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受容者層の変遷に着目した異色の音楽史〜『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』

●片山杜秀著『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』/文藝春秋/2018年11月発行

b0072887_12272433.jpg 音楽の歴史には人類の歴史そのものが刻まれている。とりわけ音楽の受け取り手である教会、宮廷、市民層の変遷は、まさに政治、経済、社会の歴史にほかならない。本書はそのような認識に基づき、音楽批評にも健筆を振るっている思想史研究者の片山杜秀がクラシック音楽の歴史を語りおろしたものである。

 ヨーロッパの音楽史で、中身がある程度はっきりしたかたちで今に連続していると考えられるのは、中世に成立したといわれるグレゴリオ聖歌である。伴奏がなく人間の声のみで歌われるのが基本形。メロディは今日の感覚からすればとても単調に聴こえる。それは人間にとって楽しいかどうかが問題ではなく、神の秩序すなわち「ハルモニア・ムンディ」を反映した音楽だから。

 宮廷音楽は壊滅することがあるが、宗教音楽はその宗教ある限り残る。キリスト教はもちろんヨーロッパの歴史を貫いて信仰されてきた。クラシック音楽の権威性のルーツはグレゴリオ聖歌に端を発する教会音楽にある。それはキリスト教の権威を示し、神の秩序をあらわす最高の道具だった。この宗教音楽としての特性は、その後、クラシック音楽が世俗化しても脈々と引き継がれていく。

 グレゴリオ聖歌のモノフォニー(単旋律)の世界の後に、ポリフォニー(多声音楽)と楽器の多様化現象があらわれる。そのきっかけとなったのはオルガヌムという唱法である。それは単旋律に同じ旋律をダブらせるところから始まったとされている。その背景には十字軍遠征による東方からの影響などが考えられる。

 グレゴリオ聖歌を歌うのは修道士や神父たちで、聴衆は聖職者たち自身であり、ミサなどに参加する信者だった。その状況を大きく変えたのは十六世紀に始まる宗教改革である。

 宗教改革の口火を切ったマルティン・ルターは音楽にも通じていたことはよく知られている。教会で歌う歌もラテン語の聖歌ではなく、ドイツ語の讃美歌に代えていった。重要なのは、グレゴリオ聖歌からポリフォニーの教会音楽までは修道士や神父が歌い、信者は聴く立場だったのが、宗教改革以後、プロテスタントでは信者たちが自ら歌いかつ祈る、いわば参加型のスタイルに変わっていったことだ。

 さらに宗教改革の音楽の特徴として、独唱・独奏が重視されるようになったことも挙げられている。

……宗教改革は、民衆が主体的に信仰と音楽に参加していくコラールの「参加の原理」と、私に与えられた天職をまっとうし、ひとりで歌い、一対一で神とつながろうとする独唱の「個人の原理」という二つの方向性をもっていたといえるでしょう。(p72)

……そこでは、神の秩序を表象するパノラマのような音楽から、個人を主体とした参加と、魂の叫びとしての音楽への大転換が起きていました。近代の自由主義や民主主義を用意する音楽が登場したのです。(p73)

 この時期、ローマ教会の絶対性が揺らぐ過程で、もうひとつ、神の秩序を目指す音楽から離れ、人間の感情をストレートに表現する音楽ジャンルが誕生します。オペラである。

 ルネサンス期には、個の感情の爆発、官能性の表現、ギリシア神話などに姿を借りて現実の人間世界がテーマとなり、世俗の舞台で堂々と演じられるようになった。オペラの誕生は、こうした音楽の世俗革命だったといえる。

 教会とともに音楽のパトロンとなったのは現世の権力を握った王侯貴族たち。彼らは専属の音楽家を雇って自分たちのために作品をつくらせ、自分たちの屋敷・別荘などで演奏させた。その時代に登場したのが、ヨハン・セバスティアン・バッハ、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルらである。またゲオルク・フィリップ・テレマンの活躍も無視できない。彼は公共の世俗的催事のための音楽、教会音楽、オペラなどの娯楽作品などを次々とつくった。まさに市民の時代の幕開けを象徴するような作曲家であったのだ。

 バッハは当時、テレマンほどの人気はなかったという。かつてのポリフォニーの音楽の時代にこだわる古いタイプの音楽をつくっていたから。フーガやカノンなどの対位法的な手法を徹底的に使って音楽を緻密に数学的に織り上げていくことにこそ、音楽の本分があると信じていた。しかしそれは時代錯誤なことだった。

 十八世紀になると、商業経済の活発化に伴い、大都市圏では市民層が主役になっていく。ドイツやオーストリアなどではまだ領主たちの力が強かったが、宮廷音楽家を養っていくことは次第に困難になっていった。その就職難の波をまともに受けたのがモーツァルトである。彼の生涯の大半は、ヨーロッパ中の宮廷をまわる就職活動に費やされたといっても過言ではないらしい。「ハイドンやモーツァルトが変わったのではない。作曲家の商売相手が変わった」のだ。

 十九世紀に入ってようやく作曲家は自立できるようになる。その頃には市民層の拡大により、音楽教師の需要も高まる。ベートーヴェンはそんな時代に生まれた偉大なる音楽家だった。

 片山は、ベートーヴェンの音楽を三点に要約している。
「わかりやすくしようとする」「うるさくしようとする」「新しがる」──かなり大胆なまとめ方ではあるが、解説を読めばなるほどと思う。ベートーヴェンの時代に音が大きくなった社会背景として片山は都市化と革命と戦争を挙げている。そうしたコンセプトのうえに成立した「第九」は、当時の「市民の音楽」の最終形態であり極限形態だというのが片山の見立てだ。

 その後、ロマン主義の時代が到来する。ポスト・ベートーヴェン時代の市民は生まれながらの近代ブルジョワで「芸術の権威、音楽の高尚に、市民社会における神の等価物」を求めるようになる。クラシック音楽の権威化がすすむ。音楽学校というシステムが成立し、音楽理論も煩雑化していく。
 ロマン派の本質は「旅」にある。ここではない何処かに憧れて彷徨うこと。それがロマン派の精神。この頃に台頭した「教養市民」が高尚な芸術に憧れる姿はまさにロマン派そのものだと片山はみなす。

 そして手の届かないものへの渇望に強烈なナショナリズムを強力に結びつけたのがリヒャルト・ワーグナーである。ワーグナーの音楽は、近代と土着のナショナリズムによる統合であった。それがドイツという非常に強力な国家の形成に貢献したのである。

 そのような十九世紀を経た後、クラシック音楽は「洗練」と「超人志向」の二つの流れを生み出す。市民社会のひとつの完成や行き詰まりとしての「洗練」と、その壁を踏み越えさらなる進化を目指す「超人志向」。
 演奏家はクライスラーのように、趣味の良い典雅さの中に微妙なニュアンスを込めるスタンスが高く評価されるようになる。「超人志向」の音楽としては、ワーグナーにつづいてグスタフ・マーラーやリヒャルト・シュトラウスなどが現れた。

 第一次世界大戦は音楽の世界をも当然ながら大きく変える。もはや進化も超人も決定的にリアリティを失う。音楽は刹那的で享楽的なものになる。ジャズはその代名詞である。クラシック音楽の世界では、新古典派音楽が登場し、さらに前衛音楽が生み出される……。

 シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ラヴェルがそれぞれ表現しているのは、壊れた世界で、周囲も見えぬまま、我を忘れて熱狂し、時間も空間もすっかり分からなくなって、バタンと倒れて、それでおしまい、という世界です。これぞ二十世紀のクラシック音楽が第二次世界大戦の前の段階で到達した姿です。その世界の、まさにサーカスの綱渡りのような延長線上に、われわれは今日も生きているのです。(p234)

 音楽家の音楽観や精神性などにスポットを当てた音楽史はこれまで数限りなく書かれてきた。本書のように音楽の受容層の変遷に着目したものは類書にはないユニークな特長といえるだろう。なるほどいかに優れた才能といえども社会から隔絶されたところから芽を吹き出すことはない。とりわけクラシック音楽というジャンルは、演奏され人に聴かれるためには、多くの労力と金銭を必要とする。片山の音楽史観はこうして一冊の本にまとめられると、至極説得的なものだと思われる。中公新書から出ている岡田暁生の凡庸な『西洋音楽史』に比べると段違いの面白さといっておこう。
by syunpo | 2019-02-06 12:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

恩人たちへの感謝〜『おわらない音楽』

●小澤征爾著『おわらない音楽 私の履歴書』/日本経済新聞出版社/2014年7月発行

b0072887_19365281.jpg 本書は日本経済新聞の〈私の履歴書〉に連載した文章に加筆修正をほどこしたものである。すでに新潮文庫に入っている『ボクの音楽武者修業』という自伝的な書物があり、当然ながら記述内容に重なる部分も少なくないのだが、本書では「恩人たちを紹介する」ことに重きが置かれているのが特長。

 世界的指揮者として活躍してきた小澤だけあって、音楽畑以外の「恩人」たちも錚々たる顔ぶれであることにあらためて驚かされる。日野原重明、小林秀雄、井上靖、イサム・ノグチ、広中平祐……。

 一九六〇年、ヨーロッパでの活動をあきらめて帰国を考えていた時に「どんなことがあっても、ここにいなさい」と助言してくれたのが井上靖で、その言葉がその後も心の支えになったという挿話はなかなか興味深い。「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいことなんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても翻訳なしで理解してくれるじゃないか……」

 音楽仲間との関係では、オペラについて助言をくれたクラウディオ・アバドやコンサート・キャラバンを一緒に始めたムスティスラフ・ロストロポーヴィチらにまつわる話が印象に残った。

 ただ本書はもっぱら社交上のエピソードが中心になっていて、内容的にはやや皮相的で薄味。文体の軽さもそのような読後感を強めている。功成り名遂げた音楽家としての含蓄豊かな文化論的な読み物を期待した私にはいささか物足りない感じがした。
by syunpo | 2016-10-14 19:38 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

搦め手から迫る〜『クラシックの核心』

●片山杜秀著『クラシックの核心 バッハからグールドまで』/河出書房新社/2014年3月発行

b0072887_1981957.jpg 片山杜秀とは私にとってはまず現代音楽の批評というジャンルで知ることになった名前である。ナクソス・レーベルのカタログに解説文なんかも書いていて、私などはその影響でCDを買ったりもした。政治学を専攻する学者であることを知ったのは少し後のことである。

 さて本書は編集者相手に問わず語りに喋った内容を一冊にまとめたもの。バッハ、モーツァルト、ショパン、ワーグナー、マーラー、フルトヴェングラー、カラヤン、カルロス・クライバー、グレン・グールド……と九人の作曲家・演奏家が俎上にのせられている。

 カラヤンもフルトヴェングラーも知らない人が入門書的な意味合いで手にとったならば、それなりの役目を果たす本かもしれない。しかし少しでもクラシック音楽に親しんできた読者には失礼ながら新味はほとんどない。どこかで聞いたような紋切型の論評もしくはそのヴァリエーションといった印象を大きく超えることはないのだ。「へそ曲がり」を自称する片山でも、スタンダードな音楽家を語ると批評の言葉もまたスタンダードになってしまうのか。カルロス・クライバー論など伝記的事実に基いて同じことを延々と喋っているだけで退屈極まりない。

 面白味があるとすれば、個人的な随想としての味わいとでもいえばよいか。たとえばテレビ番組との組み合わせで強烈にインプットされてしまった音楽体験(『レインボーマン』におけるバッハ《トッカータとフーガ》!)の懐旧談など、ほぼ同世代の私にも懐かしさを共有できる事例もあったりして、そういうくだりは楽しく読めた。
by syunpo | 2016-05-01 19:12 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

演奏家はいかに楽譜を無視してきたか〜『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』

●許光俊著『クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学』/講談社/2014年2月発行

b0072887_22272620.jpg 大仰なタイトルが付けられているが、早い話が有名な標題音楽の録音聴き比べである。ありきたりの企画ながら類書と一線を画すところがあるとすれば、凡百の専業音楽評論家と違い、その書名からも推察されるように音楽の領域を超えた人文系教養を(ぎこちない身振りながらも)感じさせる点だろうか。プロローグで本書の試みをベンヤミンの翻訳論に準えることに始まって、ヴィヴァルディ《四季〜春》のカラヤンの演奏評にエドマンド・バークを引用してみたり、パイヤールを賞賛するのにフーコーの『性の歴史』を持ち出してみたり、あるいはスメタナの音楽を語るにサイードを参照してみたり。

 本書には全体をとおして貫かれている一つの認識がある。「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である」という命題だ。演奏家の「感覚や想像力」を語ろうとするときに思想家たちの言説がふと紛れ込んだりするわけである。

 ヴィヴァルディ《四季〜春》、スメタナ《わが祖国〜モルダウ》、ベルリオーズ《幻想交響曲》、ムソルグスキー《展覧会の絵》のわずか四曲のCD聴き比べだけで、薄くはない一冊の選書を書いてみせた著者の饒舌には驚嘆すべきかもしれない。

 もっとも著者の「理念」を追求せんとする文章が読者を音楽の楽園へと向かわせる魔力を有しているかどうかは微妙である。オーケストラの特徴を論じるくだりなど紋切型に収まってしまう記述も多く、新たな感興を呼び起こすようなインパクトには欠ける。何よりも高みから演奏家を見下ろすような官僚的な書きぶりからは、書名に示されている「遊戯」の悦楽も恍惚も当然ながらほとんど伝わってこなかった。
by syunpo | 2016-01-07 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

人が集まって音楽をすること〜『オーケストラ再入門』

●小沼純一著『オーケストラ再入門』/平凡社/2012年8月発行

b0072887_991793.jpg オーケストラ入門ではなく、再入門となっているのがミソである。クラシック音楽を演奏する楽団にまつわるありがちな概説ではなく、ここではオーケストラが何よりも一つの〈場〉として捉えられている。端的にいえば「大勢の人が集まって音楽をする」ことをめぐって自在に記述された書物といえようか。

 むろんヨーロッパ近代にひとまずの完成形をみたオーケストラに関する歴史的経緯に多くの紙幅が割かれてはいる。西欧列強の帝国主義化とオーケストラの拡大に相関関係をみるのは型どおりだ。が、雅楽やガムランの楽団、ジャズオーケストラやYMOなど、いかにも著者らしく様々なジャンルに目配りしているのが本書の大きな特長となっている。

 日本の大都市圏におけるオーケストラへの補助金の削減などの事例を引きつつ「オーケストラなるものへの無関心、無理解は、とりあえず十八世紀以降につくられてきた、個人個人が参加して社会を成り立たせてゆくありようへの危機であるように考えるのは無理があるでしょうか」と問いかける本書の問題提起は示唆にみちている。
 記述がいささかカタログ的でとくに目新しいことが書かれているわけではないけれど、入門書としては充分におつりのくる内容だと思う。
by syunpo | 2012-08-31 09:14 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

心の響きを求めて〜『小澤征爾さんと、音楽について話をする』

●小澤征爾、村上春樹著『小澤征爾さんと、音楽について話をする』/新潮社/2011年11月発行

b0072887_19204899.jpg 小澤征爾の対談集はこれまでいくつも出ている。武満徹との『音楽』、広中平祐との『やわらかな心をもつ』、大江健三郎との『同じ年に生まれて』。いずれもおもしろい本。本書が既刊書と異なるのは相手の村上春樹が聞き役に徹していて対談というよりもインタビュー的にまとめられている点だ。

 村上はクラシック音楽にもことのほか造詣が深い。小澤の口にする固有名詞にも逐一的確な反応を示していくので、対話は大いに弾んでいく。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番の演奏論やマーラーをめぐるかなり突っ込んだ話があるかと思うと「タクトを振るのってむずかしいんですか?」というような素朴にすぎる質問にも小澤は誠実に対応する。小澤の音楽観や楽屋話がざっくばらんに語られていて愉しい本である。
by syunpo | 2011-12-08 19:25 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

ベルリン・フィルへの道〜『僕が大人になったら』

●佐渡裕著『僕が大人になったら』/PHP研究所/2011年6月発行

b0072887_1035269.jpg 先頃、念願のベルリン・フィルへのデビューを果たした佐渡裕のエッセイ集。一九九七年から二〇〇〇年まで『CDジャーナル』誌に連載したものの文庫本化である。フランス、イタリアを中心にヨーロッパのオーケストラやオペラハウスで快進撃が始まった頃の楽屋話が綴られている。
 カラヤンの指揮が気に入らずリハーサル後に演奏会をキャンセルしちゃったという武勇伝をもつピアニストのポゴちゃんことイーヴォ・ポゴレリッチとの良好な共演の様子やら、マルメ交響楽団の演奏会でのカーテンコールのステージ上でオケのメンバーからファンファーレを鳴らしてもらった話やら、書き方次第では鼻につくかもしれない成功譚を関西風味のベタな文章によってなんとか愉しく読ませてしまう。同時に心身の不調や仕事への不安などネガティブな側面も随所に吐露されていて、夢に向かって突き進むマエストロにいっそうの人間味を感じさせる効果を与えている。

 玉木正之の解説が興味深い。
 山本直純が盟友の小澤征爾に言ったという有名なセリフがある。「自分は音楽の裾野を広げる。お前は世界を目指せ」。玉木はその言葉を引いて、日本人音楽家にとっては「裾野を広げる」作業と「世界を目指す」作業とはかつて両立しがたく分業体制にあったのだが、今では時代が変わり佐渡裕がその二役をこなしていることを指摘している。なるほどその意味では佐渡は「新しい時代」の「新しい人間」なのかもしれない。
by syunpo | 2011-06-26 10:06 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

永遠の存在のひとりとなるべき〜『マーラー』

●吉田秀和著『マーラー』/河出書房新社/2011年3月発行

b0072887_926163.jpg 二〇一〇年が生誕一五〇周年、二〇一一年は没後一〇〇年と二年続きでマーラーのメモリアル・イヤーにあたっているらしい。ということで、昨年から音楽や映画の世界ではこの異能の音楽家に関連した企画が目立ってきている。日本の出版界ではさほどの動きはなかったものの、今年になって音楽批評の大御所・吉田秀和がマーラーについて書いた文章を集めた文庫本が登場した。

 江戸前のやや古風な口語調が時折混じる言葉遣いと、必要以上に読点を打って呼吸を整えているかのようなたどたどしさを装った吉田独特の文体(確信犯的悪文といっていいだろう)が私にはどうも肌に合わず、近頃は新聞や雑誌に掲載される文章に接する以外には纏まったものを読むことはなかった。が、本書に関していえば、とかく晦渋な議論に傾きがちなマーラーを論じるには吉田の良い意味で緊張感を解いた語り口はあるいは合っているのかもしれないと思う。

 収録されている文章の初出時期をみると一九四八年頃から二〇〇九年までとかなり長いスパンにわたっていて、その意味では日本における戦後のマーラー演奏=批評の移り変わりが吉田を通して概括できるようにも読める。戦後まもなくの頃は今とは違って演奏会で取り上げられる曲目もかなり限定されていたらしいこともわかって、マーラーを真剣に聴き始めてまもない私のような読者にはいろいろと教えられるところも多い。

 前半部にマーラーの楽曲に関するかなり分析的な長文がおかれている。譜例をふんだんに盛り込み、楽理的にかなり立ち入った専門的な議論を展開していて、私には十全に理解しえたとは言い難いものの、とにもかくにもこれが本書の骨格を成しているといっていいだろう。吉田は、晩年に書かれた《大地の歌》《交響曲第九番》と《交響曲第一〇番のためのアダージョ》を「最も高いところに達し」た音楽として称揚している。マーラーの音楽を語るときに彼の精神的な病いに着目する論者が多いのだが、その点にはほとんど触れないのは吉田の見識といっていいかもしれない。その後は主に録音を中心に演奏評がづづく。

 カラヤンに関する辛口の批評など紋切型の域を出ていないようにも思われるが、レヴァインやシノーポリに好意的な論評を加えているのは愉しく読んだ。とかく主観性の強さが批判の的になっているらしいシノーポリの演奏に対して「より軽い音楽」と評しているのはおもしろい。レヴァインのマーラーは迂闊にもノーマークだったけれど、外資系CDショップの店頭で割安のマーラー全集のボックスセットを見かけたばかりだし、試しに聴いてみようかな。

 残念なのは、ここで取り上げられている録音には廃盤になったものが少なくないこと。逆にマーラーを精力的に演奏・録音している現役組のアバドやインバル、ティルソン・トーマスに関するコメントがほとんどないのが物足りなく感じられた。
by syunpo | 2011-04-23 09:52 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

“越境”する表現としての〜『音楽のエラボレーション』

●エドワード・W・サイード著『音楽のエラボレーション』(大橋洋一訳)/みすず書房/2004年10月発行(新装版)

b0072887_19243356.jpg 『オリエンタリズム』で西欧の思想史を根底から書き換える視座を提供したエドワード・W・サイードは、音楽にも造詣が深く、みずからピアノを演奏することでも知られた。本書はサイードが行なったカリフォルニア大学アーヴァイン校におけるウェレック・ライブラリー講演の記録をまとめたものである。

 本書のキーワードは、書名にも使われている「エラボレーション」である。ただし適切な訳語が存在しないということで、「錬磨育成」「錬成」「変容」「加工」「創造加工」「練り上げ」「熟成」など、文脈によって複数の訳語が使い分けられている。
 このことからもわかるようにサイードのいう「音楽のエラボレーション」とは、すぐれて多義的で多様なニュアンスを包含するものといえるだろう。逆にいえば、いささか抽象的な印象も拭えないのだが、そのなかでは「エラボレーション」に「創造加工」という訳語が与えられている以下のような記述は私には比較的理解しやすいものである。

 ……クラシック音楽が、あまたの競合する文化編成体のなかで、他の文化編成体と連帯するか、区別されるか、あるいは一体化しながらつねに存在してきたことをひとたび認めるならば、わたしたちは、音楽の創造加工(エラボレーション)そのもの——つまり音楽の作曲と演奏——が市民社会のなかにおける一活動であり、他の活動と重なりあい、相互にささえあう関係にあることをみることができるはずだ。(p168)

 サイードが繰り返し強調しているのは、音楽が一見自律的にみえるが故に社会から隔絶しているものと捉え、そうした観点から演奏されたり批評されたりすることの陥穽である。音楽は社会や歴史と切り離されることはなく、むしろ「社会に関与し社会において活動的」なものとして存在し続けてきた。
 もちろん、それはしばしばネガティブな関与として、たとえば階級差を増大させたり女性のステレオタイプの形成に加担したりしてきたのであるが、同時に人間の多様な思考様式を練り上げていくことも可能にするのである。

 本書におけるサイードの論考はテオドール・アドルノが展開した音楽論を批判的に受け継いだものであり、訳文がこなれないこともあっていささか難解ではあるものの、専門分化したクラシック音楽研究家によるあまたの著作とは一味ちがった知的刺戟に満ちたものといえるだろう。
by syunpo | 2009-03-31 19:39 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

あらゆる禁忌を超えて〜『バレンボイム音楽論』

●ダニエル・バレンボイム著『バレンボイム音楽論』(蓑田洋子訳)/アルテスパブリッシング/2008年11月発行

b0072887_17301275.jpg 音楽とりわけ「クラシック音楽」と呼ばれているものは、長らく王侯貴族たちの宮廷音楽としての歴史を有してきたことからもわかるように、政治とは密接な関係にある。ヨハン・シュトラウスのマーチにしてもヘンデルの楽曲にしても、それらはしばしば政治の所産として世に送り出されたものであり、同時に政治を内包するものでもあった。またオーケストラとは「ヨーロッパが帝国主義で拡大していく過程と合わさって拡大していった」(三浦雅士)ものである。
 ところが、わが国ではプロアマを問わずクラシック音楽に関する議論においては、政治的問題を回避する政治アレルギーや政治的カマトトの言説が相変わらず散見されるのを私は奇妙に思っている。

 本書は、盟友の故エドワード・サイードとともに中東和平の問題に心をくだき、イスラエル人やアラブ人が一緒に音楽を学び演奏するウェスト=イースタン・ディヴァン・プロジェクトを推進するなど多彩な活動を続けているユダヤ人音楽家ダニエル・バレンボイムの「音楽論」を集めたものである。
 本書の特色は、良くも悪しくも音楽と政治を互いにアナロジカルに論述している箇所に見出すことができよう。

 ……音楽においては人生においてと同様、速度と実体のあいだに不可分な結びつきがある。和声進行の速度は、政治的プロセスの速度と同じように、和声進行そのものの有効性を左右し、けっきょく、それが影響をおよぼすはずの実体そのものを変化させることもできる。たとえば、オスロ和平交渉は——その是非はともかく——まさに内容と速度の関係が誤っていたせいで、失敗すべくして失敗したと確信している。(p26)

 一国の憲法はスコアに、そして、政治家は演奏者にたとえられるだろう。(p72)


 バレンボイムのこうした思考スタイルは、ウェスト=イースタン・ディヴァン・プロジェクトについて言及した《オーケストラ》《二人のパレスティナ人》と題された論考・レポートに最もよく凝縮されている。それらはサイードとの共著『音楽と社会』で示された音楽観・世界観がより具体的な形で発展したような意欲的な文章だ。

 また、音楽であれ社会問題であれ、あらゆる「禁忌」について批判し、対立する要素や文化の「共存」に大きな価値を見出している点もバレンボイムの姿勢を特長づけていることの一つである。
 その意味では、イスラエルでワーグナーの演奏が禁じられてきたことに彼が反対してきたのも理解できるし、昨今の一大潮流ともなっているピリオド奏法に関して、その実践者が「真正」さをことさら強調するために「人間がもつ創造性の幅を狭めてしまう」として否定的にみているのも興味深い。

 本書におけるバレンボイムの主張は、当然ながら政治的にも音楽的にも大いに議論を呼びそうな内容を含んでいるが、彼自身の音楽活動を理解するうえで、さらには音楽と社会との関わりを考えていくうえで、たいへん意義深いものであることは間違いない。
by syunpo | 2009-02-23 18:34 | 音楽 | Trackback | Comments(0)