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人間にしかできないこととは〜『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』

●新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』/東洋経済新報社/2018年2月発行

b0072887_19522757.jpg AIは神に代わって人類にユートピアをもたらすことはないし、その能力が人智を超えて人類を滅ぼすこともない。ただし人間の仕事の多くがAIに代替される社会はすぐそこに迫ってきている。本書は、東大合格を目指す人工知能「東ロボくん」プロジェクトを進めてきた数学者の立場から、来るべき未来社会への警鐘と対策を示すものである。

 AI楽観論者が言うように、多くの仕事がAIに代替されてもAIが代替できない新たな仕事が生まれる可能性はある。しかし、たとえ新たな仕事が生まれたとしても、その仕事がAIに仕事を奪われた勤労者の新たな仕事になるとは限らない。現代の労働力の質がAIのそれと似ているからだ。つまり、AIでは対処できない新しい仕事は、多くの人間にとっても苦手な仕事である可能性が非常に高いといえる。

 AIの苦手な仕事は何か。AIは基本的に計算機である。逆にいうと数式に翻訳できないことは処理できない。AIが扱えるのは、論理・確率・統計の三つの言葉だけ。ゆえに文章の意味を理解することもできない。AIが代替できない仕事とは「高度な読解力と常識、加えて人間らしい柔軟な判断が要求される分野」といえるだろう。

 ところが、人間の方もどうやら「高度な読解力」のレベルが相当あやしいことが明らかになったのである。著者が実施した「基礎的読解力調査」の結果をみるとそう結論せざるをえないらしい。

 本書ではその調査の問題や回答の様子が詳しく報告されている。「係り受け」「照応」「同義文判定」という自然言語処理で盛んに研究されている能力のほか、「推論」「イメージ同定」「具体例同定」の能力を調べたものである。詳細は省くが、それらの試験の結果、端的に中学・高校で使う教科書が読めない生徒がことのほか多いことが確認されたのである。

 ならば早急に読解力を養う教育の構築が必要だが、効果的な方法は今のところ見いだせていない。たくさん本を読めばおのずと読解力が身につくとも考えがちだけれど、著者の調査では読書量と読解力との間には相関関係は見いだせないという。

 現行の教育はもっぱらAIで代替できるような人材を養成してきた。しかしいざAIの不得手な仕事をこなせるような人材を育てるとなると、これもまた難題なのである。

 著者が思い描く未来図は、企業が人不足で困っているのに、社会には失業者があふれているという寒々しい光景だ。

 そうした事態を回避する方策として著者は「奪われた職以上の職を生み出す」ことを挙げているのだが、それは言うほど簡単ではないだろう。しかもそこで批判の多い「ほぼ日刊イトイ新聞」の怪しげな物語商法を実例に挙げているのは、いただけない。
 むろんそのことで本書の価値を貶めるつもりはない。それは著者の専門分野を超えた国民的な課題である。AIの研究者に未来社会の労働環境について具体的な提案を期待する方が酷というものだろう。

 というわけで、AI社会の実態と将来性を考えるうえでは極めて有意義な本であることは間違いないと思う。
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by syunpo | 2018-10-02 20:01 | 科学全般 | Comments(0)

失うことで可能性は開ける!?〜『人工知能時代を〈善く生きる〉技術』

●堀内進之介著『人工知能時代を〈善く生きる〉技術』/集英社/2018年3月発行

b0072887_18562168.jpg 人工知能の発展をベースにした情報通信技術のハイテク化は、私たちを常時世界と結びつけ、膨大な量の情報にアクセスできる利便性をもたらした。だが本当に人工知能時代はバラ色の未来を約束してくれるものなのだろうか。

 その問いに対しては二つの態度を想定することができる。一つは人工知能の進化によって人間は単純なルーティンワークから解放され自由を得ることができるとの楽観的な展望をもとになされる「待望論」。今一つは人工知能に象徴される技術の進展を懐疑しあくまでも人間の主体を重視する態度にもとづく「脅威論」。

 堀内進之介はその両者を批判する。「技術の危険性を指摘することができるのと同じだけ、人間の危険性を指摘することもできる」からだ。現代社会をデストピアにしないためには、技術も人間も、どちらも過信してはいけない。それは「技術と人間を截然と区別するのではなく、相互産出的かつ相補的な関係として捉え直すことを意味する」。

 あたらしい技術が「脅威」になるのは、技術それ自体の問題というよりも、サービスとして社会にあらわれる場面で、必要以上に手助けすることでかえって状況を悪化させるイネーブリングの性格を帯び、共依存関係における支配を生み出すときである。

 しかし新しい技術を単純に敵視して、それへのカウンターとして「人間らしさ」を持ち出すことも得策とはいえない。むしろイネーブリングを強化するだけである、という。

 では、技術の便益を最大限に引き出し、現在の技術との関係を刷新するためには具体的にどうすればよいのか。

 堀内はそこで「アンプラグド・コンセプト」なるものを提起する。その基本理念は、スマート化を牽引する「あたらしい技術」を、常時接続による複数タスクの同時的な処理技術の軛から解放し、それらを時空間的に適切に再販分する技術へと転換することを目指す。いわば「スヌーズ機能」である。
 たとえば、休暇中は仕事のメールが来ても「休暇中」であることを伝える自動返信メールを送ることができる技術はすでに多くの企業が導入している。またフランスでは、労働者に「オフラインになる権利」を与える法律が施行されている。勤務時間外は仕事のメールを送受信しなくてよいことが法的に認められたのである。

 そのような「アンプラグド・コンセプト」は、本書でとくに言及されているわけではないが、つながることと切断することのバランスを考察した千葉雅也の『動きすぎてはいけない』の基本姿勢とも重なる点があるのではないだろうか。

 いずれにせよ、堀内のいう「アンプラグド・コンセプト」を支える思想は「技術による解放論」だと言える。「技術による解放論」は、人間はこれまでにも「大事にしてきた物事」を失いながらも、しかし、それによって多くの可能性を獲得してきたという歴史を参照している。そして、この時代でも、私たちは何かを失う運命にあるなら、ただ失うのではなく、やはり新たな可能性が生まれるようなかたちで失うべきなのだ。

 堀内はリチャード・セネットを引用して次のように述べる。

 かつてリチャード・セネットは、ルーティンワークは卑しいかもしれないが、それでも人間を守ってくれると言った。「ルーティンワークはAIに、創造的な仕事は人間に」というのは聞こえは良いが、創造的な仕事は、いつまでも終わらない仕事であるし、人間コミュニケーションも、ときには承認疲れや気疲れを引き起こす、終わりのない実践だ。そうした仕事や実践に、始終邁進せざるを得ない世の中に本当にしてよいのだろうか。(p199)

 そう考えるとき、次の可能性と引き換えに失うべきなのは、他ならぬ「ヒューマニズム」かもしれないのである。
 人工知能に対して、何かといえば「人間らしさ」を持ち出して対抗しようとするありふれた発想から脱却しようとする本書の考え方は私には新鮮に感じられた。
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by syunpo | 2018-08-05 19:10 | 社会学 | Comments(0)

悪人の心には情を、絶望する者には希望を〜『深読み日本文学』

●島田雅彦著『深読み日本文学』/集英社インターナショナル/2017年12月発行

b0072887_19244568.jpg 文学とは実学である。エセ文学的な「言葉の悪用」をする人たちを批判するのが、文学の本来の役割である。文学は神話という最も古い形式から出発して、焼き直しを繰り返しながら時代状況に沿ったアレンジを重ねてきた。……様々なアングルから文学に光を当て、その特長を言挙げすることから島田雅彦は始める。期待感を抱かせるに充分な序章。結論的にいえば最後まで私を愉しませてくれた本である。近頃出た文学論のなかでは出色の面白さといっていい。

 日本文化の伝統を支える概念を決定づけた作品として最初に取り上げるのは『源氏物語』である。その概念とは「色好み」。日本式求愛の流儀と呼ぶべき様々な恋愛パターンを網羅して「ジャパニーズ・ドン・ファン」の生涯を描いた作品として読み込んでいく。
 もっともドン・ファンがあらゆる世界に「敵意」をばら撒くのに対し、光源氏は「友愛」を運ぶ点に決定的な相違を見出す。それは狩猟民的態度と農耕民的態度の差異と捉えることも可能だというのが島田の見立てである。

 江戸文学を再評価するにあたって導入するキャッチコピーは「ヘタレの愉楽」。それは「色好み」の伝統が江戸期の町人によって受け継がれたスタイルとみなすことができる。
 井原西鶴の『好色一代男』は、世之介というデタラメな男の生遍歴を描いた、源氏物語のパロディである。『曾根崎心中』などで知られる近松門左衛門は心中を様式美にまで高めた作家といえる。彼らの作品はいずれも大衆小説であり、島田は「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」であるライトノベルの原型をそこに見出している。「サブカルチャーのルーツこそ、江戸文化にあると私は考えています」。

 近代日本の代表的作家として本書に登場するのは夏目漱石。
 日本近代文学を解読することはすなわち、日本人の精神分析をすることに直結するという認識は『日本精神分析』などで示されている柄谷行人の批評スタンスからの影響を読み取れる。また漱石と写生文との関係をめぐる批評的論考は、同じく柄谷の『漱石論集成』を下敷きにしたものだと思われる。
 漱石の『こころ』に関しては、ヴィクトール・フランクルの「態度価値」を引用した姜尚中の読みを紹介している。先行研究をいくつも参照している点では、オビにある「常識を揺るがす新しい読み方」というコピーはいささか怪しくなるのだが、それはおそらく編集者の仕業だろうから、島田に罪はないと考えておく。いずれにせよここでは道徳的で凡庸な読解は片隅に追いやられていることは確かである。

 樋口一葉は「少女文学の元祖」として読者の前に立ち現れる。今風に言えば「ガールズトーク」から生まれたような清少納言の『枕草子』以来の伝統を継承し、それを「一流の文学にまで昇華させた」実例として一葉が読まれるのである。彼女の文体は基本的には文語体だが、同時代の男性作家に比べると「非常に自然かつ軽やかな文章」であるところに特長がある。しかも現代に通じる社会性を持っている。それは文学史上の一つの「奇跡」ともいえよう。

「スケベの栄光」を文学の分野で輝かせている第一人者として、当然ながら谷崎潤一郎が召喚される。「自分は変態だという自覚をベースに、日本の『色好みの伝統』と『西洋の性にまつわる最新の科学的・文学的知見』をいいとこ取りして文学化した」というのが島田の見解である。
 もう一つ興味深いのは「戦争といっさい関わりを持たない」ことを指摘している点。谷崎は戦争の時代には出番がなかった。遠くに空襲の火の手が上がるのを眺めながら『細雪』を書き、『源氏物語』の現代語訳に勤しんでいたのだ。それはそれで一つの文学者のあり方を見事に示しているのではないか。

 人類の麻疹としてのナショナリズムを文学史のうえで吟味する。そこで参照するのは、志賀重昂『日本風景論』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『茶の本』の四冊。いずれも後世の日本論の思想的な土台となった作品といえる。
 志賀の本は文字どおり日本の風景を再発見したもので「素晴らしい風景や自然風土があるがゆえに、日本は素晴らしいのだ」というナショナリズムは今日のそれに真っ直ぐ継承されているものだろう。内村の著作は日本の優れた人材を取り上げることで、日本人のプライドを高めることに寄与したという。『武士道』は日本人の道徳意識を高め、それを他国に知らしめたことでナショナリズム形成に大きな影響を与えた。『茶の本』は日本人の美意識や感受性を海外に向けて発信した作品であり、そうした文化的プレゼンスもまたナショナルプライドにとって大きな役割を果たしたのであった。

 戦後の文学は「焼け野原の中で、どう生きていけばいいのか」を問いかける作品、もしくは「戦争に従軍し、帰還した元兵士たちの体験録」として始まった。さらに「アメリカの統治下における文学」がある。
 太宰治や坂口安吾の作品が俎上に載せられるが、私がおもしろく感じたのは小島信夫の『アメリカン・スクール』の読みである。アメリカン・スクールの見学を許された英語教師たちの話であるが、この作品における「英語」を「日米安保」に置き換えることで現代日本の様相を見ようとする読解はなるほど「深読み」の標題に適ったものだろう。

〈遊歩者たちの目〉とサブタイトルにふった章では、物語の舞台となる「場所」に焦点をあわせる。漱石の『三四郎』をとっかかりに、武蔵野を描いた大岡昇平『武蔵野夫人』や中上健次の紀州サーガなどに着目。とりわけ中上が描いた一連の「路地」文学を「リアルなファンタジー」と位置づける読みはあらためてこの作家への関心を掻き立てる。

 現代文学を読み解く補助線として、世代や経済、階級に注目する論考も興味深い。とくに、戦後に新しく現れた階級として「主婦」と「学生」に注目し、そこに現代文学の特徴を見出しているのは慧眼であろう。現代文学が学生と主婦を読者層として想定したことは、社会背景として無視できない要素であると私も思う。

 最後にテクノロジーと文学の関係を探る。もちろん人工知能が重要なファクターとなる。人工知能が最も得意とするのはエンタテインメントだという島田の見方は賛同できる。大多数を相手にするエンタテインメント作品は約束事が多いので、人工知能もそのノウハウを学習しやすい。では、純文学に対しては今後いかなる影響を与えることになるのだろうか──?

 むろんその問いかけ以前に、本書で示された読みの企てがこれまでに書かれてきた文学にあらためて向かっていくうえでの道標になることはいうまでもない。

 文学とは時に不徳を極めた者を嘲笑うジャンルであり、権力による洗脳を免れる予防薬であり、そして、求愛の道具でもあった。文学は好奇心を鍛え、逆境を生き抜く力を与え続けてきた。文学は路傍に咲く一輪の花のように、悪人の心には情を、絶望する者には希望をもたらすものゆえ、非道な時代にこそ必要とされてきた。バラ色の未来が期待できない今日、忘れられた文学を繙き、その内奥に刻まれた文豪たちのメッセージを深読みすれば、怖いものなどなくなる。(p229〜230)
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by syunpo | 2018-04-19 19:38 | 文学(小説・批評) | Comments(0)

「知性」の再定義を迫られる時代に向けて〜『人間の未来 AIの未来』

●山中伸弥、羽生善治著『人間の未来 AIの未来』/講談社/2018年2月発行

b0072887_18365112.jpg 異業種対談なるものは、往々にして両者が無理に話を噛み合わせようとするあまりに一般化・抽象化に流れてしまい、思ったほどおもしろくならないことが多い。が、本書はその不首尾を免れた貴重な一冊といえようか。

 論題は多岐にわたる。iPS細胞研究の最前線や大学教育の課題、将棋界の新しい動きや藤井聡太論などなど。二人の達人が互いに相手をリスペクトしながら話を進めていく様子は、対談集ならではの肩の凝らない雰囲気を醸し出しながらも知的興奮をもたらしてくれるとでもいえばいいか。

 そのなかでもとくに読み応えを感じたのはAIをめぐる対話。どちらの分野にとっても関連のあるテーマということもあってか多くの紙幅が費やされていて、リラックスしたなかにも濃密な言葉のやりとりが展開されている。

 山中のユーモアをまじえたトークも楽しいが、羽生の勉強家ぶりにも大いに感心させられた。やはり知的な人だと思う。AIと人間の関係をめぐる羽生の問題意識は、知性が抱え込まざるをえない自己言及的な性質を意識したもので、古くて新しい哲学的問題といってもいい。

「今後、私たち人間は「知能」とか「知性」をもう一度定義しなおさなければならなくなるかもしれません」と秀逸な問題提起をした後、さらに言葉を継いでゆく。

「この分野ではAIは人間以上のことができる」とか「これは人間にはできても、AIにはできないだろう」といった議論をしているときに、「では人間が持つ『高い知能』の知能とは、いったい何なんだろう?」とあらためて考えざるを得なくなると思います。(p91)

 山中はそのような発言を受けてAIは「膨大な知識」を持ち、冷静沈着な判断を行なうが、あくまで「優秀な部下の一人」「セカンドオピニオン」にとどまるとの認識を示す。最終的な判断を行なうのはやはり人間である、と。AIは発展途上のテクノロジーだが、研究者としての現時点での当然の結論かもしれない。

 さらに羽生がみずからの将棋観を語るくだりも将棋という一分野にとどまらない普遍性をもったもののように思われる。

 将棋の世界は「いかに得るか」よりも「いかに捨てるか」「いかに忘れるか」のほうが大事になってきます。たとえば自分がすごく時間をかけて勉強したものを捨てることはなかなかできないんですよ。(p133)

 羽生のこのような考え方は、ロラン・バルトの言葉を想起させる。「学んだことを忘れてゆくという経験」を「叡智」と名付けたバルトの言葉を。
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by syunpo | 2018-04-16 18:41 | クロスオーバー | Comments(0)