「正当性の要素」の両面から考えているのは勉強になった。前者では、君主が権力を握っている君主制に対比できるものとして、国民が権力を握る国民主権を理解することができる。後者では「ある決定が誰の名前で正当化できるのか」が問題となる。
 現代の政治制度のもとでは、もっぱら後者の要素が全面に出てくる。つまり、国民は「権力を持って実際に決定を行う存在として登場するのではなく、決定に正当性を与える存在として出てくる」というわけだ。ここから代表民主制への話と展開していくことはいうまでもない。

 憲法学上の難問とされている違憲審査制をめぐるやりとりも興味深い。「国権の最高機関」たる国会で制定された法律をなぜ裁判所は審査できるのか。民主主義に悖るのではないか。この疑問に対して、南野は最初に「違憲審査制を完全に正当化することはできない」と断ったうえで議論を進める。訳知り顔で難解な法理論をあれこれ論じられるよりも、いっそすがすがしい。
 多数決原理を採用することの多い民主政では「普通の人間はなかなか少数者のことまで考えが及ばない。ということは、民主主義だけで突っ走るとどうなるでしょう」と問いかけ、それに歯止めをかけるものとして違憲審査制を置く──という説明は常識的なものかと思われる。

 少し引っかかったのは選挙制度に関する解説。どの選挙制度にも一長一短があるけれど、本書では、比例代表制によって生まれやすい多党制や連立制への評価がやや一面的と感じた。比例代表制では少数政党が乱立して政権が安定しない傾向があると言うのであれば、それには同時に一党による独裁を抑制する働きがあると付け加えるべきだろう。また一票の格差について多くの紙幅を費やしてきた本書の問題意識からすれば、比例代表制では一票の格差が生じないという事実は大きなメリットのはずである。
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# by syunpo | 2018-05-01 11:35 | 憲法・司法 | Trackback | Comments(0)