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主権者の作法を身につけるために〜『ハッキリ言わせていただきます!』

●前川喜平、谷口真由美著『ハッキリ言わせていただきます! 黙って見過ごすわけにはいかない日本の問題』/集英社/2019年2月発行

b0072887_18401709.jpg 前川喜平は文科事務次官を退官後はすっかりマスコミの寵児になった。文科省のこれまでの政策と現在の前川の発言に齟齬を感じることもなくはないのだが、退官後の発言だけを読めば真っ当なものが多いと思う。本書は全日本おばちゃん党代表代行で大阪国際大学准教授の谷口真由美との対談集である。

 現在の教育全般に対する批判や注文、ラグビーにおけるフェアネスの精神、前川の官僚時代の挿話、〈桃太郎〉の問題点、憲法と教育基本法……などなど話題は多岐にわたる。全編をとおして社会や公権力に対する批判精神の重要性を説いているのが本書の肝といえるだろう。

 谷口の専門が国際人権法ということで、当然ながら人権問題や教育にまつわる権利の問題には熱がこもる。前川の憲法論も教育を重視したもので、それはそれで傾聴に値するものだ。

 憲法で平等権と言ったら普通は憲法第14条のことを考えますけど、私は教育に関する平等権は、憲法第14条の平等よりも広いと思っているんです。(p149~150)

 私は、本当に主権者が主権者たり得るためには、知る権利だけではなくて、「学ぶ権利」がちゃんと保障されていないといけないと考えています。学ぶということがいかに大事かということを最近、痛切に感じているんですね。(p207)

 対する谷口も親しみやすい関西弁で噛み砕いた話しぶりで前川の話にうまく絡んでいく。「主権者の作法」という表現を使いながら主権者の体たらくに鞭打つ言葉が印象的だ。

 ……主権者の作法があると思うんですね。主権者として同じフィールドで議論しなきゃいけないことがたくさんあるのに、大半は「難しいことは分からへん」と平気で言う。難しいことが分からへんことをそんな自慢気に言うなよ。反知性とか非知性って言われて何年か経ちますけど、知らんことがそんな偉いですか。(p207)

 前川が高校時代にラグビーをやっていた話をすれば、谷口も子どもの頃、両親の仕事の関係で花園ラグビー場のメインスタンドの下にあった近鉄の寮に住んでいたと応じる。ラグビー選手と「楽しく暮らしていた」時期があったのだ。そうしたことから二人のラグビー談義に花が咲くのも愉しい。谷口が引く「君たちはなぜ、ラグビーをするのか。戦争をしないためだ」という大西鐵之佑の言葉もおもしろい。

 これからの道徳教育や公共教育に二人が強い違和感を表明するくだりも本書の読みどころの一つ。ありていにいえば国家による思想統制や管理が露骨に目指されているのだ。前川の発言は教科書や学習指導要領の内容を踏まえた具体的なものなので、危機感の表明にも説得力が伴っている。今使われている教科書には「上の言うことを聞け」「無制限に働くのはいいことだ」というような話ばかりが掲載されているのだという。

 さらに驚くことには、社会科の学習指導要領には、すでに天皇を敬愛すると書いてあることだ。象徴天皇に対して国家が「敬愛」の対象とする方向で教育に踏み込むのは明らかに憲法理念や戦後民主主義とは相容れない。

「道徳」が最初に導入されたのは、一九五八年の岸内閣の時代らしい。岸と安倍という二人の政治家が道徳教育による国民統制を志向する──いかにもわかりやすい戦後史の系譜の一つだが、前川によれば「岸内閣が『道徳』を最初に導入したときの学習指導要領のほうが今よりもまだマシ」だという。岸政権下では「自分たちで決めた決まりを守る」と書いてあるからだ。

 自分たちで決めた決まりを守る。それが都合悪ければもう一遍、また決め直すという話がビルトインされているわけですから、これは自治とか民主主義につながる考え方ですよね。ところが、今の学習指導要領は「決まりを進んで守る」に変わってしまった。その決まりができた経緯とか、変えられる力があるということはまったく不問。そこはなくなってしまった。(p235)

 上野千鶴子が今年度の東京大学入学式で行なった(東大への批判を含む)祝辞に対して揶揄しているツイートを読むと大半が陳腐な言葉遣いの低劣なもので、上野批判が批判のレベルに達していない。いかにこの社会の人びとが批判の作法を身につけていないかを痛感する。長きにわたる自民党的な教育行政は着々と成果を上げてきているのだ。この流れに対抗するのは本当に難事だと思わずにはいられない。

 その状況をみるにつけ日本では「民主主義を自分たちで勝ち取っていない」から云々というやりとりが前半に何度も出てくるのは理解できなくもない。が、同時にその手の常套句はもう聞き飽きたという思いも拭えない。後続世代には歴史的条件を書き換える術はないのだから、そんな繰り言を重ねても詮無きこと。いかなる歴史的経緯があろうとなかろうと民主主義の看板を掲げていく以上は自分たちで民主主義を鍛えていく以外にないではないか、と強く思う。

by syunpo | 2019-04-15 19:22 | 政治 | Trackback | Comments(0)

歪んだ「政治主導」の矢面に立つとき〜『面従腹背』

●前川喜平著『面従腹背』/毎日新聞出版/2018年6月発行

b0072887_941299.jpg 表面は服従するように見せかけて、内心では反抗すること。──「面従腹背」の広辞苑における語釈である。前川喜平がマスコミに登場するようになってから、この言葉を盛んに口にするのを見聞して、当初は少し違和感をおぼえたものだ。

 日本の政治の問題点として、かつて「官僚内閣制」による弊害が盛んに強調されたことがあった。政治決定の実質を握っているのは官僚であって、政治家は彼らの手のひらで踊らされているだけだという認識を端的に表現した用語である。「官僚内閣制」に不満を感じる国民の多くは、民主党や自民党の唱える「政治主導」に大いに期待をかけた。その一つの結果として、今日のモリカケ問題や公文書改竄に象徴されるような安倍政権の暴走に歯止めが効かない状況がもたらされた。「政治主導」といえば聞こえは良いが、実態は独裁国家と変わらぬ縁故主義の蔓延である。

 安倍政権の実情が明らかになってくるにつれて、前川のいう「面従腹背」にも一理あると思えるようになってきた。実際、本書に記された前川の「面従腹背」的な行政の具体例には賛同できる点も多い。

 たとえば、道徳の教科化の問題。これはいうまでもなく「国家に立脚する教育改革の色彩を色濃く持つ」政策である。前川はもちろんそれに反対の立場であった。政治がそれを決めた以上それに従うほかないのだが、文科省は「道徳教育を学習者である子どもの主体性を重視する方向に転換する姿勢」を打ち出している。二〇一七年六月に公表した学習指導要領解説道徳編では「道徳科の授業では、特定の価値観を児童に押し付けたり、主体性を持たずに言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるもの」と言い切った。安倍政権がやろうとしている道徳教育の枠組みのなかで「考え、議論する道徳」のために様々な工夫をするよう促しているのである。

 また一般に審議会は民主的な政治決定を装うための形式的なものと考えられているが、前川によれば文科省における教育に関する審議会は「政治介入へのバッファー(緩衝材)」になっているという指摘も興味深い。中央教育審議会では、委員の学識や経験に基づく発言をかなり丁寧に拾い上げている。「政治主導で提起された政策課題についても、審議会で検討することによって軌道修正が図られることが多い」という。

 末尾には、毎日新聞の倉重篤郎と文科省の先輩・寺脇研との座談記録も収録されていて、こちらもなかなかおもしろい。とりわけ加計学園獣医学部認可をめぐる政権内部の確執を前川が解説している舞台裏の挿話では閣内が必ずしも一枚岩でなかったことが明らかにされている。
 当初、安倍首相が推進、獣医師会をバックにした麻生が反対、石破が慎重……と均衡していた。衆院福岡六区補選で獣医師会=麻生支持候補が安倍支持候補に惨敗して、流れが一気に安倍首相サイドに傾いたらしい。

「面従腹背」は前川の現職時代の座右の銘だが、退官後のそれは「眼横鼻直」だという。鎌倉時代に宋から曹洞宗を伝えた道元禅師の言葉で、「眼は二つ横に並んでいる。鼻は縦についている」ことから、当たり前のこと、ありのままでいいということを意味する。

 官僚と国民から選ばれた政治家との関係はいかにあるべきか。近代民主政の根本に関わる古くて新しい重要課題だが、本書はそれを再考するための生きた教材となるものだろう。
by syunpo | 2018-09-01 09:47 | 政治 | Trackback | Comments(0)

ズルい人ほど道徳を利用する!?〜『みんなの道徳解体新書』

●パオロ・マッツァリーノ著『みんなの道徳解体新書』/筑摩書房/2016年11月発行

b0072887_2147566.jpg「日本人の道徳心の低下」を嘆く声はいつの時代にもある紋切型言説の典型である。だから道徳教育を強化しなければならない。とつづくのもお決まりのパターン。パオロ・マッツァリーノは一九五〇年代にもみられたそのような意見を引いて「人間って、いつの時代もおんなじことをいってるんですね。とどのつまりが、少なくともこの六〇年間、日本人の道徳心にはほとんど変化がなかったということです」と述べている。

 戦後の民主主義的自由教育のせいで自由とわがままをはき違えた人間が増え、その結果日本人の道徳心が劣化したとする意見には、何ら根拠のないことは少し考えればわかることだろう。戦後民主主義以前の人々の方が現代よりも道徳心が高かったといえそうな統計調査や研究報告などどこを探してもないのだから。
 現代人が寛容さを失ったという、これまた昨今よく聞かれる声にも当然ながら首肯することはできない。

 現代人は寛容さを失ったとする説には矛盾が多すぎます。そこで私はこう考えました。むかしの人は寛容だったのではなく、鈍感だっただけなのだと。鈍感だったから自分が傷つくこともあまりなかったし、他人を傷つけても平気だったのだ、と説明したほうが腑に落ちます。(p28)

 通常、学問は進歩と改革を目的としている。ところが「道徳」は「なぜ」という疑問を許さない。それは「道徳」が進歩と改革を目的としていないからである。すでに正解が決っている善悪の基準をこどもたちに押しつけて、基準をブレさせないようにすることが「道徳」教育の目的とされてきたのではないか。「なぜ?」を禁止することでオトナたちはメンツを守ってきただけではないのか。あるいは道徳教育の強化を主張するオトナたちは、何らかのズルをして利益をあげるために道徳を方便に使っているだけではないのか。

 そのように冒頭でブチ上げた著者が学校で使用されている道徳副読本を読んでバッサバッサと斬っていくところは本書の読みどころの一つ。ちょいと無理やりなツッコミもなくはないが、おしなべて痛快な切れ味をみせている。

 たとえば、教育出版4年生用副読本で「新聞を読もう!」と呼びかけているのに対して、何故新聞を読まなくてはいけないのかと真っ向から疑義を呈する。一昔前のニュース源といえば新聞しかなかった、テレビでもたいしたニュース番組はなかった、しかし今はニュースを知る手段はいくらでもある。「現代人はニュースで溺れる寸前です。このうえ新聞まで読め? もうかんべんしてください」。

 あるマンションで、ピアノを練習する音をめぐって隣人同士がもめ始めた。そこで管理組合の理事長があいだに入って互いのいいぶんを聞き、ピアノの置き場所を変えて、練習時間にも配慮することで両者ともに納得。その結果、以前よりもなかよくなれた。理事長はこの経験から、同じ音を立てても、仲のよい同士なら気にならないのだなあと考えて、マンション内でクリスマス会やバス旅行などのイベントを企画することにした……。

 ……以上は東京書籍6年生用の副読本に収録されている話。この話に対する著者の見解はふるっている。「もめているおとなりさん双方から話を聞いて、どちらも納得するような条件を模索する」までは「素晴らしい話」としながらも、後半は「ヘンテコな理屈」で、せっかくの成功体験から「誤った方程式を導き出してしまった」という。

 どんなに仲良くなっても、うるさいものはうるさいですよ。こどもが真夜中にデカい声で歌を歌ったら、普段仲のいい親でも「うるさい!」と怒るでしょう。
 相手に文句をいわないのは、仲がいいのではなく、相手に気をつかってるだけです。
 気軽に文句をいいあえる間柄を、本当の仲良しというのです。(p68)

 さらに著者は道徳の副読本に関して共通している問題点として「理想の家族しか登場しない」「樹木信仰」「歴史や数学を無視している」ことに加え、「自分の身を犠牲にしてだれかを助ける」ことを賞賛することにも批判を加えている。

 他人をしあわせにする代わりに自分がいのちを落とす自己犠牲を勧めるのが道徳的だとは、私には思えません。それはむしろ不道徳。
 自分を殺し他人を生かすのはあくまで次善の策、窮余の策にすぎません。他人を殺し自分を生かすのはもっと悪い。他人も自分も死ぬのは最悪です。
 他人も生かし自分も生きよ。これこそが正しい道徳です。
 どのみち道徳などというものは、おしなべて理想論にすぎません。だったら、最高の理想を教えるべきでしょう。(p145)


 一時期世間を騒がせた若者の「なぜ人を殺してはいけないか」という質問をめぐる考察なども下手な哲学的考察よりもよほど知的な感じで読み応えがあった。著者の道徳観に全面的に納得・共感できるわけではないけれど、おもしろい本であることは確かである。
by syunpo | 2017-05-29 21:56 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

文理横断的な実験によるアプローチ〜『モラルの起源』

●亀田達也著『モラルの起源 ──実験社会科学からの問い』/岩波書店/2017年3月発行

b0072887_2048055.jpg 人間の社会を支える人間本性とはいかなるものか。これは古来、当の人間にとって最も主要な論題の一つとして繰り返し問われ研究されてきたものである。本書ではその問いに対して実験社会科学という新しいアプローチで答えようとする。

 まずヒトの社会行動や心の働きはほかの動物と比較したときに、どう位置づけられるか。そしてそのような生物学的基礎をもつ「ヒトの心」が、人文社会科学が対象とするような「人の社会」の成立とどう関わるのか。利他性・共感性・正義など「モラル」を構成する人間の心の起源にそのようなステップを踏んで迫っていく。

 当然、そこでは分野横断的な態度が必要になるだろう。本書では、脳科学、進化生物学、霊長類学、行動科学などに加え、人類学、社会学や行動経済学、心理学、哲学などなど、あらゆる科学的知見が動員される。とりわけ様々な実験やゲームによって得られた知見や推論が多く参照されていて、そこに本書が実験社会科学を標榜している所以がある。

 まず、霊長類学者のダンバーの調査によれば、霊長類の大脳皮質の大きさは、その種における群れのサイズとの間に正の相関関係があるという。群れのサイズが大きい種ほど大脳皮質が大きい。群れが増大すればするほど、必要な情報処理量(認知、判断、言語、思考、計画など)の増大も必要となると考えられる。

 進化時間におけるヒトの心の適応には、このような集団での生活形式が重要であることは明らかだろう。

 人間生活のもっとも根本的な基盤が集団にあるとすると、ヒトもまた、集団の中でうまくやっていくための心理・行動メカニズムを進化的に獲得しており、そのようなメカニズムこそ、生物種としてのヒトが備えている行動レパートリーの中でも中心的な位置を占めると考えることは、非常に妥当な推論のように思われます。(p18)

 では、群れ生活への進化的適応を果たすうえで、生物種としてのヒトの社会行動や心はどのような仕組みになっているのか。結論的にいえば、ヒトは他者の行動や思いに対して極めて「社会的感受性」の強い動物だといえる。

 ハチやアリのような社会性昆虫のコロニーでは、自分と同じ巣の仲間は遺伝子を共有する血縁者なので、自分の適応度を下げてもコロニーの仲間を助ける行動は、同じ遺伝子を残すという観点から意味がある。進化生物学では、この行動が個体と血縁者全体を含む包括適応度を上げると考える。
 しかし非血縁の相手とともに生きなければならないヒトの場合は事情は異なる。いくら群れレベルで望ましい結果を生むはずの行動でも、当の個人の生き残りに不利になるようなら、その行動は定着しない。ヒトは、他者の意図を敏感に察知し、極めて戦略的に反応する「空気を読む」動物なのである。

 では、どのようにしたら互いに助け合う安定した協力関係を作ることができるのか。
 そこで言及されるのが「評判」の働きである。前出の霊長類学者ダンバーは、人が集まる場所での会話を分析し、会話のほとんどが「今ここにいない誰か」についてのゴシップであることを示した。そのような噂話によって人は他者の情報を得る。それは対人マーケットにおいて重要な選別の機能を果たしているという。
 近年の研究によれば、間接互恵性で見られるような自発的な親切行為や援助行動は、このような言語を介した評判のメカニズムを基盤として、ヒトの心に定着したのではないかと考えられている。

 そのような考察を重ねてきたうえで本書が最後に重要な問題と考えるのは「共感/同感」である。アダム・スミスが「同感」こそは人間社会における秩序の最大の基礎になると論じたことはよく知られている。
 近年、共感とは「思いやり」だけでなく身体模倣や情動の伝染などを含む重層的なシステムであり、その一部はヒト以外の動物たちにも共有されているのではないかと指摘されるようになった。

 一般に、共感には「情動的共感」のほかに「認知的共感」がある。後者は相手の視点を取るときに働くもので、より複雑な機制をもっている。認知的共感は、必ずしも情動的共感のように、いつでも直ちに「温かくやさしい思いやり」を生むものではないが、内集団を超える利他性を発揮するために、欠くことのできない本質的な役割を担うと考えられるのである。

 正義やモラルの芽ばえのような行動は、さまざまな動物たちの集団にも観察される。しかし、正義やモラルが言語という媒体を活かして、多くのメンバーを吸引する力をもつのは、人間社会においてのみである。たとえば、社会運動における不公正の糾弾、革命家の血湧き肉躍らせるレトリックは、人々を広く動員する。

 では政治的存在としての人間を動かす正義やモラルとは何だろうか。その考察が本書のハイライトといってもいい。その具体的な課題として「分配」が取り上げられる。

 限られたモノをいかに分配するか。この分配の原理は、社会・文化レベルの要因によって規定されていることは、いくつもの実験によって明らかになっている。

 大雑把にいえば、市場経済化が進んでいる社会ほど「フェア」な取引が文化規範となっているのに対して、市場取引とは無縁の伝統的社会では血縁や特定の相手を重視する行動こそが「正義」とされる。アメリカのジャーナリスト、ジェイン・ジェイコブズが「市場の倫理」「統治の倫理」という二つの類型化を提起したのは、そうした命題に対応するものといえるかもしれない。

 分配をめぐる道徳規範には文化差があるとすれば、個別のモラルを統合する「メタモラル」を構想するにはいかなる考え方が適切だろうか。本書では、ジョン・ロールズの『正義論』などにも熱く言及しているのだが、結論として「功利主義」を挙げている。

 哲学者のジョシュア・グリーンは功利主義こそが人類共通の基盤となり得ると考えた。功利主義には固有名詞がないからである。「功利主義は、自分を含めて誰かを特別扱いすることなく、人々の平等を前提として『幸福』の総量を最大化しようとする考え方」である。そこで著者は「功利主義の難しさ」を指摘したうえで、グリーンの主張する功利主義に共感を示すのである。

 この結論にはおそらく賛否両論あるだろう。ここに至るまでの論考が多彩なものであっただけに、私にはいささか凡庸に感じられたというのが率直な感想。しかしそれを差し引いても、本書における様々な実験とそこから得られる知見には学ぶところ大であったことは間違いない。一読に値する面白い本であると思う。
by syunpo | 2017-05-24 21:06 | 実験社会科学 | Trackback | Comments(0)

感情が劣化した時代に向けて〜『戦争する国の道徳』

●小林よしのり、宮台真司、東浩紀著『戦争する国の道徳 安保・沖縄・福島』/幻冬舎/2015年10月発行

b0072887_10362362.jpg 三人の論客による鼎談集。第一部は東が主宰する「ゲンロンカフェ」で行なった公開鼎談を活字化したもの。小林と宮台が持説を開陳し、東は司会進行役に徹して発言は控えめだが、冷静な交通整理ぶりが議論の見晴らしをよくしている。二部は一部の討論を受けて三人が非公開で鼎談した記録である。

 本書を貫いているのは優等生的な民主主義論に対する懐疑、といえば言い過ぎになるだろうか。少なくとも「今や大衆は信頼するに足りない」という認識は共有されている。

 そこで興味深いのは、昨今の社会を覆っている憂うべき現象は反知性主義ではなく「感情の劣化」によるものであるという認識である。宮台がそのことを再三繰り返している。

 ……問題は「反知性主義」じゃなく「感情の劣化」なんだよ。道徳心理学者ジョナサン・ハイトが強調するとおり、最先端の実験心理学では、感情が理性を方向づけるのであって逆ではないことが証明されている。感情が劣化しているから知性を尊重できないんだよ。だから処方箋も理性ならぬ感情の涵養にあるわけだ。(p55)

 大衆が劣化した感情で巨大な権力に依拠し、巨大な権力は劣化した感情を容易にコントロールする、という悪循環。当然「感情の涵養」にあたっては一種のエリート主義が提起されることになる。ミクロには理を説き、感情的動員に対しては感情的動員で闘うしかない、というのが宮台の考えだ。

 東もコンテクストは異なるが、クリエイターたちの民主主義的な態度に批判の目を向けている。

 昔は美術や建築といえば、アーティストや建築家が大所高所の見地からビジョンを提示するものだった。でもいまは、まったくそうじゃない。むしろそういう態度は嫌われるのですね。これはあらゆる分野で起きている変化で、とにかく徹底した権威の否定、そして無限のコミュニケーションが正義だということになっている。(p170)

 そこからさらに「当事者至上主義」について批判的な議論が展開される。沖縄の基地問題や福島の原発事故を考えるにあたっては当事者に寄り添うことが一般には是とされるが、ここではそうした態度こそが批判の対象となる。問題を抱えている地元の「当事者」の気持ちを第一に考えることが「行き過ぎると学問やジャーナリズムの自殺になると思います」と東はいう。宮台も同調して次のように述べている。

 ……佐藤優に代表される「当事者主義」は、当事者の多様性を覆い隠して「これが本当の総意だ」みたいなフィクションをでっち上げ、自分は当事者の側に寄り添うかのごとく扮技し、「宮台やよしりんは上から目線で御託を垂れている」という批判をこちらに向けてくるんだよな。(p172〜173)

 琉球人が提唱する琉球独立論、とりわけ琉球民族独立総合研究学会のような閉鎖的な独立運動も当然ながら宮台は厳しく指弾する。重要なのはアイデンティティの確認ではなく価値をシェアすることなのだ、と。

 言論人たる者、多かれ少なかれ上から目線でモノを言う。そのことじたいが問題になると私には思えない。賛同するによ反発するにせよ、本書には優等生の民主主義論にはない小気味よさが感じられる。こういう小気味よさに触れることも私にとっては読書の快楽の一つである。
by syunpo | 2016-03-02 10:38 | 政治 | Trackback | Comments(0)

市場原理が蝕むもの〜『それをお金で買いますか』

●マイケル・サンデル著『それをお金で買いますか 市場主義の限界』(鬼澤忍訳)/早川書房/2012年5月発行

b0072887_113536.jpg 市場勝利主義は今やあらゆる領域に進出してきている。市場原理こそが最も効率的で人間の幸福を最適化するという考えに導かれて。道徳的に善と考えることがらは、それを商品化することでその善の性質を変えることはなく経済効率を高める。ゆえに金銭的インセンティブを導入したり、あらゆる種類の善の受給ギャップを埋めるのに市場を利用することは極めて効果的なやり方である、というわけである。

 だが本当にそうなのだろうか。
 本書では、金銭を払って行列に割り込む権利を売買すること(航空会社のファストトラック・サービス、高速道路のレクサスレーン等)、金銭的インセンティブ(成績の良い子供にお金を払う制度、一定期間禁煙した従業員にお金を払う制度等)、有名人に関する死亡賭博などを俎上にのせて、この問題に真正面から切り込んでいく。

「昔から非市場的規範にしたがってきた生活領域に市場が入り込む」ことの弊害として、サンデルは二つの問題点を指摘する。「公正さの毀損」と「腐敗」である。
 たとえば血液を自由に売買する市場が社会に与える悪影響。血液の商品化は、失業者や貧しい人々などを食い物にする。これは「公正さの毀損」に該当する。さらに人々の献血への義務感が蝕まれ、利他精神が損なわれ、社会生活の積極的特性である「贈与関係」が崩壊してしまうだろう。つまり「腐敗」がすすむのである。

 むろん「非市場的規範にしたがってきた生活領域」にまつわる公共善に対する考え方は人によって異なる。何が正しい規範なのか、意見が一致しているわけではない。問題はそこにある。

 私が言いたいのはそこだ。市場や商業は触れた善の性質を変えてしまうことをひとたび理解すれば、われわれは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わざるをえない。そして、この問いに答えるには、善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議が欠かせない。(p283)

 近代民主主義の言論空間においては「不一致をおそれるあまり、みずからの道徳的・精神的信念を公の場に持ち出すのをためらう」。だが、こうした問題を議論なしにすませておくと、どうなるか。「市場がわれわれの代わりに答えを出すだけだ」。
 私たちにとって重要な問題を市場だけに解決させていいのかどうか。本書はそのことを鋭く問いかけるのである。
by syunpo | 2015-07-25 11:37 | 思想・哲学 | Trackback | Comments(0)