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国民の生活よりも大企業の利益!?〜『日本が売られる』

●堤未果著『日本が売られる』/幻冬舎/2018年10月発行

b0072887_18532488.jpg 日本を世界一ビジネスのしやすい国にする。これは安倍政権が掲げる主要政策のひとつである。これまで何気なく聞き流していたが、本書を読んでその意味するところを十二分に理解することができた。要するに国民一人一人の生活向上よりも企業の利益を優先するという宣言なのである。

 周回遅れの新自由主義国家として日本は公共部門が管理統制すべき分野で規制緩和を行ない、市場原理の支配する領域を広げている。水、農地、森林、海、学校、医療……。どれもこれも故宇沢弘文が「社会的共通資本」と命名した大切なものごとである。

 企業は「今だけカネだけ自分だけ」の論理で動く。それを政府が後押しする。それが今の日本の政治経済のありようだ。堤未果はその実態を具体的にあぶり出していく。

 世界では水道の再公営化が趨勢になっているのに、日本では今さらながら民営化を推進しているのは周知のとおり。日本の水道運営権は巨額の手数料が動く優良投資商品として海外の水企業からターゲットにされている。

 二〇一八年、これまで日本の農家を守ってきた種子法が廃止された。ざっくりいえば農産物の種子そのものが「国民の腹を満たすもの」から「巨額の利益をもたらす商品」として、民間企業に開放されることとなった。この分野でもモンサント社をはじめ多国籍企業が大きな力をもっていることはいうまでもない。
 公的制度が廃止された今、農家は自力で種子開発するのは経済的にも物理的にも厳しくなる。安価な公共種子が作られなくなると、農家は開発費を上乗せした民間企業の高価な種子を買うしかなくなり、コメの値段も上がってゆくとみられる。

 日本が世界に誇る国民皆保険制度も米国との関係でいびつなものになっている。一九八〇年代に日米間で交わされたMOSS協議。これによって日本政府は医療機器と医薬品の承認を米国に事前相談しなければならなくなった。それ以来、日本は米国製の医療機器と新薬を他国の三~四倍の値段で買わされているという。費用は国民皆保険制度でカバーされている。医療費高騰の最大の理由は高齢者の増加ではなく日米関係にあるのだ。

 グローバル化した世界では、利益を出したい投資家や企業群が、公的資産であるはずの、種子や森、地下水や遺伝子、CO²を排出する権利に至るまで、何もかもに値札をつけてゆく。それを受けて日本では規制改革推進会議が「全てに値札をつける民営化計画」でアシストするという具合だ。

 自由貿易の旗を振り、TPPやEPAを進めつつ、国内を守る規制や補助金という防壁を自ら崩し自国産業を丸腰にする、そんなことをしているのは日本政府だけだ。(p96)

 世界中の右派政権が自国ファーストの政治を行なっているなか、ひとり日本だけが米国ファーストあるいは多国籍企業優先の政治を推進している。そのような政策を遂行することによって与党政治家にいかなるメリットが転がり込むのか定かではないが、常識的に考えれば不思議というほかない。

 ことほどさように本書に記された内容は読むほどにゲンナリするものばかりだけれど、知らずに穏やかに過ごした後に突然地獄を見るよりも、現実を直視して早く手を打った方が良いのは自明である。ほろ苦い現実から目を逸らしても現実そのものが変わるわけではない。

 後半では売国的政治=多国籍企業に対抗するために諸外国で展開している具体的な政治や市民運動を紹介して本書にささやかな希望を与えつつまとめている。イタリアの草の根政治革命。マレーシアの消費税廃止政策。フランスにおける水道公営化。スイスでの共同組合運動……などなど。

 ただし引っかかる点もなくはない。本書では肯定的に論じられている公的セクターによる管理統制や業界内の自主的な調整はその公共的意義が認められる一方で、腐敗の温床として部外者から批判を受けてきた一面もある。本書における〈規制緩和=悪、公共部門による管理調整=善〉という単純な二元論的図式の評価には留保が必要ではないかと思う。

by syunpo | 2019-04-08 20:25 | 経済 | Trackback | Comments(0)

大切なものはお金に換えてはいけない〜『人間の経済』

●宇沢弘文著『人間の経済』/新潮社/2017年4月発行

b0072887_18513572.jpg 二〇一四年に他界した経済学者・宇沢弘文の晩年のインタビューや講演録をまとめた本。当然ながら平易な語り口で、宇沢の学識に触れたことのない読者にも理解しやすい作りになっている。

 宇沢は旧制一高時代は医学部志望クラスに在籍していたが、東大数学科に進んで代数的整数論や数学基礎論を学んだ。しかし数学にも「貴族趣味」のようなものを感じて、悩んだあげくに経済学に転じたという経歴をもつ。「医学が人間の病を癒す学問であるとすれば、経済学は社会の病を癒す学問であると自分に言い聞かせて、経済学の道に移りました」と当時の心境を回顧するくだりはとりわけ印象深い。

 その言葉どおり、本書における発言もまた社会の歪みや疲弊に対する警鐘的な色合いの濃いものになっている。そこでベースになるのは自身が提唱した「社会的共通資本」という概念である。宇沢が一般の読書人にも広く知られることになったのはこの概念の創出によるところが大きいだろう

 本書では厳密に定義している文章は出てこないが、そのものズバリの著作『社会的共通資本』には「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」と規定されている。
 こうした社会的装置として、宇沢はおもに自然環境(大気・森林・河川など)、社会的インフラ(道路・交通機関・上下水道・電力など)、制度資本(教育・医療・司法など)の三類型を考えた。注目すべきは農村のような存在もそれを単なる農家の集合体としてのみ考えず、社会的共通資本として捉えている点だ。

 社会的共通資本を維持していくためには「それぞれの職業的専門家が職業的なdiscipline(規範)にもとづいて、そして社会のすべての人たちが幸福になれることを願って、職業的な営為に従事すること」が求められる。しかし戦後世界は必ずしもそのような形で運営されたわけではなかった。世界中が医療や教育など社会的共通資本をも市場原理に組み込む新自由主義的な傾向が高まるにつれて、しばしばそれらは破壊されていったことは宇沢のみならず多くの論者が指摘しているところである。とりわけ日本の場合には、中曽根政権以降、米国の要求によって莫大な公共投資が実施された。それらがもたらしたのは、地域の医療、経済、社会、自然環境の破壊であった。

 そうした経緯を語るときには、おのずと先に記したように社会の病を診断する医師の態度にも似たようなものになってくる。宇沢は言う。「大切なものは決してお金に換えてはいけない」と。
 さらに宇沢はジョン・ラスキンを引いて「富を求めるのは、道を聞くためである」という考えを「経済学を学ぶときの基本姿勢として、これまでずっと大事にしてきました」と結びで述べている。

 農村礼賛や新自由主義批判にステレオタイプの表現が散見されるとはいえ、社会的な運動にも関与した宇沢の識見には温かな息吹を感じとることができるのも確かである。それは凡百の経済学者からは感受できない人間味のようなものといえばよいか。昭和天皇やヨハネ・パウロ二世と面会した時のエピソードなども興味深い。

「人間の経済」を重視した宇沢流国富論は、公正や平等を重視する近代リベラリズムと共同体に根ざした公共的価値を受け継ぎ次代に伝えることを本旨とする正統的な保守思想の交差するところに位置づけられるのではないだろうか。つまり多くの人々によって共有することが可能な考え方ではないかと私は思う。
by syunpo | 2017-05-13 19:00 | 経済 | Trackback | Comments(0)

市場原理主義に抗して〜『経済学は人びとを幸福にできるか』

●宇沢弘文著『経済学は人びとを幸福にできるか』/東洋経済新報社/2013年11月発行

b0072887_19284657.jpg 宇沢弘文は『社会的共通資本』なる概念で知られる世界的な経済学者である。二〇一四年に他界したが、その文明論的な広い視野に支えられた思考は経済学の地平を超えて影響力を与え続けているといっていいのではないだろうか。

 本書は学究生活を回想するエッセイ、交遊録、書評などを集めたもの。二〇〇三年初版の『経済学と人間の心』を底本として、その後に行なわれた講演録を追加、二〇一三年に新装版として刊行された。

 率直にいって、一冊の本としてはまとまりを欠くことは否めず、大家の雑文集以上のものではない。新自由主義批判にせよリベラルな教育の重要性を説くにせよ紋切り型のスローガン的な文章が目立ち、私にはいささか退屈だった。「社会的共通資本」に関しても数箇所で言及がなされているが、従来の見解を解説的に繰り返すにとどまっている。

 このような形式・内容からすれば、書名の大上段に構えた問いかけはやや羊頭狗肉の感なきにしもあらずといったところ。ノーベル賞候補とまで言われた経済学者の真価を知るには他の本格的な著作を手にとった方がいいだろう。 
by syunpo | 2015-04-22 19:40 | 経済 | Trackback | Comments(0)

コモンズに生きる人間〜『社会的共通資本』

●宇沢弘文著『社会的共通資本』/岩波書店/2000年11月発行

b0072887_193408.jpg ゆたかな社会を実現するための経済体制はどのような特質をもつべきなのか。それはどのようにすれば実現できるのか。この課題に対して社会的共通資本を中心とした制度主義の考え方をもって答えようとするのが本書の基本コンセプトである。制度主義とは一九世紀末期にソースティン・ヴェブレンが提唱したもので「百年以上も経った現在にそのまま適用されうる」という。

 社会的共通資本とは「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」のこと。自然環境(大気、森林、河川、水、土壌など)、社会的インフラ(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融制度など)の三つに大別できる。

 制度主義経済体制における政府の経済的機能は、統治ではなく監視にある。そして「社会的共通資本の各部門は、それぞれの分野における職業的専門家によって、職業的規範にしたがって、管理・維持されなければならない」というのが基本的な考え方である。

 本書においては農村のような存在をも社会的共有資本と捉え、農村におけるコモンズのあり方を考察しているのが私には興味深く感じられた。宇沢によれば、農村とは個々の農家や農業に還元されるものではなく、またそれらを合算したものでもない。コモンズとしての農村は、農業活動を「統合的に、計画的に実行する一つの社会的組織」として存在すべきものなのである。ちなみに柄谷行人は宇沢のこのような農村コモンズ構想に関して、「共同自助」の観点から経世済民を考えた柳田国男の農政学を回復するものと見なして肯定的に言及している。(※)

 むろん瑕疵がないわけではない。農村におけるコモンズの一例として宇沢が期待をこめて紹介している三里塚農社の試みは、その後成功したとは言い難い。また教育や医療などの分野では全般的に理念的な記述が目立ち、いかにも研究者の書いた本だなぁという印象なきにしもあらずである。
 しかし市場経済や競争原理の弊害が深刻化してすでに多くの時間を経た今、あらためて社会的共通資本という概念を学び直すことは意義深いことには違いない。本書はそのための恰好の入門書といえるだろう。
 

※柄谷行人著『遊動論』を参照。
by syunpo | 2014-01-26 19:06 | 経済 | Trackback | Comments(0)